東アジアで使う食器に、夫々の発生学が見つかるのは偶然でない。
殆どの古い発明は広域な文化圏をもっていた中国由来だが、その中で箸と飯碗については明白な文化色が潜む。中国では西暦二千年前後でも象牙による古代の風習だろう痕跡がのこっており、これは磁器のまがい物のプラスチックにいつの間にか取って代わられているが、いまだに習慣としての皮膚感覚はその白亜色を愛顧している。又、白磁の発明はそれをおそらく煎茶の色味を試すところを起源とする汁物の基調にし、他の食器にまで浸透させた。南方アジアの油っこい食事はすみやかな清掃可能さを保存させたがる。そして亜熱帯気候での暮らしは特有の旺盛な活力を余儀ないものとしているので、将来も白磁器に代わる碗はその洗浄処理の予感にまつわる色彩感覚への慣れを有り難くするだろう。
朝鮮では儒学のみの厳格な国教化のもとで、贅沢に及ばずながら肉食が普通だった。その為、食器類は油脂分に加えて時に生煮え含む血の気ある肉類をできるだけ清浄に処理する利便性を求められた。日常に金属製の碗が用いられるのをよしとした主な原因は多分そこにある。今日でも、あらゆる国で金属製ボウルは肉類の料理に役立つのが見られる。又この向きは箸の選び方にも及び、更にどちらかなら飯碗の利便が先だったろうが、この文化誘因は彼ら朝鮮民族の風習自体を独特なものへ変えた。熱い飯や汁類の食事にあたって食器を手に持たずに終える事が正式とされ、儒学の教えは残し物を最も先につくられた食べ物の大部分を支配する家父長の権威づけへ援用させた。これらは、おそらくはじめは偶然ながら共に熱容量面から後片付けの冷めた食事を極端にする背景色をもつことに注目できる。
日本では茶碗と彼らが呼ぶ別の変形がみられる。最初は朝鮮を経由して得た大陸の文化要素は、島国の孤立の中でゆっくりと発酵し、かなり特殊な風土にぴったり適合するまで作りかえられる。彼らは先ず飯碗に改良を加え、それを熱を通さない木製にしてしまう。これは全く突飛な考えで、大体の文明圏で元からある素焼き土器の風土とも接合点をみつけ難い。恐らく仏教の伝来と先覚者・聖徳太子による工夫された布教がそのきっかけだった。仏教徒は彼らが節制と質素を旨としたいくらかの穀物と草食だけの生活を奨めたので、従来の油ものへの対策は不要となった。最小限の托鉢道具はずっと軽さをよしとしていく。そこでつゆものと彼らがいう水分の浸透圧を調整するべく、器物表面に漆塗りを施すだけに納まった。更に、箸類もこれに追随した。しかし漆は平滑面を繕いすぎる由縁で、こちらには昔からある白木製かもしくは木肌の摩擦力を損なわない簡素で人体無害な、少しく気の利いた塗装だけをよしとしがちになる。象牙箸はここでは渡来した観光品としてみやげものか、何らかの特殊な儀式様の格式張った品物になった。鉄製の箸は作り添え易さからあからさまに便宜に叶う鍛冶屋の産業用か、火鉢の隅に重さの為たやすくは失くされない風趣ものに転用された。近代では、おそらくは町人が賑わう驚くべき生態学から生まれた割り箸といわれる、最大限の清潔を保てる使い捨ての木箸も発明された。
何気ない一文化産物が別の文化圏には発明のきっかけになる。一時は占領された朝鮮半島へ流れ出した楊枝と呼ばれる日本風のてのひらに乗る小型の一本の槍の様な木箸のかけらは再びその場を改めて、肉食の伝統ある風土で家畜の為の残飯分解がうまく運ぶ様に最初から酸化され易い改造された脆い木製素材になっているらしい。逆に、日本圏では近代化の中でえたプラスチック素材で元来の清潔への信念のために簡易な装飾、たとえば野菜や洋剣、ダガーをまねた可愛らしいしつらえと共に使い捨てを前提として、真新しく造型された。物そのものは小さいが、象牙を模造した前に述べた同じプラスチックによる中国発明の製品の趣とは、母国従来の形にさえこだわらない斬新面で著しい対称を為しているのが観察できる。
彼らには器物を持ち上げるのをあしとする風習は、木製器物の発明や改良、それらの伝統による文化条件のゆえまるで一般的にならなかった。相隣接した風俗は詳細な比較検討に及ぶ反面教育作用のため強い逆向きの力線を望む傾向がある。朝鮮で信じられているのとは逆に日本では寧ろ、熱さを感じない碗を持たずに食事をするのは犬飯ぐらいという形容句が示す様に品がないか、よい習慣でないとされることすらあることがその一例を裏付ける。
風習の伝来に当たっても中国由来の多くの製品の文化素が殆ど原型をおもいだせないほど変形や改善だてられている事実から、影響がしばし発明への機縁になる、という文化間化学反応とでもいえるだろう発見は、そこで趣の様々な風物詩に限っては東アジア圏の文化史的に真だったと見える。たとえば茶碗という短いが、大変な珍しさを込めた言葉がいかにそれを示すだろう。
薬用からの流用で徐々に洗練を加えて行った、もとは有閑で高位な読書人の風習だった生きている余裕をおぼえる為の喫茶という中国で生まれた東洋文化は、最も古くは漢方薬として遠く舟に乗って、或いは朝鮮王朝の有閑層であった両班に属する歴史の表だった頁からは深山の向こうへか隠れた文化人づてにでも極東の島国へ伝来した。遣随や遣唐使および対馬をもとに行われてきた朝鮮外交官を通して日本の貴族達はそれをはじめ食事後の儀式として用い、次第に庶民へ伝播した習慣が飯碗の中へ御飯粒を残さぬ様、彼らへ勿体なさという粒々辛苦の縁起説の敷衍を理に一つの個々人なりの罪意識の感謝に任せた洗い桶として恵んで行ったのだった。彼らはこの伝来を起源とした面白い風物をとても高貴な精神を含むと感じつつ紛れもない伝統芸能に値する世界として茶道へと昇華して行き、まずまず標準的といえるだろうある決まった型がみえるまで整えた。茶室という特定の建築様式や、いうべからざる方法論を彼等の独創性と職能本能に関して継いだ幾つかの由来ある家がその格式高い保存をつかさどっている。現代でも日本人がこの興味深い芸能界の風習を日常生活の隅々へ持ち込んでいることは飯の碗をなぜ実用および他の世界でさえ元は炊いた米をよそう為の道具でしかない筈なのにお茶碗と呼んでいるのか、また日常茶飯事というこなれた言葉にまでみいだせる。この化合の一例にまつわる退屈かしれない由緒にはしきたりについての高度な趣味観がもう幾らか知れない高徳な世代を跨いで結晶しているらしい。