制度上の賢い博士がまず見当たらないのは、第一に専門知を得る人的費用は一般知や世知への割り振りに逆らう場面が多いのに加え、第二にこの専門知が当時の学園思想で毒された三流のしろものだからである。
希に専門知でもそれなりの資質の持ち主がいても、その人が博士というだけでより一層、言動の信用性が薄くなる。その人はこの分野について、肩書を得るだけで満足してしまっていることが多いからだ。
学園思想の欠点を知っている側に、学位は悉く意味を為さない。単純に、ある分野について専門知を確かめる能力がない人々が、これらの詐欺に騙されて過ごしている間、この肩書商売が続いているだけなのが信号理論の実態だ。或る知識について、博士号程度が上限だと思っている人々は、何かについて専門性を一定より高めたことがないだけである。
無論、この学園思想の枠内にある特定の認識について、それに関する博士号の持ち主が素人よりは詳しいかもしれない程度のことはいえるにしても、それは賢さ一般でもなければ、汎用的な学習歴と関係しているとも限らない。院試があった場合を含め、博士課程までの教育は専攻性が甚だしいのが普通で、自作なのを前提にした博士論文自体も、特定の専攻の一部に関することしか元々証左していないからである。
世間は博士全般の知的水準を一般に、過度に高く見積もりがちなので、「先生」と呼ばれ無駄に敬意を示されるとこの虚栄心に耽って、ますます博士らは怠惰で、驕慢な愚物になりがちだ。その人物が劣っているので大学や学会の内政は腐敗し易く、尊敬すべき人がいない協会は馬乗り目的の世俗政治の場となる。これらの場で、誰一人つきあうに足る人物が見つからないのは、通常、今日までに広がっている学園思想の構造が最初から抱えている根本的落ち度によっている。
多少なりとも知的な人が近づくべきではない場としてミルは『自伝』で社交場を挙げているが、同じことは一定より大学自体や学会政治にもあてはまるに違いない。賞に関わる事柄などは、全て虚飾にしかなりえないだろう。学術的価値は多数決で決める限り絶対に正しい結果をもたらさず、それというのも当時の愚物ら、すなわち博士ら虚名を掲げた凡愚の間での人気を示すにすぎないのだから。それが陸なものではないのは自明であろう。
これらの教育・研究組織は、プラトンがアテネ校外アカデモスの神域に砦を作った最初から、誤った目的で作られているのだ。だから彼の師ソクラテスら優れた哲人が学園を軽蔑しその外にいて何か立派な業績を挙げているとすれば、尤もなことで、いわば当然ともいえるのだ。プラトンがやろうとしていたのは全体結束主義の典型といえる今日の目では凡そ失敗すること確実な、旧日本軍人やナチストの様な理想的国家公務員の育成にすぎなかった――事実としてアリストテレスの様な別目的の本の虫の類は、学校図書館への書物の収集が原因なのだろうが副産物で生まれたにせよ、プラトンの目的は愛国ファシスト生成装置を超えたものではなかったのに、これを範型とした全学園・学校は、硬直化した徒弟制度で自由な議論を妨げてしまうのだから。教員と生徒は、生徒の方が物知り又は賢ければ決してなりたたないのだが、その様ないつでも起きている状態に対応できない学園では、大いに誤りを含む単なる既定知識の植えつけや、陳腐で卑小な地位の誇示が行われるにすぎず、どこまでも才能の芽を摘む心身への拷問でしかない。学会なるものも質こそあれ構図は同じである。
賢明な子が学校を嫌い、そこに通わせられるのを拒絶しているのを見ると、彼らが正しく学術の本質を見抜いていると知っている側からすれば、学校信者の世人がいかに陋習に弱く愚昧な存在か、漏れなく全員とはいわないものの、無意味な制度に寄生し食い繋ぐつもりの博士ら一般の間抜けで凶悪な実態ごと呆れるしかない。
この学園思想なる邪宗は遠からず亡び去るだろうが、その後も人類以後の何者かが似た様な過ちをくり返しているなら、その集団からはなるだけ早く離れるべきだろう。