科学知識の系統論は何れ無効化するだろう。それらには発生系列の合法則性や順列の規則が明らかでもなく、しかも知識の集積が地域毎か個性質に免じた特有の学習適所への寄り掛かりでしかなければ、科学は体系にではなく範畴に理由づけが行える訳。だからもし科学体系を完成させたくば史的順位制度によってではなく、到達決定さの巧い組み上げによってそうした方がいいか公にはそうすべきだ。もし順位制で、つまり先取権争いの面で科学を追い駆けると、範畴の完成度という知識参照の規律でいえば進取の気象の弊害をそれらの行き場なさ、また不整合さで補っても尚不足する。
人文地理学の決定論的側面はなぜ知識参照を固有の文化体系下で、即ちなぜ一言語種を通じて行わせるかを、正当化の偏りという固有の言葉遣いで詰め込ませる。自然地理学の合法則化は理性的にみれば偽であり、それらの現象率は確率の概念を現代でいう量子論風の目的感覚で薙ぎ倒す幾らかの暴威を含まざるをえず、結局は主観原則を全くとりのぞける訳ではない。超長期の目でみれば自然地理学は合確率式でしかありえないだろう。ゆえ自然計画の実利という一種の仮定勘定、審美論の概算は深慮論の勘違いされた理想主義でもあり、もし真しやかに賢明な選択眼のある学者が現れればかれは自然感覚の非人間感性化、つまり偏見の除去を多くの地理分析へも当然適用せねばならなくなるだろう。