自分は相当長く生きてきた。随分長いので生きすぎなのかもしれないしまだ半分も生きていないのかもしれない。でも、どちらにしても、自分はこの生命の中で存分に生きてはきたのだが、とにかく色々あった。それらを十全に表現しておくのは難しい。しかし、ここではとりあえず、この文章の形で残しておこうと思う。
最近僕は口語によるラジオを試していた。でも、やっぱり自分はどちらかといえば文章の方が好きらしい。口語は口語の独特の特徴があって、それでしかできない表現といったものがある。でも、文語によるそれとはまた違う。それで自分は文語のそれの方が向いている様に思われた。ただ以前も書いた事があるが、口語表現の長所から学べたこともあるので、自分としては文語へ戦略的にその成果をもどそうと思っていた。
言文一致体というものをつくりあげた運動があった。明治頃の文豪らがやっていたわけだ。しかしここで自分はそれらとはまた違う形で、別の口文一致体といえる文体を確立しようとしている。最近試していたのはそういう事だった。
まぁとにかく、今後も書くかはわからないけど、とりあえず自分の人生がどんなものだったのかをもう一度ふりかえってみようと思う。自分はもう40歳くらいになってしまうのだけれども、その間にやっていた事は殆ど勉強だった。ちょっと断言してもいいけど、自分より勉強ばかりしていた人ってのは人類史上で一人もいなかった可能性がある。自分の場合、それでも十全な学習環境があったわけでもない。ただ手当たり次第に、自分に手に入る範囲で網羅的、体系的に学問を完成させようとしただけだ。しかしどちらにしても、その志はかなりの所まで遂げられてきているとは思う。
哲学の内容がまじるかもしれないが、とりあえず自分に分かった事として、自分が長らく謎としていた、なぜこんなに世の中に悪人とか愚者が多いのかだ。それは、なにか理由があるわけではなくて、ただそれがありのままのありさまなのだった。これに気づくのは本当に大変だった。自分はなんでそんな現象があるのか測りかねていた。要するに、それというのも、ただそれだけであり、別に理由とかみいだされる類の問いではなかったのだ。愚か者がいるのはそこに愚か者がいるからだ。同語反復。
我々はただその様な環境にうみおとされた。陸な人がいない。だから苦労しつづける。生涯そうだ。人生の大体の課題は、陸でなしとの戦いだ。特にXこと旧ツイッターの陸でもなさは、嘗てないものだ。殆ど2ちゃんねるレベルだが、それもこれも、日本が衆愚の国だからだ。匿名なのも彼らのたちが悪い事しか示さない。
要するにそういう意味では、この島国にうみおとされたことそのものに間違いがあるので、我々に治せる課題ではなかったのだ。
陸でもない人々が都会に集まっているのも、単にそれだけのことで、陸でなしの集まりというだけだ。我々はなににつけ、その様な現実現象に何らかの理由づけをしたがる。でもそうではない。陸でなしは現に存在するのだし彼らは別にほかの理由をつけて、移動しているわけではない。単に彼らは彼らの行動原理に基づいて動いていて、ある結果に至る。それはとりもなおさず、陸でなし現象とでもいいうるが、要はある目的に向かっての動きで、しかもそれはただ結果をもたらす。だから結果だけでみているかぎり、世界は或る秩序を伴っているが、その秩序自体が理由なのである。我々は自分が解釈し易い形で結果を観ようとする傾向がある。だがそれはあとづけで理由を捏造することにすぎない。ありのままの姿がそのまま答えなのだ。
偉大な精神の人々は必ずしも都心部に住んでいなかった。ところが下らない人々は必ず、都会人の方が田舎の人より優れているといいがちだ。少なくともそういう中華思想を主張する人々が異様に日本には多い。特に自分がみていたかぎり関西地方に極端に多かった。それは単にその集団が愚かだからだ。そういう集団の主張は、ほかにも学歴差別だの、地域差別だの、民族差別だのありとあらゆる差別のオンパレードで、とかく何でもステレオタイプにあてはめてみて便宜的にわかったつもりになる、といった思考類型をとりやすいのである。だが、現実はその様になっていない。都会の方が犯罪率が高いし。
それで自分はこないだ関西地方の人々に4人から5人くらい、Xで話しかけられた。関西人と話す事は余り多くないからやはり色々感じる所があった。正直、関西地方は遅れている。その遅れはもうとりかえしがつかない気がした。多分これが真理なんだろう。未来の人がこの文を読んだらそうわかっているのではないか。人々の意識に現れている諸現象が自分にそう確信させた。
まぁとりあえず、こんな感じで毎日何か書いてみようと思う。自分は文章を書く事が好きなので、必ず何か書けるはずだ。別のしごとで忙しくて暫く書けなかった時期を除くと、このブログだってもう約20年位書いている気がする。毎日くらい。ほぼ日まで厳密じゃないけど。好きこそ物の上手なれというけれど、たしかに、自分は文を読み書きするのがほかの人より遥かに好きだという事は間違いない。一度、英語でもやろうか試してみたのだが、あるいは漢語で。やはり母語の方が流暢性が高かったので、この方がやり易い。でも、日本語と今は呼ばれているこの言語が、自分は結局は、肌に合っているのかもしれない。でも、標準語そのものには一部の違和感があったから、最近はそれも改良してるのだが。