2018年2月16日

懐疑と信仰

人が快楽の束を他人本位に定義している時、人生の目的は自己の内面的完成から離れてしまう。ミルが自伝で社交界を蔑んだ事は全く正当だった。幸福の定義を問い直す事こそ、真に自己本位な生の過ごし方である。しかしこの為に社交より内省が役立つのは明らかで、他人は比較による自己省察の契機になるにすぎない。
 何らかの媒体を使った社交も、その本質に哲学的目的がなければ、単なる暇潰しよりもっと悪い結果を伴う。そもそも立派な教養や徳性の持ち主は、大多数を占める俗衆間では苦痛を感じるものだから、例え媒体の上ですら表に出たがらない。内省的な人達が賢さについても、品性や道徳についても最高度なのは、大規模な社交が多数派という反知性的な反動による時間の浪費、もしくは害悪であって、極めて卑俗な人こそ大衆の人気を集める芸能人と言われるゆえんである。
 ミルのいう質的快楽が、道徳性とほぼ同じ集合になっているのは、快苦の質を利他性と漸近させたからだ。アリストテレスのいう個性の卓越が諸々の幸福の最高位に観想を定義したのは、人類の道徳性の最上限を拡張する事を理想化したからだ。啓蒙思想は人類の道徳的底上げを図ろうとするが、その啓発や教育は学ぶ者の自発性や習得能力によるので、人類の一定数に対する単なる方向づけにすぎない。この法施的洗脳は、もし自己批評的でなければ、常に反哲学的であり宗教行為である。いいかえれば、請われていない教育は単なる宗教であり、その本質は教団づくりによる思想や信仰の同質化である。義務教育は宗教に違いなく、その強要によって、明治、大正、昭和、平成の各神道政府は日本国民に均質化を図った。非典型性の間にある反省力こそ進歩の原因なので、この均質集団たる凡愚な学位保持者はみな、停滞と退歩の原因に他ならない。逸脱者を排除したがる同質衆愚は、単に洗脳された神道教団である。明治政府は外様の無教養や皇族の中華思想特有の恥知らずな傲慢さの為に、日本国を植民地化し全国民を奴隷化するのに、天皇政府を狂信させる洗脳を用いようと義務教育をあみだした。これに対して真の啓蒙は、人々自身の意欲に基づいて学ぶ時に生じる。そして哲学の本質は、過去の知識に基づいてその超克につとめることだから、啓蒙とは本質から反哲学的なのがわかる。福沢諭吉の様な啓蒙思想家らが後世から軽侮されるのは偶然ではない。彼らが愚民扱いしている言説は、悉く後生の否定対象だからだし、当時彼らが民衆を惑わし、大いに誤った方へ誘導していたのは、啓蒙が宗教行為でしかないからだ。
 観想が質的快に結ぶのは、それが哲学自体を目的にしている場合であり、決して啓蒙を目的にしている時ではない。幸福が観想に極まるとすれば、人は道徳の上限を高める事に集中するべきだ。もし教育者や啓蒙家、宗教家、あまつさえ革命家や政治家を目指そうものなら、即座に堕落する。自己のもっている偏見や錯誤を修正し続ける態度のみが知性であり、道徳性は更に、あらゆる現象についての懐疑による持ち上げを手段にするので、信仰を啓蒙することは矛盾するからだ。