2020年6月22日

映画『ゴッホ 最期の手紙』の感想

こないだ書いたかもしれないが
映画『ゴッホ 最期の手紙』みた
久しぶりに映像美に感動した
序盤の曖昧宿の直接的描写除くと
全体として美術チックにできていた
ゴッホの絵をいいと思った試しがなかったが
映画の中で迫真をもった形で
ゴッホの眼差しから見直すと
彼は素人リアリストだったと分かる
漫画アニメ系の映像には
特に最近流行の新海アニメとか
寸分も感心しない自分であるが
『ゴッホ最期の手紙』の映像美は
7割くらいの場面が美しいといえた
古典的な美術教育受けた現代画家らが
デッサン的に精巧でありつつ
ゴッホ調の劇画をアニメ化する
二重の工夫があった
自分が一番ましと思ってた
カフェテラスの絵も出てきた
ゴーギャンと共同生活する前辺り
親しく語らう場面を空想して描いたろう
友情の象徴みたいに解釈していたが
正にそういう文脈で出てきた
残念なのが最期に手紙読む場面で
星月夜の劇画じゃなかったことだ
なんでそこで使わないのか謎すぎた
日本だとゴッホに再影響うけたのは
わだはゴッホになるだの人と
最近だと村上隆が
正直ゴッホは偽物じゃないのかと思ったとか
自殺が評価に響いてるんだろうなと思った
とか書いてたわけだが
僕も大体は似た風に思っていたのだが
現実にはゴッホが
近代画家のイメージ作った
典型的モデルだとも感じた
ゴッホ自身は必然的に他の道を断たれ
一種の求道で
天職として売れない絵を量産した
しかしパトロンから独立した
近代画家の例に漏れず
彼の庇護者だった弟テオに負担がいき
その負い目から自殺した筋書きになっていた
事実でないとは到底いえない
今日の競売美術を裏から
批評する物語にされていた
ゴッホの生き方に憧れていた孫正義
夢は売れない画家になることといっていた
絵自体は一見素人に毛が生えた風にみえる
不器用にデフォルメされたリアリズムだが
それが印象派以後の表現主義的傾向と解され
死後にはどんどん価値があがっていった
確かに彼と弟の悲劇も物語消費されたのだろう
実際にはチューブから出した絵の具を
そもそもチューブ詰め絵の具が新しい時代に
そのまま混色せず厚盛りする技法が
自分が知る限りゴッホの作風の特徴で
安田火災美術館で実物のひまわり昔見たが
珍しい作風ではある
よくはないが
でも素人の部外者アートにもみえるので
物語抜きに評価されたか怪しい
もう死んだ版画家の池田満寿夫が
ゴッホしなせて観光集客に使ってる
アルル住民は恥を知るべきと書いていた
確かにそういう面が殆どというか
現代日本人もほぼ全員
そんな無理解連中だと確信して思うが
映画ではアルル住民との交流も
一定程度、美化して描かれていた
素人に純粋美術なんて分かる筈ない
結局、ゴッホの馬鹿真面目さ
よくいえば真剣さが
美術の探求としては彼を歴史的存在へ
実人生としてはやむをえない自殺へ
状況的に追い込んでいったのだろう
そこからみると
村上隆ら競売美術はおふざけでしかない
本当に恥を知るべきなのはどっちだろう?
金下駄はかされてるのはハーストじゃないのか
僕はそのとき風邪を引いており
コロナかもしれんが1日で治ったが
夜中にお布団の中でスマホでみた
1か月くらい前だろう
それで少なくとも序盤とか
映像美にとても感動した
油彩画のアニメって時点で凄いが
ゴッホの絵を場面ごとにぴったりあてはめ
精確に解釈する工夫が面白い
ガシェ医師のあの角度
曖昧宿の外の描写すら省略してあれば
子供にも十分勧められる内容だった
まあ子供がみても意味不明かもだが
ただ、自分が学んだのは
ゴッホは自分には反面教師ということだ
芥川龍之介にもいえるが
彼らは戦略的に生きていないため
長い目でみて勝利を収められなかった
そもそも芸術を重く見すぎている
まあ僕には村上隆だろうと反面教師で
模範的な面があると思ってんのは
ウォーホルとかリヒター、
日本なら大観や光琳くらいだが
要するにゴッホの絵を理解するには
独創的な映像美の映画として
かなりよくできている代物といえる
日本のクソアニメ業界は今すぐ全部
潰れていいと思う自分には気分がいい
嘗てゴッホは浮世絵に学んでいた
タンギー爺さんも映画に出てきた
今度は向こうがアニメに学び
より洗練された美的形式に昇華したわけだ
油彩もアニメにできるとは
日本から永遠に生まれなかったろう様式で
少なくとも自分には前衛と認められた
登場人物が英語話してるのだけ謎すぎたが
フランス語話せ
それに比べて
ジブリを除く日本アニメは外道ばかり
具体的には京アニと新海アニメ
道を踏み外しまくって
もはや自分の目には恥部にしか見えない
それに夢中になっている馬鹿な大衆も
全員が今すぐゴッホの代わりに
あの麦畑でからすにくわれるべきだろう
俗悪なら萌えとかゴミ基準
パヤオ以後救いなし