2021年9月15日

天皇家の末路

1.善なる自集団結束の為の悪なる異端排斥という利己主義的な欺瞞に満ちた善悪二元論の決めつけについて

 ネット右翼・ネットナチスの傾向をもつかそれに同調している人々あるいは単なる右翼と呼ばれまた当人らもそうと自称している人々は、余りに単純思考で、全か無かの善悪二元論を自己中心的にとりたがる。彼らは自分達の何らかの観念論と対立していると彼らが見なすなんらかの異なる思想・良心の持ち主らへ何らかの汚名を着せ、つねづね迫害しており、集団虐待・集団虐殺したがる。
 彼らはこの善悪二元論をいわば同調圧力のなかで狂信しており、しかもその善悪判定がどれほど冤罪・ぬれぎぬでも構わず、結束暴徒的に相手の属性を「反日」「国賊」「朝敵」などの彼らのなかでは汚名とされる属性にあてはめ、なかば魔女裁判であれ誰それ構わず集団虐殺をしたがっている。彼らはこの点で著しく稚拙、且つ、邪悪である。現実には極めて彼ら自身ひとりひとりのためになる様な相手やその考え方でも、いわば右派の内ゲバ(内部Gewalt、内部暴力)として、絶えず粛清していっている。この行動原理は、右派一般が自分達の結束主義を強化する目的で、彼らの集団内で異質・異端と見なした相手を排斥することで自集団を団結させるためおこなっている集団形成の生理作用であり、現実には右派一般の現実政治状況にあたっての思考能力には限界があるので排除対象が真の悪や愚かさあるいは彼らにとっての不利さと異なる場合でも、常時働く機能になっている。

 1923年(大正12年)関東大震災時に流言飛語をうのみに罪なき朝鮮人あるいはそうと決めつけられた中国人、関東地方外の出身者、進歩・革新主義者らを進んで集団虐殺した警察と暴徒のおこないは、およそ間違いなく、この右派の内部暴力としての異端排斥を民族主義に向けた例である。今日の目では「民族主義」自体に欠陥があったと知られているため、罪なき人々へのぬれぎぬによる余りに卑劣な、自称普通の日本人なるもの(関東および長野・福島人なるもの)からの集団虐殺事件として回顧されているが、現実には、右派による異端排斥を目的にした自集団ひいきの妄想が、震災時の不安に乗じて暴走した事例といっていいだろう。
 東京都知事・小池百合子氏はこの歴史的悲劇に対する追悼を、それまで歴々とおこなってきた都知事の地位からしなくなった。そして都内には民族虐殺の扇動を新大久保界隈で公然とおこなった都知事候補・桜井誠氏を支持するネオナチ系の民族主義者が現に18万人近く存在しているので、潜在的に、歴史的反省を怠る小池氏の東京ネオナチ仕草は、最大の犠牲者数がみられた都政として*1、もしその種の極右に媚びる目的であったとしても、単なる権力闘争のための権術手段と福祉の最大化をめざす行政目的とをとりちがえた、ひととして誠実性に欠けたものと国会議員政治団体および左派らに非難されるだけの理由が確かにあるのである。そしてここにあるのは、ネオナチ系極右票にへつらう小池氏の良心の異常な欠如による、大正当時の都民から異民族と見なされあるいは魔女裁判・ぬれぎぬで殺された無実の人々への純然たる悪意(害意・事情通)以外なにものでもない。

2. なぜ右派集団のなかで異端排斥作用が生じるか

 ネトウヨ・ネトナチをふくむ右派一般は、彼らの維持不能な過去の理想へ固執する自集団を結束させるためだけに、無数の犠牲を内発的に欲する。右派同士でも小競り合いがあり、権力闘争の形で異端排斥作用がみられるのは、究極の所、彼らがいわばイジメ集団の様に自らの不良さを含むあらゆるおこないの理由づけ――但し彼ら自身のなかでは疑う余地もなく信じるべき教義――を正当化するに、常に生け贄をつくりあげなければならない構造があるからだ。悪、不正義、敗者と自集団から一方的にみなした犠牲(スケープゴート)の陶片追放をくりかえさない場合、彼ら自身が善や正義、勝者側などの正当性をもっているかおおかれすくなかれ疑わしくなってきて、自集団の結束が弱くなりあるいは自壊したり解体されたりする事を、群れて一時的安心をえる存立基盤の不安に駆られた彼らはおよそ最も恐れているのである。
 右派一般の殆ど本能的に使う基本文法であるこの異端排斥は、右派なるものが、その集団意識に於いてとある社会慣習、つまり伝統を維持しようとする自他への無理強いから生じている。伝統ははじめ、哺乳類として自由な自然状態で全く何もないところから突然おこなわれた何らかの行動の癖だったろう。単なる無意識の生物本能をこえれば、ヒトなるものは意識にあって、生まれながら特に何も指定されていないからである。このとある人の行動の癖が次第に自集団へ広がると、それが同一集団間で世代を跨いで伝承され、模因として定型化され、遂にはなにゆえその行動系列がその集団内では当然と考えられてきているか、自集団には反省的に再考されないほど刷り込みが激しくなっていく。こうして何らかの風習が一集団内に定着していく。しかし時代の文化環境は、常に内外の技術的要因の相互作用などで少なからず変化していかねばならない流動系である。この流動性に逆らい、特定の癖をその合理性を問わず継続しようとするところに発生するのが、保守主義という根本的に成立しえない空理空論なのである。
 もしあるひとが伝統の永続を信じたがるなら我々は世界史を紐解くべきであり、そこでは亡びてしまった文明が幾多もあり、同じ文明圏でも時代を経るにしたがってあまたの社会慣習が変化した例に事欠かないのを発見するだろう。それにもかかわらずかなりの期間つづいてきた何らかの慣習もあり、それがその集団では伝統とみなされている一方、この特定の癖が永続するという信仰は、滅亡した文明にあっては結局成立しなかった。実際、世界史の舞台ではいかなる文明も永続した試しがない。地球最古の文明をどこに定めるかだが、拝火教集団をその一つの起源と見なした場合、パールシーとして現役で続いているが、この集団は減少傾向にあって少数民族化している。日本にあってもし縄文期以前の文明をそうとみなせば、縄文文明は平安期に渡来系侵略犯の桓武天皇一味から破壊され、この文明の一部を近代まで維持していたアイヌ文化は、やはり明治天皇一味から事実上断絶されてしまった。しかし地球各地では拝火教も縄文・アイヌ文化も特に広まっていく傾向になく、風前の灯火というほかない。したがって伝統を尊重すると称する保守主義者は、これらのより古くから続いている何らかの行動系列を広めるよう努力しなければならない筈だが、逆に、ヒンドゥー教やイスラム教、飛鳥時代の674(天武3)年そうと名乗り始めた天皇一味(『改訂新版・世界大百科事典』「天皇 てんのう」)による奈良時代発(712年『古事記』、720年『日本書紀』発)の神道のよう、新参者の伝統破壊文明を伝統ととりちがえ、誤った保守性を狂信している始末である。当時の考古学に限界があれば常に懐古運動が自己矛盾しているのに加え、ミトコンドリアアダム・イブやそれ以前の生物まで遡っていけば、最古の生物として藻(シアノバクテリア)やその元素である炭素にたどりつき、或いはそれらの最古らしさがさらに科学的に更新されていき、遂には何を保守すべきか保守主義者自身にも理解できなくなってくるだろう。すなわち誰かが伝統と呼んでいる対象は、保守主義者自身が恣意的に決めつけているものにすぎず、彼ら自身に不都合なより古い慣習や癖が出てきた時、それをやはり異端排斥という形で無理に退ける事で、疑似的に成立させようとしている虚構の嘘、いわば途中で何となくそれとなくつくられた同質の自己欺瞞を疑わない利己的な愚か者のあいだで信じられている紛い物のなれ合いにほかならない。事実、地球最古の行動系列を従順に守り続けている藻らからみれば、ヒトなど既に伝統を改変しすぎ同じ生物だと名乗るのもおこがましい堕落した進化の成れの果てにすぎず、そのヒトが何らかの保守をするとほざくなど、以ての外の伝統破壊事態というしかないであろう。
 右派一般はこの種の成立不能な教義のいづれかを、少なくとも彼らの意識がつづくかぎり自他をだましだまし続けようとする。それというのは、自明な慣習と考えられている何らかの行動系列を、そうでない何らかの新たな行動系列に置き換える合理性について再検討するのを、知的に怠っているからだ。また、当然ながらこの知的怠惰さがなんらかのわけで特に生じやすい人が、ことさら右傾し易いのである。ゴードン・ホドソンらが2012年"Bright minds and dark attitudes"で低一般知能と右傾した観念論の間に正の相関があるとした見地は、根本的に、同一集団で伝統と呼ばれる社会慣習となっている或る癖について相対的な知的怠惰さによるうのみを楽と感じがちなのが低一般知能側の特徴という、保守性について基本的に推測しうる事象に符合している。その集団内で過去の常識を疑いさえすれば、より合理的な慣行が無数にありうるのに、既におこなわれてきたより不合理な癖をいつまでも続けたがる人は思考停止しているのに加え、そもそも不条理な伝統をやめる以前に、その様な彼らにとって当たり前と考えられている癖を直すのを苦痛だと感じることもある。勿論これらは程度問題で、高一般知能の人にとってもその様な慣性が究極で働いている筈だから、或る社会でより進歩的な新しい習慣が、その集団を益する形で次々できあがる様に他集団と比べて見える場合は、一般化すれば、単に高一般知能の人々が比較的多いという特殊条件が恐らく有用である。したがって人類全体に同じ視野をあてはめた時、特定の国の一部にこの様な進歩主義の集団ができあがるとしても、それは偶然そういう非伝統的な革新派が一か所に集まっただけで、ある習慣が成立しても別のより優れた習慣が別の観点からみいだされたらこの集団も解散されざるをえないだろうから、究極のところ、絶対的な進歩は同一集団という単位では成立しないといえるだろう。また高一般知能であっても何らかのよりよい新習慣に逆らう考え方に陥りがちな人物、或いは自集団より優れた習慣に至る考え方をもつ者も当然いて、彼らは集団単位をすくなからず免れるだろうから、これらの進歩集団がおのおのどれほど賢明でも、個々人に特有の限界があるのだろう。最高の進歩性はこの意味で、個人単位を必然に要求する場面がある、あるいはいづれの集団性をも逸脱するというべきである。そしてそれは保守主義者にとっては最善の――見方によっては、実現不能なので最悪の――保守性が、全人類に同じ、特定時代の特定集団に於ける正否の価値づけという旧態依然さをあてはめたがる全体主義を要求するのとは、対照的というべきだろう。

3. 保守主義の例――イングランドの場合

 エドマンド・バークは、保守性という知的怠惰さを言い訳し続けた。そして保守主義という現実に即さないイングランドの慣行を理論的に裏づけてしまった。身分差別、人種差別のよう人権を理解していなかった中世同然の考え方を、イングランドの王族まで現代に至っても執っているのは、彼らの知的怠惰さをのみ意味している。

 もし彼らを反面教師とする事が許されれば、我らは常に自明な慣習と考えられている事の全てを、絶えず疑い直し、より合理的な行動系列へとそれらをくみかえ、あるいは置き換え続けねばならない。
 漱石が「洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰って来た。日本人が英国人を真似ろ真似ろというのは何を真似ろというのか今以て分らない」と書いた時(1906(明治39)年10月23日 狩野享吉宛て書簡)、潜在的に彼がイングランドのあちこちに遍在していたその種の知的怠惰さをみてとっていたと考えても、あながち的外れではないかもしれない。

 我らの中には程度として、記憶との照合による懐かしさという感情がある。成程、懐かしさを感じる対象を脆くも破壊されたとりかえしがつかない悲しみは、人間的である。保守主義に唯一の合理性があると認められるのは、この懐かしさを感じる対象が、当人にとって望ましい結果をもたらしていた場合である。この懐かしい対象が現実に維持可能であったとき、かつ他者へ害をもたらしていなかったときに限って、何かしらの古物への懐古趣味を持ちわせている事は自由の範囲にある。しかし当人に望ましくとも他人に害をなしている様な古い慣習を、当人にとっての懐かしさだけの理由で維持しているのは、明らかに公害である。但し、懐かしく、しかも他害のない対象が壊れて自損をもたらす場合も、時間の経過とともに記憶が上書きされ、悲しみは薄れていくかもしれない。
 けれどもこの伝統となっている対象の維持だけで今では多大な費用がかかり、それどころか人道を害するまでになっている時、これを維持しようとする考え方、即ち保守主義は単なる非人道主義に過ぎないだろう。

 イングランドでは少なくとも議会が一度は弑した王政を、別のオランダ貴族ウィレム1世をもってくることで名目化してすりかえた。このすりかえられた新たな王はいわば伝統という名の鳥かごにいれられ、およそ想像のつくかぎり永年にわたってイングランド議会の操り人形となる地位に合意したので、自律を奪われ、政治的虚構の演芸人となったのである。この様な伝統がおおやけに維持されているのは、イングランドにとってバーク観念論が現役で生き続け、もとがフランスからの征服者による侵略王権にすぎなかったものを、いわば無批判に後生大事に奉る構図を、議会に属する人々が自明のものと疑わなくなってしまったからに過ぎない。仮に議会にとって名目的な王を世襲で演じさせている方が、護国卿クロムウェルの様な新たな専制君主の出現を未然に抑止する機能を有しているとて、いつか、議会と新首相が合致して虚構の王権ごっこを撤収する日が必ずやってくるだろう。この名目王政というものは、当人達のなかではもはや古めかしくなった中世の誇りを補完する保守的慣行だが、客観的にはコンコルド効果によって埋没費の回収ができなくなった状態で、経済上血迷って続けられている世迷い事にすぎないのだからだ。あるいはまたもし名目にすぎないとすれば、特にそのための費用を負担したくない人々のためこの虚構の王政はおおやけの政府の外で、貴族の私的費用や寄付で続けられるべきだし、それはどこまでも演劇にすぎないのであるから、なんの政治的実権も与えられるべきでないのは誰の目にも明らかだからだ。

4. 保守主義の例――日本の場合

 日本にあっても、形式こそ対極的だが、似た事があった。わが国では欧米列強からの植民地化の脅威を受け、当時の江戸政府の御三家首脳陣(称副将軍)であった徳川斉昭(烈公)『弘道館記』による祭政一致論によって、天皇の王権神授説に基づく儀式たる祭りごと・祭事が、政府の敬うべき最古の王室で神道祭司長の国事と一致する象徴的な役割と定義された。それは江戸時代いまだ令制国下の諸大名連邦状態であった日本列島の統一を、列強による分割統治の未然防止目的で急ぐ必要があったのに加え、烈公を含む後期水戸学派のなかで、各日本政府はこの神聖政治(神権政治、神政)の名目を国体として護持しながら、民衆に仁慈を施す愛民政治をすべきものと考えられたからだ(会沢安『新論』)。
 しかしこれらの天皇の祭司としての存在、即ち国体が名目に過ぎない事は、薩長藩閥が恐怖主義的な明治寡頭政治で台頭してから、近代政治史上次々証明されていったというべきである。後期水戸学と同様の大義名分論(君主無答責のなかで最高公徳の代職者としての忠臣の勤めを水戸の徳川家は家臣団と共に果たすべきとするもの)を奉じていた徳川慶喜を、小御所会議以後、西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視ら奸臣国討ち勢は政権簒奪目的に、中央政界から戊辰戦争などを伴う無理をしてでも退けた。こうして西郷が西南戦争で自滅してのち、三浦梧楼や伊藤博文ら吉田松陰門下の反天・無政府・恐怖・侵略思想をもつ長州閥の面々は、彼らを支える薩長土肥らの藩閥と共に、彼らの地元でつぎつぎ起きる士族反乱や民主主義を求める一般民衆を武力弾圧しつつ、心行くまで天皇藩屏を偽装しながら、自らの恣意をどこまでも押し通す寡頭政治を公然とおこなうことができた。それというのも、薩長土肥ら西軍は、慶喜という大義名分論の持ち主を彼の臣下・松平容保らと共に――朝敵のぬれぎぬを着せたり江戸放火で一般市民の命を人質にとって脅したり、北陸・関東・東北・北海道・沖縄侵略をおこなったりしつつ――国討ちの武力で脅すなかで政界から退け、まだ10代で幼く政治的判断力をもたない明治天皇を、弱腰の代理人・摂関家を専横するかたちで、みずからの傀儡にまんまとできたからである。慶喜は伊藤に「(尊皇の大義について、水戸徳川家代々の)家訓を守ったにすぎない」と語った(渋沢栄一編『徳川慶喜公伝』4巻、逸事)*2。一方で、伊藤は有栖川宮熾仁親王の前で操り人形の真似をし、皇太子ことのちの天皇のでくとしての地位を、寡頭政治集団の一員である自分の傘下にあるかの如く、からかっていたのである(エルウィン・ベルツ著、トク・ベルツ編『ベルツの日記』)。しかしながら、天皇家もまた結局、伊藤ら奸臣というべき西軍勢力に担がれる形で権力の座に舞い戻った事を是とし、無理に汚名を着せ辱めながら国事の主力たる地位から追い落とし財産すら強奪した犠牲者としての親族である慶喜らを陥れる新明治政体に安住したのが事実である。成程天皇家は、明治天皇が成人し判断力を身に着けてから慌てて慶喜へ公爵位を与えたものの、それは伊藤と同じ爵位であり、結局はみずからをでくにして国内で政権簒奪目的の非道な内乱罪をおこなった西軍の諸蛮行を罰するより、いくら実質的傀儡とはいえ、天皇として全権を新たに与えられた自分の保身のために臣下をこずるく利用したにすぎない。明治天皇は、いかにも源平合戦などでの過去の天皇の例にならった、お家大事のご都合主義の行動をした、というべきだったのである。そしてこのことは、戦没者を祭る靖国神社へ朝敵・賊軍あつかいでぬれぎぬされ続けている会津戦争や奥羽越列同盟軍側の西軍侵略被害者を合祀させないという判断で、薩長土肥らをはじめとし西軍に与した郷土史をもつ西日本人保守派ら一般とともに、神道を牛耳る形で、天皇家を教祖とした絶対教義としていまだに続けられている歴たる人道犯罪の事実なのである。
 令和の代にあって、2021年に開催延期された東京五輪に伴う、新型コロナウィルスの感染拡大を今上天皇(徳仁氏)が憂慮されていると宮内長官の発言があった際、日本第一党首の桜井誠氏が御内示(天皇の意思)に従い五輪中止すべきだと発言した(『日本第一党 桜井誠 グッドモ~ニングジャパン 2021年7月16日』、該当部分のきりぬき)。他方で、ラーメン屋(自らそれが本業と称する)・作家の竹田恒泰氏は、天皇の意思に何者かが従うのは絶対にあってはならない事と述べ、いわゆる天皇に国政の権能(日帝憲法でいう全権、即ち天皇大権)がない、とする憲法解釈をもちだし、桜井氏の純粋尊王論を否定した(『桜井誠さん、お答えください。私は五輪利権と無関係であり、貴方の発言は看過できません!ついでに貴方の大御心を語る不敬についてもお話ししておきましょう。|竹田恒泰チャンネル2』などでの発言)。

 憲法の趣旨からして、天皇陛下の「御意向」が政治を動かすことは許されない。
――竹田恒泰
『天皇陛下「生前退位」 NHK「御意向」報道の憲法的問題 竹田恒泰氏』2016/8/10 17:01、産経新聞

竹田氏はこの趣旨であれば、戦後憲法下で天皇メッセージによって国会全会一致で成立した退位法も、天皇大権の発動として非難しなければならないことと相成る筈だが、彼は退位法の方は公然と容認してきている。要するにここにあるのは明白な二重基準で、名目としての天皇の地位とその政治性が竹田氏自身の政治的意思と合致する時は天皇の意思をほめたたえ、反する時は国政の権能がないとの憲法解釈を持ち出し天皇の意思とその地位に伴う政治性をなかったことに否定しにかかる、或る種の薩長土肥ら西軍風の奸臣しぐさだといえるだろう。したがって桜井氏がこの点に関し、竹田氏を上述ラジオ内の発言で公然と非難したのも、戦後天皇にまつわる憲法論からみて、誠に道理のある議論だったといえる。いわば伊藤博文ら、でくとみなした幼帝を擁し明治寡頭政治をおこなっていた薩長土肥らの藩閥勢力と、竹田氏の天皇奸臣政治の主張とは、型とみて一致しているといえるだろう。
 日本の戦後右派はこの意味で、少なくとも2派に分裂している。実際、上述のよう桜井氏が竹田家の五輪強行仕草を金のためとラジオで言及したのを皮切りに、竹田恒泰氏がそれは父の事で私の事でないなどとして桜井氏に謝罪要求をくりかえしたり(動画1動画2動画3動画4竹田恒泰『桜井誠氏あて 最後の質問状』2021年9月1日)、「さのつく人」という言い方で暗に桜井氏と同じ頭文字の人名を種族主義者と動画内で仄めかしたりするなど(『山崎雅弘さんとの裁判、「高裁は竹田恒泰を差別主義者と認めた」と思った人も見てください!名誉棄損裁判と今回の判決、詳しく説明します。|竹田恒泰チャンネル2』12分40秒から)、両派は事実上の対立関係にある。なお桜井氏が種族主義的な言動をする場面は新大久保での公然たる練り歩き中の罵声などで認められるかぎり確かに存在したが、東京高裁は恒泰氏の著書内でも、中国や韓国・朝鮮系の人々への種族主義や民族主義にあたる同一趣旨の恒泰氏による類似の言動がみられる、と認めたことになるだろう。
 一派は桜井氏ら純粋尊王派(純尊派)であり、単純にひとたび叡慮(天皇の大御心、天皇の意思)が示されたならそれに従うべきとする観念論を、古道上の是としている。一派は竹田氏ら天皇奸臣派(天奸派)であり、自分自身の政治目的が真の公徳と一致しているかに関わらず、自分の都合と合致する時は天皇を名目的に奉り、自らの政治性と反する意思を天皇が持ち合わせている時は天皇が国政の権能を持たないとする憲法解釈を時にもちだしつつ、天皇をでく扱いになあなあにして流し曖昧めかして、叡慮そのものを無視しようとする。
 純尊派と天奸派は中国や韓国など近隣諸国を差別・蔑視したり、同時に対米自立を主張したりする『文明論之概略』『脱亜論』以来の独立自尊・民族主義的な福沢諭吉しぐさを踏襲している共通点もあるが、天皇の象徴としての地位を純尊派は心を尽くして仕えるべき対象とみなすのに対し、天奸派は天皇機関説同様に帝の虎の威を借りながらみずからが国政の権能を掌握する為のでくとみなす。

 なお、江戸後期から明治期に於ける慶喜ら後期水戸学派とこれら純尊派・天奸派の立場はいづれとも違っている。後期水戸学の大義名分論では、叡慮は公徳と一致するばあい奉られるべきだが、それが公徳と不一致な場合は自らの臣下たる責任でより正しい政治を代行しなければならない、と考えるからだ*2

4.天皇保守主義者の末路

 だが、これら純尊派、天奸派どちらの保守勢力も、やはり、既に破綻した制度に縋りついているという意味で、バークの轍にはまっているに過ぎない。
 天皇はもともと日本の制度ではなく、奈良の豪族が、中国大陸の制度をまねてはじまった輸入制度である。上述のよう飛鳥時代、674(天武3)年から、司馬遷『史記』にみられる伝説上の皇帝の漢字(或いはのち北極星こと北辰の別名)を借り、天皇と称し始めた一族は(『改訂新版・世界大百科事典』「天皇 てんのう」)、もともと日本には存在しなかった中国の風習を進んでとりこんだ。また、天皇一味は記紀などで、天孫降臨・神武東征と称する渡来人侵略犯の一家だったと自称してきている。もし皇族男性の遺伝子検査がおこなわれれば、そして本当に令和右派の大部分が、そうとはじめにいいだした岩倉具視に倣って明治以後に主張するよう天皇家なるものが万世一系であったなら*3、男系遺伝子がY染色体ハプログループを通して先祖まで辿れるため、天孫降臨はちょうど弥生時代に弥生人たちが入ってきていた時期にあたることもあり、天皇家が初代と称する神武天皇のころ、当該世代の同系統の男性と同定される人物がいたら中国大陸その他いづれの外国からの移民だったかも、科学的に証明される日がくる事だろう。

 いづれにせよ、この天皇という存在や彼らをとりまく政治制度と宗教とは、岩倉具視の主張と科学的事実が大幅に違って、古来、日本由来のものではない。くりかえすが、飽くまで中国で作られた制度を、奈良の豪族が飛鳥時代頃まねたものにほかならない。飛鳥時代以前の古墳時代、弥生時代、縄文時代、前石器各時代の(現状、日本最古の砂原遺跡から数えて)約12万2000年以上と見積もられる古代日本の各時代に、天皇と称する一族の足跡はみあたらない。すなわち、天皇と称する者とその政治制度や、彼ら自称天皇一族と彼らの先祖を教祖・祭神とする神道と呼ばれる宗教は、日本古来の伝統ではない。天皇という名乗りの起源は、飛鳥時代頃にみられた奈良の一豪族による中国の伝説上の皇帝の模倣であり、彼らの先祖ともども天皇と称する自らの地位を神格化した神道の起源は、奈良時代の記紀(『古事記』『日本書紀』)という宗教書兼小説的な史書の創作によっているのである。
 真の伝統ではないものをさも、自明の伝統かの如くに信じ込まされている人々、もしくは自らの知的怠惰さやなんらかの悪意(支配を望んでいないのに天皇専制または天皇奸臣政治から諸々の暴力・加害・権力による攻撃を受ける被害者たる被征服者への害意か事情通)のあまり、進んで疑いなく信じ込み続けている人々が、これら、日本列島の戦後保守勢力だというのが誤りない事実である。そしてそういう人々は上述の岩倉具視はじめ、天皇一味に洗脳されていたあるいは天皇の豪族としての地位を自らの政治的野望を実現するため利用してきた関西地方には、戦前から、少なくとも記紀や『風土記』などに当時の記録がみられるとおりなら恐怖主義的に一方的な暴力を振るって納税という名の強盗を強要する、今日の奈良暴力団にあたる移民の一部が天皇(あるいはスメラミコト、スメラギ、スメラギ、スメラ)や大和王朝などと称しだす飛鳥時代頃までにいたことになる。
 天皇家や皇族自身は、少なくとも自らを崇めさせつつ人身や物質的資産を貢納させる暴力(皇化、王化)で超法規的な絶対権力・権威をもつ地位を保証している世襲王権の政治制度や、その種の神格化に都合がいい祭司長としての宗教を、進んで否定する天皇制・神道批判の考え方を主体的にもつのは著しく困難かもしれない。もしその様な文明人としての知性や徳性、良心を彼らがわずかなりとも有していれば、飛鳥時代頃とうの昔に、自身の一族のもっている暴力と洗脳を是とする偽善の歴史やその上に立ったみずからの暴力団長兼邪教祖たる現状に耐えられず精神的に発狂していたろう。さもなければ自称天皇らは必ず良心の呵責を感じ、みずから民衆を奴隷化しみくだしながら皇族・宮家などと称し、日本人や国外人をだましだまし性・人種・門地(家柄)・身分差別、主権と税の収奪目的の集団暴力・虐殺行為を侵略(自称征伐)という形でおこないまた配下におこなわせてきた罪業深い恥知らずさの前で、一刻でも早く贖罪のつもりで絶家・絶一族の自主断種を望むか、その道徳的勇気と誠意がなければ最低でも一般国民・一般人類の一員になりたがっていたはずである。だが自分だけが人権をもたず、絶対王権の如くあらゆる犯罪の刑罰から免れる超越的地位にいて、それを退位法のごとく裏の手を回せば思うがままに動かせる状態は、現に相当居心地がよいらしく、そのため譲位しても上皇と自ら称するほどさらなる傲慢を完成させたがることこそあれ、決して皇族一味は、この飛鳥時代からの自家の支配者あるいは宗教的権威を偽装しつつ実質的な絶対権力を専横しながらの慈父・慈母づらの野蛮な慣行をすてたがっていない。しかし、皇族という人権を超えた存在が、万人平等の天賦人権論に反するのは誰の目にも明らかで、そのことは既に帝国主義的世界征服を目指す天皇一味から自治権を暴力・洗脳で侵害され「まつろわぬ者」(帰順しない勢力)扱いで夷敵視されてきた諸日本人の主権および自治権が、全ての人権と共に天皇渡来以前から自然にあった時点以来、一貫して変わらない。すなわち天皇一味は、明治以後に侵略・洗脳・奴隷化被害にあった周辺諸国民と同様、最低でも彼らが諸豪族の間で名乗りを始める飛鳥時代以後に同様の被害に多少ともあれあいつづけてきた日本人全般にとっても、単なる侵略犯の末裔で、世襲独裁の邪教祖である彼らを祭り上げてきた奈良や京阪神はじめ、関西地方に於ける中古代から近世まで続いていた政治腐敗の象徴でしかなかったのである。

 もし天皇家やその親族か末裔いづれかの人物が、真に当該集団で最高公徳を持つ人物で、しかも民衆か少数集団側にそうと認めるだけの人選眼が有った時、その天皇家の末裔は、公選のもとで再選されるだろう。
 しかし世襲王政の名目を使い、無条件に天皇の地位を血統主義で相続させたり、あるいは実際に十分な公徳が欠けていても公の地位を偽装させたりするのは、確かに不合理な上によこしまな制度にすぎないだろう。関西地方の民衆が、この制度を飛鳥時代から現時点まで1376年近く、途中で南北朝動乱などのいさかいを挟みつつ継続していたのは、単に関西地方人一般が保守的で、いいかえれば既に成立していない公徳と地位の不一致を単なる身分差別で形代だけでも維持するほど一般知能が低かったからだというのが確かな事案である。実際、税収を強奪したさに強欲かつ傲慢な自称天皇一味が一方的に侵略暴政してくる前から、アテルイとモレや平将門が具体的独立行政で示したとおり日本には先住権と自治権があり、それらの人権を自ら侵害しあるいは天皇一味からの同様の侵害を進んで後押しさえ歴史的にしてきているのが、この関西地方の衆愚なのである。

 水戸学派は彼ら一流の英知によって、その種の関西地方の天皇独裁・衆愚政府(公家政治)と、鎌倉政府以来の公徳と地位の一致によるまっとうな自治政府(武家政治)との対立関係を、なんとか調和させようとしたのだろう。この知的構想の一つの側面が、大義名分論をもちあわせた、列島統一政権である国体の概念づくりだった。公武合体運動を経て国体は明治政府の日帝憲法にあって天皇の絶対権力を有する統治権として確立され、対外的な中央集権の統一政府というものが初めてできあがった。戦後、GHQが速やかな間接統治の便宜に、国体の枠組みを戦後憲法の1章に象徴といいかえ残させた。
 こうして天皇の地位は、馬を指して鹿と為す単なる虚構の偽善的な演芸を身分差別でもちあげる公家式の関西衆愚政治を名目として維持しながら、その元で、実権をもつ議員と大臣らが官僚を従え現実的判断をおこなう武家風の関東実務政治の延長上に、仮の姿を維持されている。水戸学派の理論構築していた大義名分がこの象徴天皇制を、ぎりぎりの線でなりたたせる人倫計画となっているのだ。

 だが既に水戸学やその大義名分を知っている議員などとうに失われ、令和期に政界を操っているのは純尊派と天奸派の2類である。彼ら2つの令和保守派はおのおの天皇を巡り、自身の政治的野望を遂げようとする。
 天皇の地位はこの様に、虚構である。そしてその作り事の嘘を種にいがみ合っている純尊派と天奸派は、さも源平両氏のよう、公徳の実態はない天皇家から名目的な臣下として洗脳され、時代の捨て駒に利用されているにすぎない。

 父を殺した安康天皇を弑した眉輪王、崇峻天皇を東漢駒に暗殺させた蘇我馬子、実際に天皇を亡き者とした彼らのほか、完全な関東自治権を朱雀天皇から取り戻した新皇・平将門、もとよりあった東北自治権を桓武天皇の一方的侵略から守ろうとしたアテルイとモレ、反抗的な後醍醐天皇を政界追放した足利尊氏、或いは昭和天皇によるアジア・太平洋侵略を阻止したマッカーサーとトルーマン、これらの人々は天皇家の一方的暴力と神道による洗脳から少なからず免れていた人々だった。彼らは天皇家を地上から完璧に亡ぼすことには成功しなかったが、関西衆愚政治の虚構を多かれ少なかれみぬいていた先覚者といえるのだろう。
 令和期の天皇家は眞子内親王の婚姻と天皇家相続(皇位継承)問題で揺れており、明治政府から定式化され、或いは中華皇帝をまねるなかで男系男子による継承を中途半端に優先させてきた男女差別の教義が平等権を自明に侵害するので、本質的に天皇一味がその制度もろとも反人道的な存在となる事は疑えない。眞子内親王の婚約者・小室圭氏と眞子氏の子がどんな場合でも天皇の地位を相続できないとすれば、天皇家と神道教義による門地(家柄)差別なのは確かである。戦後憲法の皇室典範は、血統主義による万世一系論を唱えた岩倉具視の意見を枢密院議長・伊藤博文が容れてつくった日帝憲法の基本構図を継承しており、天皇の地位は世襲で、長子となっている男系男子のみに相続されるため、封建的な門閥制度の名残りとして男女同権を公然と踏みにじる。よって良識をもつ一般国民がこの保守教義を今更受け入れる事は殆ど不可能というべきであり、天皇家が皇室会議で方針転換をできないかぎり、遠からず非人道主義者とおおやけに認められる天皇家はその公的地位から追い落とされる事だろう。
 もし天皇家が女系相続を女性天皇同様に可能とする新たな習慣に自家の習わしをきりかえた場合、純尊派と天奸派という2大保守派の大部分を敵に回す事になる。なぜならこれらの保守派は、天皇家が長いあいだ男系継承をしてきたという岩倉具視の信仰を狂信しており、それを疑う事は異端排斥の対象になるからである。

 水戸学派は彼ら純尊派や天奸派と異なる考え方をもっていた。彼らはともに女性であった元明天皇と元正天皇の間で相続がおこなわれた歴史を『大日本史』の編纂過程で知っていたので、女性同士でも天皇の地位は相続可能だとみなしていた*4。したがってそこには、明治政府が憲法化した血統主義の様な考え方は存在していない。

 天奸派はその主要な論客の一部に竹田恒泰氏を持っている事は既にみてきたが、竹田氏は動画や著書、その他の論説などでくりかえし彼の定義する男性皇族男子相続至上主義(男系至上主義)を述べている(『これが桜井誠さんの本心!? 完全に女系論者、左翼の物言いですね...|竹田恒泰チャンネル2』など)。彼の神道とその教祖たる天皇家信仰のなかでは、女性同士で相続があった元明天皇から元正天皇への代がわりも、やはり男性皇族の女性の子同士での相続なので男系相続だと定義される(『【竹田学校】歴史・奈良時代編②~藤原不比等の戦略~|竹田恒泰チャンネル2』)。しかし一般の日本の世帯相続の法的概念では、世帯主の性別と次代の世帯主の性別との関係で男系・女系は定義されるので、これを女系相続と呼ぶ。

 女から女へと相続のつづく家系。婿養子が何代もつづく家系。巫女などの場合のように、女が次々に受け継ぐ系統。母方の系統。
――女系(読み)じょけい、精選版 日本国語大辞典

ここでは竹田氏は特殊な用語を使っている事になるので、一般的な世帯に於ける男系・女系の定義と区別する為に、竹田氏の女系を「男性皇族の女子」といいかえる。また、一般的な定義に於ける女系を、竹田氏の語る女系こと「男性皇族の女子」と区別するために、「母系」と表現する。
 恐らく竹田氏がここで用語法の混乱を起こしている原因は、旧宮家の末裔である彼の家系が、天皇家が中国からもちこんだ血統主義の氏制度を、最低でも記紀の書かれた奈良時代以来のすでに自明の前提と信じてきているのに対し、一般日本人の間では長らく男女問わず養子が可能な家制度をとってきている事にあるのであろう。
 義公は『大日本史』の上記記述(源光圀・編『大日本史』元正天皇 巻十五 本紀十五)に於いて、元明天皇が元正天皇から36歳のとき天皇家の世帯主を相続されたのは、文武天皇の姉にあたる内親王(姫、女性皇族)として、天皇にふさわしい神識典礼こと優れた認識能力と典雅に礼儀正しい言葉遣いがあったからだ、とした。水戸学派はこの点に男系相続至上主義の要素を容れていない。なぜなら元正天皇の家相続時、他の男性皇族は弟である文武天皇、義理の弟(甥)である聖武天皇らはじめすでに存在し、文武天皇はもう前に天皇家を相続していたし、次代では聖武天皇が相続したりしていたからである。いいかえれば、水戸学派がこの点では過去の事実に即した天皇家相続に関する正しい歴史認識を持っていた事が明らかである。元正天皇はその天皇としてのふさわしさに於いて、ほかの男系皇族ではなく、母である元明天皇から天皇の位をことさら直接禅譲され、世帯主を継承しているのである。
 したがって竹田氏の考える「男性皇族の男子」でなければ天皇家相続してはならない、すべきではないとする観念論である男系至上主義は、最低でも2点で皇族の伝統(皇統)に反する考え方である。

1.過去にあって女性皇族が8人10代天皇家を相続してきている(女性天皇の実在)

2.そのうち女性である元正天皇は母である元明天皇から天皇家を相続し、その時点で他に男性皇族の男子もいた(母系天皇の実在)

日本政府は、首相官邸に於ける有識者会議のなかで、竹田氏のとる男系至上主義の考え方を検討要素に入れている(首相官邸『皇室典範に関する有識者会議 報告書』平成17年11月24日)。事実誤認によって伝統と称した明治以後の新たな皇室典範を固守しようとするのが、この考え方の政治的派閥の実態である。彼らは一般化すれば男系派といえるが、世帯主である当の天皇自身の相続の考え方を多かれ少なかれ無視している点では天奸派であり、実際、竹田氏らはじめ天奸派の一部に男系派が混じっている。いづれかの天皇が男系至上主義を自家の相続形態としてふさわしいと述べた場合、男女の本質的平等に反するので天皇家の違憲性は明らかになるし、実際、血統主義によるこの種の氏制度は則天武后一人を除いて男系男子で相続した中華皇帝のまねごとにすぎず、天皇家自身のみならず、男女問わず世帯相続と養子が可能な日本の家制度の伝統や風習全般に反している事は確かである。

5.天皇家の末路

 天皇が反国民的かつ反人道的な存在とみなされるのは、この種の男系至上主義者らを自らの支持者として近づけているかぎり確かな事である。当時の天皇が性別主義的な血統差別の立場をとる天奸派を退け、皇室典範その他の家政の改正で母系天皇による相続も元正天皇に倣って従うべき祖法・旧習とした時、保守派のなかで対立してきた主要な純尊派をひとりでに味方にすることとなるだろう。しかし今度は神道教義による民族主義(大和民族至上主義、奈良人至上主義)が頭をもたげ、やはり身分差別を人種や門地、民族分類の概念を伴いながら長年おこなってきた中華思想・華夷秩序の模倣史が非難の的になることだろう。実際、憎悪犯罪の一種とみなされるだけの教義体系を神道はその原典である記紀以来もっており、神道は人権の眼差しから見ればまぎれなく悪魔崇拝の邪教である。

 純尊派も天奸派も、天皇保守主義者らはみな、この様に反人道的な存在なのが厳然たる事実であり、彼らが頼ってきている天皇支配の企てがもはや現代以後の政治事情にそぐわなくなっているのも明らかである。保守主義自体がもともと成立不能な空想論なのだから、その一種として立論している悪魔崇拝の教義である神道も、あるいは性別や種族、門地、地域差別を含む中華皇帝もどきの専制支配体制である天皇制(朝廷支配、親政、名目的な象徴天皇統治の建前など)も、根本的に知的に怠惰な人々が縋っている虚妄にすぎない。これらの天皇保守主義者らは遠からず、地上の政界から去っていく。

 最後の将軍・徳川慶喜は母方と妻を通じ、天皇の親族であった(血統は母である有栖川宮の吉子女王、家風では義公の妻・近衛尋子による)。慶喜はのち水戸学と呼ばれる水戸の徳川家の哲学・家訓であった尊王の大義を奉じ、自らの地位と財産と、そのかけがえのない名誉をも犠牲にした。明治天皇は成人後、嘗て慶喜の居城だった江戸城を皇居と称し彼をよびつけると、別家として公爵位を与え、貴族院議員に叙した。慶喜家はこの後、敗戦時まで貴族院議員を務め、戦後は民間人となる。その最後の末裔である慶朝氏は、2017(平成29)年9月25日、実家にあたる水戸の徳川家の知行地であった茨城県水戸市で没した。天皇家は、小御所会議以来、岩倉・西郷・大久保らからおおかれすくなかれその配役にしたてられたとはいえ、自らが事実上の主体となった侵略強盗・暴行・冤罪事件で不当に辱めた至高の忠臣の家が絶えたこの件に、特になんの動きもみせなかった。対して、天皇家は、慶喜家を幕末政変時に陥れた島津家と、香淳皇后の母にあたる邦彦王妃・俔子を通じて、進んで婚姻してきた。自らを心から奉る忠臣を手ひどく冷遇し、「玉」と呼ぶ自称天皇の虚構演劇を政権簒奪に利用する奸臣一味*5を好んで近づけた家柄が、どの様な末路になるか、この世の業が証左する一例というべきだ。
 奸臣らは天皇という地球最古の世襲の皇帝兼祭司長を自らの権力簒奪目的に錦の御旗として利用し、西軍、薩長土肥の藩閥、日帝軍の軍閥、それら薩長閥の末裔としての安倍晋三や麻生太郎、鹿児島に先祖をもつ小泉純一郎・進次郎親子ら自民党閥として、相も変わらず中央政界に残存しつづけてきているのだ。天皇家の全史にとって自らを犠牲に徹底禅譲、進んで恭順した最高の忠臣・慶喜は、大勢として彼ら天奸派からぬれぎぬを着せられたまま世を去って久しく、その家も絶えた。そして彼ら天奸派に担がれた天皇一味の全史は、自民党閥にとって存在自体が不都合になった時、彼ら天皇の奸臣である寡頭政治集団たる自民党員ら手づから、進んで消される事になるであろう。彼ら天奸派は、実際のところ邪教祖・天皇家が記紀以来、冤罪による異端排斥をくみいれた歴史改竄の常習犯だと知っていて、それに上書きする形で、自分達を理想化し対立した者を非科学的かつ不当に辱める、ご都合主義な神話語りの型をまねてきているのだからだ。だがそれは、忠奸の天地をとりちがえながら忠臣を遠ざけ、みずからのおこなった冤罪で亡ぼし、他方では奸臣をつぎつぎ侍らせ、進んで親しみ混血さえし、国政の専断に於いて果てしなく権力を与え、底の抜けた自己欺瞞と偽善・露悪のもと出世・繁栄させてきた天皇家自身の自業自得でもある。

―――

脚注

*1 内閣府、『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月
1923 関東大震災【第2編】』第4章 第2節 殺傷事件の発生 表4-8
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html

http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/19_chap4-2.pdf
*2
義公こと徳川光圀が「我が主君は天子なり、今将軍は我が宗室なり」という君臣の義。
 一 西山公、むかしより御老後迄、毎年正月元旦に、御直垂をめされ、早朝に京都の方御拝しあそばされ候、且又折ふし御はなしの序に、我が主君は天子也、今将軍は我が宗室(宗室とはしんるいかしらの事也)なり、あしく了簡仕、とりちがへ申ましきよし、御近親共に仰聞され候
――安積覚ほか著『桃源遺事 : 一名西山遺事』茨城県国民精神文化講習所、昭和10年、39ページ 

同様に義公が『古文孝経』を引いていう「君君足らずといえども、臣臣足らざるべからず(君主が君主にふさわしくなくとも、臣下は臣下にふさわしくあらねばならない)」 

 嗚呼汝哉。治国必依仁。禍始自閨門。慎勿乱五輪。朋友盡禮儀。儀且暮慮忠純。古謂君雖以不君。臣不可不臣。
――義公
徳川光圀・著、徳川綱條・編、『常山文集』巻十五、1724(享保9)年
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he16/he16_01438/index.html

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he16/he16_01438/he16_01438_0009/he16_01438_0009_p0013.jpg

それを受けて将軍となった慶喜が天皇の忠臣として、尊王の大義を守ったと証言するなど。

 それはあらたまってのおたずねながら、わたくしはなにかを見聞きしたわけではなくて、ただしつけを守ったに過ぎません。
 ご承知のよう、水戸は義公の時代から、尊王の大義に心をとめてまいりました。
 父も同じ志で、普段の教えも、われらは三家三卿の一つとして、おおやけのまつりごとを助けるべきなのはいうまでもないが、今後、朝廷と徳川本家との間でなにごとかが起きて、弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況にいたっても朝廷をたてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきですらない。これは義公以来、代々わが家に受け継がれてきた家訓、絶対に忘れてはいけない、万が一のためさとしておく、と教えられました。
 けれども、幼いときは深い分別もありませんでしたが、はたちになり、小石川の屋敷に参りましたとき、父が姿勢を正して、いまや時勢が変わり続けている、このゆくすえ、世の中がどうなりゆくかこころもとない、お前も成人になったんだから、よくよく父祖の家訓を忘れるでないぞ、と申されました。
 この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまでです。
――徳川慶喜
渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、第三十五章 逸事、父祖の遺訓遵守
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149
  原文:そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなり

引用部、参考文献:薗部等(茨城県立那珂高等学校教諭)「水戸藩改革の余光」1994(平成6)年12月4日・水戸学講座、『烈公の改革と幕末の水戸藩』1994(平成6)年度水戸学講座講録・所蔵、常盤神社社務所
http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/tokusyu21.htm
(アーカイブ:
https://megalodon.jp/2021-0919-2109-16/komonsan.on.arena.ne.jp/htm/tokusyu21.htm


*3
 抑皇家ハ連綿トシテ萬世一系禮楽征伐朝廷ヨリ出テ候而純正淳朴ノ御美政萬國ニ冠絶タリ
――岩倉具視
1867(慶応3)年10月『王政復古議』

大塚武松、藤井甚太郎・編『岩倉具視関係文書』第一、「王政復古議」、301ページ。1927(昭和2)年から1937(昭和10)年。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075204

*4
 元正天皇、諱氷高、一名新家、文武帝之姉也、神識深沈、言必典礼、為内親王、位二品、食封一千戸、和銅八年正月、進欽一品、九月二日庚辰、受元明帝禅、即天皇位于大極殿、時年三十六
――源光圀・編『大日本史』元正天皇 巻十五 本紀十五
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770024

*5 元勲らの日記や手紙、文書に残っている記録。

1.木戸公伝記編纂所・編『木戸孝允文書』第二、巻七
四十七「品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」
336ページ、日本史籍協会、1929-1931年

……甘く玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了に御座候……
――木戸孝允




 
2.慶応4年(1868)1月17日 大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』、太政官、明治1年1月25日、第六類 太政類典、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十三巻・制度・忌服・雑一
https://www.digital.archives.go.jp/item/1376926

https://www.digital.archives.go.jp/img/1376926

 ……主上ト申シ奉ルモノハ玉簾ノ中ニ在シ、人間ニカハラセ給フ様ニ、僅カニ限リアル公卿ノ外、拝シ奉ル事ノ出来ザル様ナル御有様ニテハ、民ノ父母タル天賦ノ御職掌ニ乗戻シタル訳ナレバ、此ノ根本道理適当ノ御職掌定マリテ、始メテ内国事務ノ法起ルベシ。……
 ……何トナレバ弊習ト云ヘルハ理ニ非ズ、勢ニアリ。勢ハ触視スル所ノ形跡ニ帰スベシ。今其形跡上ノ一二ヲ論ゼン。
 主上ノ在ス所ヲ雲上ト言ヒ、公卿方ヲ雲上人ト唱ヘ、龍顔ハ拝シ難キモノト思ヒ、玉体(玉體)ハ寸地モ踏ミ給ハザルモノト、余リニ推尊シ奉リテ、自ラ分外ニ尊大高貴ナル者ノ様ニ思召サレ、終ニ上下隔絶シテ、其ノ形、今日ノ弊習トナリシモノナリ。……
――大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』

 
 

以上の文脈で、大久保は「玉簾」のなかの「玉体」と彼が呼んだ抽象的存在となっていたいわゆる象徴としての天皇制を弊習(悪い風習)と呼び、以後の天皇を「民の父母」として国民の前に姿を現す西洋や中国等諸外国でいう実権をもつ王・皇帝にしたてあげようとする。

3.『岩倉公実記』香川敬三・総閲、多田好問・編集、1906年
「具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事」
 王政復古国討ちが岩倉の一方的な謀略によっていて、天皇の意思は無視されている事が書かれた文章。

「討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事」
『討幕の密勅』は、岩倉が玉松操に書かせた(ゆえに明治幼帝や摂関家側の意思ではない)事実上の偽勅な事が示された文章。

「小御所会議ノ事」(下巻、157ページ)
 山内容堂と松平慶永が、岩倉や大久保ら国討ち(クーデター)勢による、無罪の慶喜へぬれぎぬを着せる不正を公に非難した事に対し、岩倉側の実記内の記述では、岩倉は幼帝・明治天皇が至上の権威を持つと建て前を弁じ、論理のすり替えによる詭弁術で、山内の正論を煙に巻き、不公平かつ恣意的な国討ちを、西郷隆盛の仄めかす恐怖主義的暴力と共に無理強いした経緯が示された文章。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781064/95