2018年2月19日

愛国心について

卑しさは思考習慣や感情の方向性であり、卑しい人は利己的である。卑しさは雑多な人間のうちに悪人が必ず混じっている都会での生育や、親や保護者を含む家庭環境が幼い頃からその人に染み付かせた言行の形式であり、愚かな人の場合はのちに偏見に満ちた情報によって強化され差別意識をうみだす。一般に都会で生まれ育った人や、都会で生活する人、すなわち都会人は卑しい。悪徳生活を実践するべく都心に巣食い、最も利己的で堕落した存在としての皇族閥は中華思想や自民族中心主義のみならず、祖先崇拝による自己神格化をはかり、全国民を搾取の為の納税奴隷にさせている悪意と偽善の権化である。大分から大阪、江戸・東京で生育した福沢諭吉が利己的で、『脱亜論』において愛国という概念でアジア差別や欧米贔屓を行い恥じなかったのは、彼が卑しい人間だったからに他ならない。福沢は当時の政情をいいわけにしていた。しかし同時期に、不利な立場に置かれたアジアの連帯と互譲を説き、野蛮な欧米諸国との堕落を是認しない岡倉天心は『茶の本』において、福沢より遥かに現代的で尊い態度価値を示している。愛国者はみな卑しい。福沢が『文明論之概略』で述べる偏頗心は公共に関する利己性と正に相関するので、卑しい人ほど自国の優越を妄信し、他国を蔑視する。
 ある人がくりかえし特定集団から被害を受けた時、その集団に共通の特徴を憎悪なり忌避するのは自然な学習である。実際に共感知能や利他性に多少あれ欠けた集団は存在するからだが、この集団の共通項とみなしうる特徴は、現実には必ずしも厳密ではないかもしれない。ある人が偏見や差別意識を持っているとき、その内容は単に利己性を糊塗した後付けの理由が殆どであろう。卑しい人達は己の偏見や差別意識を捨て去る事が難しいが、それは彼・彼女らの過ごしてきた生活環境がこの特定集団からの被害を防止したいという利己性に反する事例を持たなかったからに違いない。ここにおいて慈愛と利己は矛盾する。一方、害他的な人へ感じる侮蔑の念は、害他と解釈される行いが被害への制裁だったり、悪徳持ちへの防止行為だったりする場合を除いて、利他心を含む。つまり寛容や他者の利己・利他性としての徳性に関する理解は、自らの利己心をのりこえた後認知(コウニンチ)よってしか得られない。そして卑しさの反対概念としての尊さが、この後認知の程度に由来するのが明らかである。
 最も卑しい人は、いずれの場合でもより利己的にふるまう。この最卑人の対他関係は、他国や他人への偏見と差別意識でできている。一般に、右翼は卑しい。それは利己性を反省するほど彼らに後認知の知能がないからであり、この利己性は愛国主義、自民族中心主義、自文化中心主義、侵略主義、帝国主義、中華思想、世界征服願望や独裁主義などといった姿をとり、神道はその諸々の害毒の結晶である。すなわち神道教祖である天皇を自称する人物はその先祖並びに末孫たる自己崇拝によって世界一卑しく、究極に害他的である。天皇やその邪教たる神道に洗脳された衆愚が卑賎極まる利己主義者であって、差別や偏見をまきちらす低知能かつ野蛮な極悪人達なのは必然であり、これらの神道集団が大衆ぶって多数派につき、数の暴力をはかって悪行を実現しようとするのはひたすら他者を害したがる単なる悪意に他ならない。そしてこの卑しい人達は、自らの利己という悪意を覆い隠す為、できる限り自分を多数派で一般人かの如く装おうとするべく全体主義的弾圧をはかり、正義や善の全てを個人が持っている限り冤罪にかけていく。共謀罪による思想信条内面の決めつけで、ある人の思いを悪解釈した末に、悪意ある衆愚は善良の個人や少集団を圧殺していく。ナチズムとか結束主義と呼ばれる傾向は、究極のところ衆愚のもつこの卑しい傾向である責任回避性、自責のなさ、赤信号皆で渡れば怖くないという諺に示されている愚鈍性に由来し、その最たる発露が皇族閥、自民党閥、神道信者や愛国者、民族主義者といった人々の示す自画自賛や訳なき高慢であって、これらの愚者は利己心をのりこえられた試しが先ず一度もなく、将来にもないであろうことは彼ら自称右翼による他者への害悪が証明していくだろう。これらの人々は単に他者へ害をなすことを抑えられない。だから常々より不幸になる。それも、自由であるがゆえに自ら選択して移動できる動物であってさえなお、利己的な人々の群れた悪環境の都会にたかり、更なる害悪をなす卑しさが彼らの本性、すなわち生まれ持った反面教師たる資質だからなのであろう。