2020年9月21日

天皇は究極のところ暴力で地位を得ている絶対権力者の一人に過ぎない

(モギケン動画『中尾清一郎対談、竹田恒泰『天皇の国史』について』への返信ツイート集)

本本体ではなく、中尾氏の天皇観に就いての感想ですが、先ず記紀を読めば皇室は元々武家で、一方的暴力により日本各地の豪族・民衆を殺戮し、大和王朝と名乗っていた。
 そこからいうと平安朝で公家化してから天皇が軍事を将軍に一任したにすぎず、天皇は平和主義的文化人という天皇観は誤りでしょう。未読なので竹田氏の『天皇の国史』で平安期の天皇こそ、伝統のあり方と語られているかはわかりませんが、平安期はアテルイの蜂起、承平天慶の乱など、腐敗した京都の受領政治から地方自治を回復しようとした運動がみられた様、天皇が軍事放棄し遊行に耽った結果として、続く鎌倉期に関東へ政権が移った。今の僕は、共和政を目的にした天皇廃止論で、皇室の伝統を護持しようというつもりはないですが、もし伝統というのなら大和王朝がそれにあたり、要は最強武家、即ち最高権力者として天皇が軍事指揮者でなければならないわけです。それ以外の時常に天皇は政権を失った。中尾説はこの意味で反天主義かと?
 天皇が平和的文化人で、軍事放棄していた時期は、皇室史全体で実権力を喪失していた時期であり、一番危険だったのが南北朝動乱期だったといえるのでは? 当時の政府が別血統の皇族を立て、本来の天皇を排除した。
 権力の本質は暴力だというのが偽らざる真実で、中尾説は南北朝の混乱を汲んでない。結局、武家側で徳川光圀がこの混乱に始末をつけ、いわゆるのちに水戸学と呼ばれる尊王思想の体系で、「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」と『古文孝経』序を引きつつ天皇に絶対忠誠たるべし、と、水戸徳川家から出た最後の将軍慶喜家訓となり、また今に至る日本史の政治理論上の礎となった。

 天皇を軍事とか現実政治から切り離し、祭司としてのみ認めよう、という戦後の政教分離風の考え方は、それをつきつめると当然ながら神道祭司にすぎない天皇を政府から追放すべし、となるのであって、僕もその考え方が現代では正しいと思いますが、皇室伝統からは随分外れた解釈だといわざるをえないかと。