2020年3月18日

ウォーホルと地味さ

最近ツイッターみてて思うのは、僕は「有名人」、英語でいうcelebrityの世界って俗物界にしかみえないのもあるけど、あんまり好きじゃないのだなということである。特に東京圏のそれ。他人事なのもあるにしても近づきたくない。だからティクトカーが地上波出たいタグとか真面目に意味がわからない。
 自分が一流だなと思っている芸術家、例えば日本の彫刻界だったら船越桂とか、前も書いたけど秋田の宿泊施設いったらそこにぼろっと圧倒的に本物らしきのが置いてあるのだけれども特に誰も気にしておらず、僕だけがびびっていた。芸術界の真の有名さってそういうものというか、玄人的世界の気がする。
 新しい日立駅も専門家からしても、妹島さん個人の経歴を知ってる者からしても錦飾る作品でだいぶ圧倒的な意義があるにしても、一般人からすると誰が設計したかとか気にしてないかもしれない。美術ってもともとそういう存在感なのである。人間のくらしにとって背景であり、裏方だ。そこが好きなのだが。
 が。インフルエンサーもだけど、芸能人も、ネット芸人のたぐいも、そうではない。わがわがというか、とにかく目立ちたがりがユーチューバーとして前に出て、大金稼いですげーだろって世界である。これが自分には全く合わない。だからユーチューブもろくにやってないし、その点でやるつもりもない。

 万事につけ、僕は地味な物が好きだ。派手な物は基本的に好きではない。趣味として。それで建築物だったら水戸の弘道館が一番好きな建物だし(清らかさが素晴らしいと思っている)、一番嫌いなのは自分がみた範囲では東京駅である(西洋もどきなのも酷いが建物としてだだっ広くて機能していない)。
 これは人についてはもっといえる。僕は総じて地味な性格の人が好きなので、孔子の好みとよく似ているかもしれない。剛毅木訥仁に近し、巧言令色鮮し仁。テレビに出てるタレントでもそうである。ヒカキンも昔の、兄弟で地元の川に飛び込んでる動画の頃が一番善かったなあと思う。日本的趣味ではないか。
 ついでに書くと、ブルーノタウトは桂離宮を礼賛し、日光東照宮を腐したので有名だけれども、僕にいわせればその桂も常陸太田の西山荘より遥かに派手だから現物みたけども話にならなかった。タウトがいいたいことは京都内での比較に過ぎず、何でこんなの褒めてるの、これすら贅沢すぎという感じでした。
 県でいったら岩手、茨城(地元)、栃木、和歌山、奈良とかが好きな県である。なんでかといえば地味で、深く入っていくと涙が出るほどいいところが沢山あるからである。しかし世間はこれと逆で、北海道、東京、大阪、京都、沖縄とかとにかく目立つ観光地が大好きらしい。僕とは趣味が違うのである。

 全く同じ話なんだが、イチローがあれだけ有名になる前は、新庄(剛志)選手と度々比較されていた。新庄はど派手だしいい選手なんだろうしイチローはうまいけど地味に内野ゴロで稼ぐ選手じゃんみたいな昔でいう送りバント名手の川相に準ずる扱いを、スーファミのパワプロ文脈では一時されていた。
 が(が)、その頃から僕はイチローの方がいいよなと思っていたのである。まあパワプロなら川相のが好きだったけども。結果論、生き残りバイアスみたいにいわれるだろうが違うのである。くまけんよりせじまさんが好きというのもそれである。基本、最初から僕は地味な方が好きなのである。
 この文章でなにがいいたいかというと、世間は信用ならないねってのと、最近のネットの有名人もテレビ芸能界と変わらなくなってきて派手な方が視聴率稼げて広告収入で偉いんだという世界観でしかないけれども、僕はそうじゃないと思う。長い目でみると本物だけが残るのはどの世界でも同じだろう。

 美術でも全く同じだと思う。有名さって玄人の核のそれと、素人のは全然違う。僕の中ではジェレミー・マンは最先端だけれども世間はバンクシーがそうだと思っているだろうし、これもまあ僕が20代の頃はまだバンクシーは前衛的だったから状況が少し違ったんだろうけど、コマーシャル化してしまった。
 経営学でいうと、スノッブ効果というのがある。有名どころのブランドだと却って高級品としての需要が減るみたいなものだろうけど、美術品は典型的奢侈品だから確かにスノッブ市場としての要素はあるが、僕がここでいってるのは寧ろ通俗的有名さの方がスノッブ的俗物的、つまり有名無実と思うのである。

 少し話は複雑になるが、じゃあ有名なら全部ダメかというとそんな事はない。例えばTWICEという女性アイドルグループがいるがこれ、とても有名にもかかわらず僕は最先端ではないかと思っている。なぜなら文脈が他と違って、メンバーが日台韓人混じっているところが面白い。ネトウヨが差別できないのだ。
 これまで韓国系のアイドルグループは、ネトウヨの排撃対象になっていた。実際日本のグループと色々違うし(主に専門的技能が高い、或いは整形前提に美男美女度が高いって意味で)、反韓文脈だと攻撃される要素だらけだったのに、親日国のはず台湾人も関西人もまじっててネトウヨ的には困る対象である。
 ハイアート的に歌舞芸能をみて、トゥワイスが面白いのは、第二次大戦後の欧米列強の悪意によるアジア内の分断統治をのりこえる文脈を文化の次元でつくりこんでいるところで、まあ日本側でいえば岡倉天心のアジアは1なりに繋がってくる。そういう風に、有名で幾らか通俗的でも、高度な場合もあるのだ。
 問題は、じゃあ俗物趣味(周りが褒めてたら偉いみたいなミーハー根性も、えっこんなのも知らないの? という上流気取りもある)と派手さにどういう関係があるかだが、一般論として派手なものは俗物的になり易いのは確かに思う。純金のアクセサリーみたいな誰でもわかる価値だからだ。
 一方で、派手であっても必ずしも俗物的ではないもの(例えば渡米後のイチロー選手の野球)も、有名であっても必ずしも俗物的ではないものもある(東亜人混合した歌舞集団TWICEの文脈)。かつ俗物的でもよいものもある(例えばバンクシー『風船と少女』は『愛はゴミ箱の中に』より趣味はよいだろう)。
 すなわち、よいものをそうでないものと分けているのは、総じてその作品なりしごとのもっている本質的価値で、派手さとか大衆的な有名さ、あるいは俗物的なものには悪趣味化し易い要素があるとしても、実際にはそれが本物かどうかが問題なのである。真贋を見抜く力があれば表面や評価に惑わされない。

 なにが書きたいか、自分はネット有名人なりネット芸人ってのに非常に違和感をもっており、テレビ芸人に次いでかかわりたいになりたくない。なんとなく気持ち悪いのもあるが、目立てば偉い、カネになるという商業主義は芸術の或る本質を欠いている。まあウォーホルに言わせれば逆なんだろうが。
 敢えてウォーホルならどう考えたかを察すると、有名さでカネになる度合いが最高のアートだといっていたと思う。僕は一番好きなアーティストはウォーホルなんであるが、この点では僕とは正反対な性格だから憧れの様なのを感じていたのかなと思う。たとえなりたくとも恐らくなれない対象だからだろう。
 もし現代日本にウォーホルが生きていたら、ヒカキンとかケミオとか、ちょっと前なら稀勢の里とか、女だったら広瀬すずとか描いてたというか、赤坂住んで渋谷や六本木うろちょろ写真とって刷って売ったかもしれない。あとカップヌードルとかお茶漬け海苔とか、うまい棒を並べて絵にしてたかもしれない。
 画家が一代で死んでその様式はろくに受け継がれないのは、ある時代の記録としてかけがえがないもので、後からモドキがでてきてもあんまり意味がないんだなとこれでわかる。だから僕がこの時代を結晶させ、何か描いて残したら、それは象徴的になるだろう。ウォーホルをそのまままねても意味がないのだ。