2024年2月2日

ド派手美学の地味好みとの対比的批判とハレの解放を伴う若者参加祭りの提案

東京人一般、いや殆ど全員は「そとづらを飾る」こと、虚飾に評価の目的を置いている。その中身がなんであれ、彼らの虚栄心が満たされれば途端に褒め始める。
 この種のうわべさは、「粋」と呼ぶ美意識の頃からさして変わっていないのだろう。

 明治維新は天皇一味が虚飾の地位にある事を正当化した。

 しっかりした中身を伴っていない何らかの対象でも、東京人圧倒多数はそれがマスコミやSNSなどで話題になっていさえすれば礼賛してしまう。つまり、彼らの評価軸は、他人本位かつ群衆本位なのである。
 しかもこの評価が簡単に変転するのは、評価の軸そのものが単なる風評を元にした虚構だからだ。

 日本国憲法前文に「国際社会で名誉ある地位を占めたいと」あるのは、やはり、戦後東京政府の出発点が、同じ虚飾を目的にしたものである事を示している。彼ら日本国民は国際的に自分達の評判を高めるとみたら、成人式を荒らす北九州ヤンキー特攻服でも途端に、180度手のひら返しで大礼賛し始めている。
 天皇一味はこの点で戦後、純粋な「お飾り」で、実権をもたされるべき存在ではない。政治的実力とは全く無関係に世襲の虚飾を建前で継続しているにすぎない彼がもし絶対権力を三度握る事があれば、日帝時代の様に、その全体主義僭主政治は最悪の結果に至るだろう。
 志村けんの馬鹿殿様の様なものだ。

 京都市長選挙の荒れ模様も、彼らの究極目的が虚飾にあるせいで、市民が殊に外聞を気にして揺れているのである。千年の都とは或る種の威勢にすぎない。十数万年の歴史があるわが国からみたら彼らは新参者なのだから。平安時代を継続したがる強い願望は、自称「京都」の面目を張る為の暗闘に繋がっている。

 武士道は名誉を上位の徳目に置いていた節がある。新渡戸稲造の分析はかなり真を穿っているかもしれない。武士の「面目」を保つ為に彼らは、メドベージェフが多少誤解を含みつついう通り、時に切腹していた。新渡戸が同名の著でいう通り、名誉の徳目は美徳と一致していない限り空転し易かったのだろう。
 水戸の支藩からでた大名の血を引く三島由紀夫が、あからさまな虚飾の作家だった事は余りにも有名だ。尤も彼の美学は確かに日本文化のある面を抽出してあって、特に外国人の間では異文化情緒への好奇心から人気もある。彼の切腹には反米独立の精神が宿っていたが自衛隊はクーデターに呼応しなかった。

 東浩紀氏が宮﨑まきこ氏の成人式衣装記事を礼賛していたので*1、以上のよう私は考えてきた訳だが、以前自分は似た内容を読み既にこう考えていた。
「きっと東京勢はじめ日本勢は手の平を返すだろう」
1)
1. https://twitter.com/hazuma/status/1752934874116411748
2. https://president.jp/articles/-/77478
3. https://twitter.com/makiko_miyazaki/status/1752936937852444777
4. https://twitter.com/makiko_miyazaki/status/1752938207917101239
(𝕏投稿アーカイブ集:
https://archive.is/yu8CL
https://archive.is/oOssa
https://archive.is/CFMFx


 これらが私に教えるのは、この国は少なくとも東京や京都といった集団では道を誤っており、それは彼らの中に確固たる評価軸がない事に起因している。更に深掘りすれば彼ら自身の奥底に、固く信じる信念、信仰の主体性がない事を意味している。皇帝や王族をまねる天皇一味の虚ろさも同じ点に遡れるだろう。

 北九州などの成人式を東京勢がマスコミぐるみで「地域差別」文脈にしたて中傷してきたのは、一部の人が乱暴な不良行為で式を荒らすからだ。渋谷ハロウィンなど都内での青少年による蛮行は常態なのに、「地域差別」報道で特定地域だけことさら治安が悪いかの様な印象づくりで悪意ある炎上商法をしてきた。主に東京圏の衆愚向けなので、その放送法に違反する偏見報道でも特に倫理違反だとは、東京圏住民の間だけでは感じられていない様子だった。共感知能の低い浅はかな人々は他者の立場で物を考えづらい。
 この種の自文化中心主義が虚飾の賛美に至ると事は悪質になる。それが特攻服手のひら返し報道だ。
 確かに地域文化としてデコレーション・トラック的に独自進化した派手な衣装を作り続けてきた池田雅氏は偉大なファッションデザイナーなのだろう。
 この事が深刻なのは、彼女の孤軍奮闘の奥にあった前衛精神の偉大さ自体ではなく、ニューヨーク側に審美かつ道徳判断の主体性を譲り渡す無節操さぶりだ。

 自分は、美術論の面で軽蔑している東氏とやりとりする気は皆目なく――自分は超平面派やサブカル手放し礼賛系の連中が日本を完璧に堕落させてきた人でなしだと真剣に思っている――、宮﨑氏の人情味に訴える記事も読み手を感動させる構成と演出の才能を感じるが、ここにあるのは、国民道徳と美学の問題だ。

 なぜNYで人気だと途端に偉い事になるのか。それは服飾業がいわば美術の下位分野(実用性を伴う応用芸術)として、NY様式へ依拠しにいっているからだ。
 岡倉天心がみたら無粋だと言ったと思う。派手というのは実際、九鬼周造のいう粋の対極にある美意識だった筈だ。ド派手のキッチュさが奇妙なだけだ。
 ユニクロもロンドンとかNYとかに店を出す事で、英米側で受けてるから様式を変えてきてたと思う。はっきり言ってその後の様式の方が劣っていると思う。安物なのが良い所だったのに、GUにその座を譲り、ユニクロはこじゃれロンドナーが着ても違和感がないブリティッシュスタイルぶりだしてうざくなった。

 服の好みは小さな事の様だが我々は常時着るのだから、ほぼ全人生に関わる。池田氏の独創性に疑いはないが、NYで受けてれば途端に偉い、とはならない。それを美術でいえば村上隆が自慰像ばらまけば偉いとなってしまう。全く主体性がないからそうなるのだ。ド派手さ自体や式典荒らし自体の議論をすべきだ。

 宮﨑氏がどんな立場から出てきた人かさっぱりしらないが、恐らく、京都人の門川大作氏がこの様子みたら発狂する可能性の方がはるかに高いと思う。イケズ連発で真の評価と逆の反語的お世辞も一つの文化なのかもしれないが、本音では甚だ下品だから和の着物を誤解させると言うと思う。それが事実でもある。
「日本文化の入り口だからいいじゃん」
これが着物とかいう小うるさい人で埋まっている自称伝統服――実際は呉の国のまねから始まっているから呉服ともいう。それ以前の時代の服とも違う訳だから――の人々の耳にどうきこえるか。どうきこえようが常識ぶっ壊しちまえばいいといえばそうだが、異形ではある。

 全体として、僕は派手なものが一般に嫌いだ。蜷川実花氏のやつとかとても苦手だ。新海アニメとかも毎回吐き気がとまらなくなる(本気でだ。だから途中でみれない)。僕は「感覚的過度激動」というギフテッドの可能性がある。東京の電車の中でも派手な色の広告ばかりでいつも気分が随分悪くなっていた。
 自分が西日本に旅行して神戸の駅から降りた時、街のネオンが朝鮮側で好む色彩っぽくて彩度がほかの地域より高く、余りに夜景がギラついているので本当に気分が悪くなり、二度とそれ以来行かないようにしている。
 だから僕からすると、池田氏の衣装は殆ど好みに合わない。薄鼠色とか渋いのがいいのだ。偶然にも、わが国の伝統的美意識とも似ていると思うのだ。その僕の色彩感覚は。昔、東京品川の知人が言っていた。表は普通だけど内側の縫製が真っ赤な財布もってると。それが粋だねと通じ合っていた。
 米軍にびびって誰も言えない雰囲気だから先に書くけど、池田氏の衣装は粋ではない。「ド派手」だ。さきに書いたがデコトラとか、内国ヤンキーなるものの美意識というのは独自進化しており、それは一種の戦国期の一部の美学に繋がるものがある。日光東照宮とか伊達家の墓とかだ。だから「ド派手」の系譜というのは確かに以前から国内にあり、そっちはそっちで続いてきたのである。しかし王道ではない。

 粋については江戸の美意識として独自進化したもので、地味好みという要素があると九鬼の『いきの構造』に書いてある。さっき書いた。その点は、和風なるもののかなりの部分にみいだせる洗練の一般形式なのだと思うのだ。
 中国や朝鮮は隣で原色を使っていた。だからこっちは中間色や地味な色を使う。

 僕がいち美術家として、しかも色彩を毎日真剣に(冗談ぬきで命懸けで)使っているひとり画家として死ぬほど気になるのは、このド派手美学がNYで受けてしまったがゆえに和色の地味で或る繊細な側面が踏みにじられはしないかとの危惧である。同じ事は美術分野でもう起きた。村上隆一派が牛耳ってしまった。アニメ分野でもラッセン的色彩感覚で俗ウケしている新海一派が大体牛耳ってしまった。これらは、僕みたいに、色彩感覚が極端に鋭敏で、ド派手なのをみただけで刺激が強すぎ吐気する人にとっては地獄化を意味している。そんなの少数派だからといわれても、実際やってたが傷ついた眼鏡使うしか対策がない。

 自分は色彩の専門家側にいるのは間違いないので、この様に、激しく啓蒙する義務を感じてこの論考を書き始めたのである。
 日本の王道美学は地味さの追求にある。これが事実だ。起源は隣国との住み分けだったかもしれないが、美術品の中で審美観にまで高められ、ぶっ壊れたり茶色で古ぼけてる物を尊ぶ。

 式典荒らしについては、ハロウィン暴走や乱痴気騒ぎもだが、それをカッコイイと思わせる人達が悪い。というか少年の頭には世界構造が複雑すぎ、大人側に入れない疎外感や親離れの必要から反抗しがちだが、その非行度が各時代で違う姿で現れる。今は自殺や自傷も多いが、性売買やOD含む姦淫の類もある。

 したがって池田氏の特攻服賛美がリアル荒らしを正当化し、加速させる懸念もある事はある。単に服飾自体の審美要素を冷静に議論すればいいだろうに、明治以来の欧米劣等感のつもりなのか、NYで称賛!凄い!的東氏の二重に反王道的な浅はかぶりには僕が激怒してもおかしくはないと思うのだ。しないけど。
 式典荒らしや反社会的非行イイネ、とはならない。迷惑かけられる側がいるからだし当人達も自滅していくだけなので、いわゆる負担理論で、危険度が高い事をやって俺ツエーといいたいだけなのだ。それに発情するメスがいる構図もほかの動物と共通している。ある限度でとまる。過度の示威でしぬからだ。

 以上で思うのが、私は池田雅氏の独創性はあると思うが、
一、地味さに比べてド派手さは特殊な美意識である
二、したがってニューヨーカーを誤解させる
三、逆輸入式の権威づけに負けず冷静に批判すべき
だと思う。
 村上隆の時もその種の策略をやられたが美術業界は殆ど騙されなかった。反発が強くて。村上隆氏は最近京都で展覧会やろうとしてるから、今後は自称文化首都(笑)の連中がどう彼を評判するか知らないが、日本ではパチモン扱いというのが森美術館や美術手帳除く一般の雰囲気でいる様な気がするしそれは大まかに間違っていない。宮崎駿氏がサブカル王道なのに比べ、パクリ輸出業者なのだから。

 非行については、東京都内含む各地で成人式やハロウィンその他を荒らしてる子供って昔でいう「ハレ」の日に羽目を外したいみたいな、祭りの解放を求めてるんだろうから、その種の暗い時代での要請にこたえられる装置が明白にないだけに、単に行政権力や報道で弾圧すれば終わるって話でもない気がする。基本的にはミュージシャンやアイドルその他のライブだの、コミケだのの別イベントが「ハレ」の不満鬱屈ガス抜き機能を代行してるのだろうが、資本主義に回収されているだけに、貧民が混じれないのが問題だ。よって行政が各自治体単位できちんと安全に暴れられるお祭りを作る、というのが重要な気がする。

 最初の考察に戻ると、この衣装問題は根本に憲法前文の評判目的や天皇一味の馬鹿殿様的作り事を含む、日本の主体性のなさ、国民哲学の空虚さをはらんでいる。欧米に追いつけ追い越せとか意味がない。日本は日本の道が本来ある筈だ。そうでなければ米国の州にでもなればいいのだ。美も自分が判断すべきだ。
 欧米に幾ら褒められようが自分が空っぽなら何の意味もない。東氏は以前からその種の空虚ぶりが彼の師匠筋にあたる柄谷行人らから指摘されていた(『子犬たちへの応答』など)
「たんに、何か派手に有名になりたいという根性があるだけだ」
今もぴったりあてはまるのではないか。

 宮﨑という人は東に褒められたら有頂天の様子だが、全力迎撃し、「いや。地味のがよくないですか?」「和服で特攻ですか?」「あなたの服飾美学についてなるだけ長い論文を書いてどうぞ説ききかせて。少し納得できたら全力で、それへ批判論文を山ほど書きまくるから」と飽くまで詰めまくるべきだと思う。なぜならわれらの国は米国の属国ではないからだし、NY勢の下になんて置かれたくはない。中国が馬鹿でかくともずっとそうやってきた。独立心を失うくらいなら死んだ方がましというのが先陣だったのだから、後進がそれに倣わずしてどうするのだろうか? 三島も死、山上徹也も死、ではNYには媚びるのか?

 因みに、さっきの記事で、少なくとも写真に乗ってる範囲で、自分がみても結構いい様にみえるのは銀色のだけだ。最初の次だから地味な方だったんだろうけど或る種のクールさ、涼やかさに向かった工夫に見え、美意識としてみてもそこまで変ではないのではないか。場面次第で十分美とみてとれる範囲と思う。紅白歌合戦の小林幸子の衣装的進化の系譜の方は、或る種の「チープな豪華さ(矛盾しているが形容としてはそんな感じと思う)」が凄い事は凄いのかもしれないが、立派な技のうち高品位の世界が一般に参考にできる色彩感覚ではない様に思う。絵だとその種の色味に近いと単にキッチュ、紛い物と評されうる。

 少なくとも、僕や大勢の経験からいって、東一味を美術界に召喚するとろくな結果になっていない。津田大介さんも、ひろゆきがいう通り素人だからしょうがないんだろうけど凄く荒らしてしまった。伝説ではあるかもしれないが現役でみてた範囲ではお行儀悪さはチムなんとか一派や会田誠一派と似通っている。
 縄張りに部外者が入ってきたらどの動物だって警戒したり、身に危険が及びそうなら攻撃したりするであろう。この場合、美術界はきちんとルールや作法の様な物があり、とりあえず過去作なる先行研究の束な美術史文脈に沿ってなんか言ってみて、となっている。東一味は又反則風のちょっかいだしにきた訳だ。
 服飾業界は好きにやればいいけども、僕は少なくとも色(より緻密には物質反射光と発光)の技である絵の世界に自分のテリトリーがあり、その中でも色彩感覚について唯の欧米追従で、国単位の悪影響を及ぼされると大迷惑となる。だから東一味がド派手美学礼賛でまた荒らした以上、厳格に批判しなければならない。

 東一味は「あいちトリエンナーレ2019」で愛知県単位の少々歴史あった芸術祭を事実上、炎上型崩壊又は自滅させ形を変えざるを得なくさせてしまったという企画側としての前科があるのが公的な美術批評面での実力だ。黒瀬陽平氏の職権乱用疑惑系ゲンロン内紛係争で彦坂尚嘉氏に喧嘩売ったのも記憶に新しい。何度も同じ手を喰らってはいけない。東氏個人が少なくともオタク美学分析の旗手として東京商圏のうみだした人気批評家だったとして、美術界がその人気にあやかろうとする宮﨑氏級の諂いとその余波で、三度荒らされまくるのはちっとも望ましくない。通俗評など真の美学論争の前ではどうでもいいのである。