愚者にわかる文を書くことは、賢者に伝わる文を書くこととどこまでも一緒ではない。
第一に愚者は高尚な中身に興味を持たないし、持ったとしても同感できない。このため賢者がおもな関心事としている議論に少しも加わろうとせず、もっと遥かに卑陋な世界に沈淪している。東京や京都の下衆の間でいかに低俗なサブカルチャーが人気だろうか。
第二に賢者へ辞を達するに十分な文体は、愚者にとっては理解できないほど高度なので、かれらはそれをかれらにとって単純ではないとの理由でただの衒学とみなしてしまうことが殆どだ。最近でいうツイッター短文狂がこの典型例。かれらは140文字より遥かに短い文章しか一度に読み取れないし、その枠内でも、母語であれ、文法、構文や修辞を一定以上の練度で使っていると意味を追えず、発狂しはじめてしまうのだ。勿論かれらは、まことの教師面、すなわち、わざと難しい言い方で対話者を煙に巻くための詭弁と、単なる高度な議論を見分けることも、潜在的・顕在的知能の限界からもとよりできない。言語障害者または第二言語以上の日本語話者でなければ、かれらは大抵なんらかのわけで文章読解に関する一般言語知能が並より遥かに低い状態のはずで、かれらにわかりやすい表現は往々にして、並ほどの言語知能がある人へ伝わりやすい表現ですらないことだろう。
愚かさと賢さを兼ねている文は、愚者にとっては親しみづらいうえに、賢者には一般的冗長度が不適切(過度に説明的か、幼稚)かつ軽薄で、瑣末な内容にならざるをえないだろう。
すべてのものごとをスタジオジブリ風、京都アニメーション風、あるいはタツキ監督風の形――誰にでも分かり易くしようとするあまり、すべてについて形象化の比喩を用い、なおかつ子供でも親しみやすいキャラクター操作・せりふまわしなど――で示さねばならない様な状況を想像すればいい。事実上の衆愚にすぎないツイッター短文狂なるものの大部分はそれで大感涙し全力朝貢または逆に狂乱テロするにせよ、当然それは通常、不便だ。文なる媒体単体についても同じである。全文章が平成の世俗で読まれ易くまぁまぁ人気だった村上春樹風であればその国は即座に、内田樹独裁下の兵庫県神戸市(但し公式表記は京都生まれ)になるか、破綻するであろう。
われわれは中間芸術を示すスーパーフラットの様な概念を持っていた時期があったが、この領域は賢愚どちらの研究(大衆研究、学術研究どちら)にとっても最重要でないので、単なる創作術上の迷いだったのである。
根源的に、ある文が想定する賢愚の平均値を、およそ都度、憶測による直感によりどこに置くかで、それらの構成法に最適性を期待すること自体が、一般的なときには不合理というべきだ。その様な集団性がすでに決められていて、しかもその平均値の定量性が統計的データとして手元にあり、かつそれに従うことに必然の利点がある状況下でしか、われわれは読者の読解力の質を事前に指定できないからである。