全徳の存在が人類の理性、大脳の働きに利他性を完成させるよう望んだ、という感覚は、神らしさに賞罰の特徴を与えてきた。実際、幼児にとって庇護者たる親は賞罰の主体であるよう、人類の親と想定された神性は、人類がより利他的で非害他的な存在たる時に賞を与え、より利己的で害他的な存在たるとき罰を与える主体である。しかし皇族を自称した独裁血族は洗脳した手先達にふるわせる暴力を独占する事で、神性を偽装しだした。この為、皇族が不徳、非公徳的、不道徳的である時にも、皇族の利己のため善を罰し、悪を賞するという悪政が行われた。各国の皇帝、教祖、教皇、王、貴族、公家、武家、資産家、労働者、暴力団、悪党らは、暴力を独占した程度に応じて堕落する誘因を得て、事実、権力を濫用していった。こうして人類はますます全徳から遠ざかる結果になった。
全徳は元来、利他性としての善を賞によって、害他性としての悪を罰によって報いる言行の傾向をさらに強化する誘因だった。堕落した人類、愚民、衆愚、そして退廃した皇族や権力者、資本家や労働者達にこの事は今や理解しがたく、関西の蛮戎は侵略や裏切り、民衆弾圧や虐殺、強姦といった悪が賞賛され、人助けや正義、博愛や慈悲、自己犠牲、忠誠といった善は重罰されるべきだと妄信するのである。彼らの脳は徳の意義を認識できず、皇族閥や暴力集団に従って己の悪を強化する事のみが人生の目的だとはき違えるのに十分なだけ出来が悪く、愚かである。
全徳が一部の恵まれた脳の人類のみに宿る兆候だと認識するべきだ。この特徴を強化してこそ、人類より優れて進化した段階の生命体へ、それは今日の目から見れば神そのものだが、品種が改良されていくのだ。蛮戎たる弥生人達の脳には、全徳の芽が備わっていない。だからこそ皇族閥や薩長土肥の悪業を賞し、彼らの害他的蛮行の被害を受けた人々を罰しようとするのである。弥生人の子孫はますます悪しき、卑しい種族に退化していく。それは悪徳を強化し、ますます害他的で下賤な、皇族の様な邪悪な存在に種を変化させる事が彼らの悪意を実現すると信じられているからだ。京都人が性悪さを選好するのは、彼らが邪悪かつ陰険な性格を理想視しているからであり、その悪趣味は彼らの子孫が永久刑務所の隅や不幸のどん底に落ちぶれる事を予見させる。性悪に関わる者は不幸をばらまかれるからだ。それは皇族の末路が世界で最も不幸である事と等しい。