2023年2月12日

なぜ一部の人がJ-popを攻撃するのか?

J-popを馬鹿にする人を自分は全人生で4名みた。
1、茂木健一郎
2、ルパート・ウィングフィールド・ヘイズ
3、てんちゃん
4、みき

茂木の意見は、この音楽様式が軽薄な恋愛詩が多すぎ典型的で同じ様に聞こえるといったものだ。
 第一に茂木個人の恋愛劣等感は他人には関係ないのでそれは問題外だが、恋愛詩自体の内容の真剣みとか深み、その他、様々な恋愛感情の表現を軽蔑する様な仕草というのは、ある種の生真面目な生徒にありがちなものだ。自分も中高生の頃はちょうど反抗期になっていて、安直な恋愛感情に皮肉交じりの反発を感じる事もあった。『ニシエヒガシエ』で恋愛を動物視する様な形で。いわば恋愛感情は人間性の一部で有性生物が帯びる本能の一側面として捉えられねばならず、それを否定して回るのは単に人間憎悪にすぎない。ロックやパンクなどでの恋愛憎悪に共感を感じるのは、ヒトの動物性を容認できない思春期らしい感情の一側面で、より大人になれば恋愛表現自体をメタ認知できる。
 J.S.ミルは自伝で、当時の合理主義的な教育方針により、あらゆる感情を動物的で劣った要素として抑圧するよう親からいわれて死んだ様な気分で生きていたが、思春期に詩を読んで生き返った様に感じたと書いた。
 いわば茂木はまだ、この人間の自然な感情の蘇生をされないまま、年老いてしまった人である。

 J-pop文法に一様性があるのは、大衆の好みの中央値へ最適化しているせいだ。出自としてカセットやCD隆盛期に商業的消費商品として企画された様式で、一定の短時間にCMやドラマの挿入歌などで使い易く、カラオケで誰でもまねられる音程に近く作曲される。一定の手軽な旋律をもつ「サビ」の節が必ずある。小室哲哉がシンセサイザーなる新楽器がもたらしたピアノ楽曲の可能性のもとユーロビートの影響下に作ったサビ旋律をもつ作品群が典型例だが、他にもバンド構成によるビートルズ風大衆歌を全く別の多様性に応用しヒット量産してきたMr.Childrenの楽曲などは、極めて規範的にJ-pop文法を使いこなしている。
 彼らの創作は茂木が言うよう下らないものとは到底いえない。単に独創性が甚だ高いので、他国で理解されるのが遅れているだけである。楽典自体が分からない茂木はこの事に気づけないのだ。小室音楽を売り出したレコード会社avexなどが十分大きな国内市場を取った為、他国へ売りに行く動機がなかったのだ。

 ルパートという人については日本語が陸に読めないと言っていた。従って日本語歌詞が分かっているとは思えない。それは歌を聞いていながら音の構成にしか理解が及ばない様なものだ。だが彼は音楽構成そのものの理解も欠けているので、芸術における独創的分野の意義が分からないまま生きているのである。ルパートの英国人独特の嫌味ったらしい皮肉が、彼らの中では知性の証かの様に思わせる、ある種のスノッブ表現もあっただろう。それでマンホール装飾など審美的デザインに金儲け効率より低い価値しか認めないBBC記事の感じから、陸に知りもしないだろう芸術分野に口を出し、低自由教養の尻尾が出ている。

 てんちゃんはこう言っていた、「もし典型的J-pop文法があるなら自分はそれを絶対使いたくない」と。もし北海道に移住した彼があのピグ民の彼だったら、最近はそのJ-popを弾き語りしてる様に見えるので、意見を変えたのだろうか?
 思うに売れる大衆歌は十分な分かり易さがある。だが売れる必要はない。

 みきについてはボカロ世代なので、それ以前の古い音楽に聞こえるのだろうと思われる。確かにボカロ楽曲はJ-pop文法をそのまま流用したものだから、楽曲の構成そのものにはさしたる変化はないにせよ、歌っているのが機械音声だ、という点に違いがある。「こぶし」の様な微妙な音声変化が抑制されている。

 以上が僕がみた全J-pop批判者らへの反論だが、結局、彼らの理論的視座は、全員がJ-pop楽典への攻撃になっていない。茂木とルパートは、単に楽曲づくりの副次要素な国内向け大衆音楽市場規模を、英語圏その他の市場規模より小さいので楽曲としての質も低いかのよう悪意で混同させ、辱めている卑怯者だ。

 自分は音楽を単に甚だ愛好するばかりか楽典の歴史的本質ごと研究してきて、現代前衛音楽の創作者の一員でもあるから、ある種の確信を持ってルパートのBBC記事を見た瞬間に、上記の事柄には気づいた。だが彼にその事を教えるのは極めて大変そうだった。彼の周りに同調する茂木もいたので余計厄介だった。茂木もルパートも典型的スノッブだといっていい。スノッブとはケンブリッジ大などで「部外者」の靴屋を指す意味で使われていた学生言葉だったようだが、今では上流気取りの見栄っ張り屋を意味する。彼らは上流芸術に通じているふりをしようとしたのだ。

 確かに音楽は既に古代ギリシアでも古代中国でも自由教養の一部にいれられていたほど出自がいい芸術分野と考えられている。昔の教養人は、数学的比率に基づいて楽音をならせば魂が清められるといった解釈で、理性的に考察されるべき人間性の不可欠な要素とみていたのだろう。
 だが現代音楽は幅広い。
 J-popも当然ながら民芸、あるいは大衆芸術の一部を構成している。それは民衆の心を表すもので、全てが低俗な内容とは限らない。多数支配の体制をとる今の政体の元では、天皇がX JAPANのYOSHIKIや、EXILE、三浦大知らの楽曲を秋元康に記念式典で披露されるなど、大衆歌の学識も民意を捉える重要な手段だ。

 全ての音楽様式のうち、なぜ茂木やルパートがJ-popだけを狙い撃ちにして攻撃したのか。この答えは彼らがスノッブだから、で終了だ。上流気取りの見栄っ張りの為には低俗なものと一般に認識される対象を攻撃していれば、自分が一般大衆とは違う特別な上級国民だと示せる、と彼らは無意識に踏んだのだ。