2020年7月11日

他者と比較しなければ自分とは何者か分からない

僕個人の努力。ニーチェは多分、神を否定する為に似た様な感じで努力してたんだろうが、自分は「知的謙虚さ」との戦いが一つの重要な局面だと思う。
 外人らと英語で話したら余計そう思ったが、THE日本的性格の人(ネウヨ的なの除く)ってなんでも謙遜してしまうので、冷静に自己評価できなくなる。
 ある鹿児島の人にいわれた。あなたは謙虚すぎるのが心配だと。他に優しすぎるのが心配だとある北海道の人にもいわれたことがあるし、今の恋人にも年中いわれている。
 これらは自分としては素直に振舞ってるだけなのである意味、意外だったわけだが、恐らく、自分は自己を過小評価する傾向がある。

 全く同様に、自国についても、自分は異常に過小評価してしまっている可能性がある。
 自分は東京で暮らす事で、はじめて、自県が客観視でき、茨城って(東京都と比べて)こんな素晴らしい点、レベル高さ沢山あったのかって気づきまくった。それまで本気で、恐らく世界最低の場所だと思っていたのだ。
 ジムロジャースが旅行記で書いていた。アメリカ人はアメリカをしらなすぎる。それは自国の事しか知らないから、世界の国々を直接知ってはじめて、自国が分かる。
 この理屈は比較文化論と似ているが、他者と自己の個性の差をミラーニューロンで透かし見ないと自分らしさが分からないのとも似ている。

 自分が会話したあるイギリス人(以下英人)は、やたらと日本をもちあげてくるので(というか外国人ときたら日本学やってた或るフランス人除いて大抵、漫画アニメゲームの話題ついでにそうしてきた)、自分は全部極端に否定せざるを得なかった。現地でくらす限り彼らの妄想の世界とはまるで違うからだ。
 例えばジムロジャースがいつも辛辣にいってるのが、現実の日本に結構近い評価の様に思う。世界旅行2度した彼の目は欺けていない。サブカル通じてみる日本なんて全部、下らない漫画家の脳内妄想なので、現実と直接なんの関係もないほどだ。立派な漫画家がいれば立派な妄想を植えつけてるんだろうが。

 で、自分は特に、自分及びそれを取り巻く社会を異常に過小評価する傾向がある。これは謙遜、謙虚さで、水戸学の風土的なものが入ってる様な気がする。茨城県北部は水戸の徳川家が統治してた地域だが、儒学・国学の混交した独自武士道を奨励した因果か、万事控えめに質実剛健が是みたいな雰囲気がある。
 名を知られるかを心配するな、だが期せず死後名が高まる様な立派な人になれ、という孔子の教え。それを地で行ってた偉い武士が沢山居たのを、確かに僕は地誌で知った。『桜田義挙録』に記録されている彼らは回天神社に寝ているが、生きている間はこの上なく尊い考えで行動し、進んで犠牲になった。
 自分がみた都内の光景は、茨城のそれとは全然違っていた。六本木で馬鹿騒ぎし、億ションから浪費動画でゲラゲラ笑い、成金根性そのもので、物凄く傲慢で、贅沢な豪華さを最高の成功した人生だと都民一般は思っていた。皇室も例外でない。浮浪者が缶を集めていたその日に、平成天皇は晩餐会をしていた。
 自分は、こう感じた。西の方から集まってきたこの人達は、全く違う文化に属する。大阪とか名古屋、京都辺りの人達とは多かれ少なかれ気が合うに違いないが、自分はまるで馬があわない。今後ともそうだろうし、共に生きるに値しないと。自分の目には水戸の徳川家とその元にいた侍達の方が模範と感じた。
 自分が過小評価しているのは、茨城の文化だろうか。それとも東京の文化だろうか? どちらもだろうか。どちらか、だろうか。茨城を過大評価してるという風には思わない。単に、冷静にどちらの文化も体験し、僕は茨城の方がまだいいな、自分にとってはいい面が多いなと感じた。それは最小評価だと思う。
 茨城側の方が東京より劣っている面というのも恐らくあるだろう。都会の雑多さが低いとか。例えば市立図書館に屋上あるのに鍵かけられてて入れない。これとか意味がわからないのだが、市民に自由を認めてない。転落事故起きる前に施錠する。東京にもそういう場合はあったが、基本的には放置されている。

 斯くも、何かを適正評価するのは極めて難しい。
 自分は日本は北端、南端除き大体を全国旅行したが、それらと比べ茨城のよい面は沢山あったものの(都市の造り、あるいは文化面でも自然面でも)、なぜか外部の人達が異常に過小評価してるのを知っている。それは彼らが冷静に比較評価できてないのだ。
 日本を過剰評価してくる外人も全く同じだ。彼らは現実の日本を知らないし、しるつもりもない。アニメフィルターを通じありもしない新宿みてりゃ、それは理想郷にもみえよう。現実のそこの地下道に大勢いた浮浪者や遊女、その間を歩いていく買春罪リーマンと都知事なんて完全にどうでもいいのだろう。

 自分というものも、やはり適正評価するには、古今から未来に想定できる世人全体を知り尽くし、彼らと自分を冷厳に徹底比較するしかない。絶対的な自己評価が無用とはいわないが(いわば自己愛の類だろう)、過信に繋がる。
 その上で、自分をできるだけ神格に近づける様に努力すべきなのだろう。