義務が幸福より重要だ、とカントが考えたのは、その義務自体が最大の苦痛を伴ったり自己の一般的不幸を意味していても、義務の履行が最高幸福に一致している場合、つまり義務が究極目的である場合に限られる。そこでいう究極目的は、必ずしも義務自体ではない。要するに究極目的は義務の上位概念なばかりか幸福にも超越している。そしてカントの示している究極目的は、正義とほぼ同一視できると考えられる。即ち、カントは正義が義務と一致している時にそれは個人の一般幸福を超越すると考えていた様に思われる。我々は新渡戸が武士道の中に同様の特質をみいだしていたのを発見するだろうし、ムハンムドがコーランで述べる類いの決死行動の義務もイスラム教徒の生活様式を維持する互助を目的とした正義であると思われる。
博愛や慈悲は正義の一般形にすぎず、性愛すら博愛に含まれるなら、キリスト教や仏教にいう愛や慈悲が、正義という上位概念の部分なのは明らかだ。
人類の究極目的が、幸福や義務の上位概念である正義だとは、余りに一般的に流通しているが故に軽視されたり曲解され易いこの概念が、想像だにしない重要な深淵さを持っていると示す定義であろう。そして正義を実践するのはそれを理論的にみいだすより難しく、ある言行がロールズの格差原理としての最不利者の利益最大化を目指していたとしても、必ずしも正義に的中しない。不正の反対概念、或いは卑怯と無慈悲の中庸としての正義は、最も洗練された利他性を意味している。正義は理論的には正論、実践的には善行であり、技術的には功徳である。人類の中で最も得がたいが目的の人格は、正義の人なのが単純な真理である様に思われる。正義感は可能な限り生涯の長さに渡って維持されるべきで、時や空間によって的中を目指して異なる形でも認識されるが、それが正義である事は確かでなければならない。
正義は支持者の多少で決定されず、個人の良心のみによって判定される。千万人と雖も吾往かんと孟子がいうよう、全人類が己の感じる正義に反する場合でも、ひたすら良心の命令に従った場合のみ真の正義に的中できるのだ。よって正義は語本来の意味で独善であり、それが単なる思い込みや勘違いに過ぎずよりよく利他的でない場合を除いて、究極のところ或る人の善意のみに端を発し終わりまで良心によって完成される。勧善懲悪が神性に期待される全要素の中で最重要なのは、正義の人格が最も神格的だからで、我々の良心は嘗て神性と定義されていたのだ。人型を持つ神という上位者を想定しなくとも、今や人類は自らの意識に良心という自己犠牲をも辞さない正義の概念を認識するようになったので、利己という本能と戦うこの理性的自己像こそ、最も神々しいとみなしてよい。諸々の聖者の内に立って、己の生涯こそ最も尊い正義に殉じたと自己欺瞞なしに誇り得る人は、しかもそれが確かな事実なら全聖者らから当然称賛を受けるだろうし、仮にそれらの聖者らが既に死後であったとしても尚、良心の満足において人生の究極目的を果たしたといえるであろう。未来に出現する新たな聖者は、もし彼らが勉強家であったなら、記録された範囲で或いは想像し得る限りこの人の正義を学習し、よりよい正義を更新するであろう。だれからも知られず死んだ正義の持ち主は歴史に名を刻みはせず、発見者もいないまま忘れ去られるとて、その良心が真に利他的であったなら、やはり安らかであろう。