小型の社会場、たとえば家庭、近所、学校、会社といった国やその連合の内部のなんらかの共同体でも、独特さへのある程度のゆとり幅と同じく、そこには法治原則にのみもとづく善悪の誘因が働く。道徳という誘因は、単に内省の将来予測の才に還元してしまえば、社会秩序の中にはみようとしなくてよい。それは心理の側面にのみあてがえる。道徳の非科学性は法案論に及ぶ形而上学についての、一種の推論のよさに従うので実証主義的には歴史哲学の批評に結果としての真理の度合いを求める他ない。
社会誘因には次の三つの法則がみつかる。
一、原始的な農耕段階にある孝行の規則。
二、進歩史観を特徴づける工夫の規則。
三、情報化に伴う理論の規則。
これらの推移には文化対数の基本法則内にかなりのばらつきがみつかる。と同時に、それらの推移はたしかに論理的な段階をふむので、一旦先に進めばもはや以前の規則段階への回帰はまず起こらない。但し、強制植民などの撹乱効果に応じた多少の揺らぎと逆行はしばし見つけられる。ともかく、ゆえ都市化の過程がその場の工夫段階にあるなら、当然それをすでに通り越した情報化の社会誘因からはおよそ再び都市化への逆法案はもちだされなくなる。且つ、おそらくこの理由は、いわゆる文化逆数: 1/Sの比例が文明の両極化をなんらかの場の偶有か一帯に及ぶ特定の環境負荷によってふせぐ原因となったことによる。なぜならこの種の情報化誘因があてはまるのは農耕化にも十分に進めるほどに地帯生産性(この場合は人口比分の肥沃さが殆どだろう)が高くないか、都市化に及ぶほどの人口密度についての一つ以上の魅力が欠けているという過疎にも繁盛にもかたむかない原因があった所になるから。
上述のごく原則的な三分割の間にも数かぎりない変化はあるが、なおも社会誘因としてみたときなにが善悪の基準となるかについてまったくことなる変形を被るという社会科知識の裏付けは、我々が地域や時期によってほとんどちがった生態をみたり実現したりするのを古い倫理観の混入で過ちだと考えるはやとちりを戒める分には有効。