人生の不幸はほぼ全て自分より愚かか卑しい他人がもってくると悟り、それらの人々との接触を、あらゆる知恵で最大限避けるがいい。そしてこの他の仕方で、人はこの世で少したりとも幸を得られない。独り居の楽しみを知れとガウタマがいった(『ダンマパダ』205等)のは、誠にこの真実を指していた。社交を楽しみにしている人々は、結局、その相手より自らが愚かであるか卑しい為、相手に迷惑をかけながら利己的に振舞っているだけなのである。
一般に、人が誰かに会いたいと願うのはその相手から得られるなんらかの利益があるからで、たとえ定言命法に則る自己犠牲でも、究極では真実ひとのためになったと確信できる、良心の満足が目的である。
お節介な人は程あれ偽善的で、真の利他と単なる自己満足の間にかなり広いずれがあっても気づかない。しかし真の善人、慈善家は利他行為と自己満足の間に殆ど隙間がない。両者の違いは我々の共感知能の質に依るから、たとえ善行をいかに勧めるあらゆる聖人でも、最高の利他性(それは同時に、往々にして中庸なのだが)による良心の満足を共感知能の質に応じて追求するしかない。いいかえれば、最高の共感知能の持ち主でなければ、いかに善意を持っても、あらゆる快楽の中でも最高次元と考えられる究極の満足たる善行の味わいは得られない。自らのした善行が、実は相手にとって迷惑だったと知る機会を、偶然いかに避けたとしても、いずれは勘違いのゆえ自己満足に過ぎなかったと悟るか、さもなければ良心の充足感に曇りを感じるものだからだ。
自分より愚かか卑しい人々は、単なる善意のみならずその共感知能にも劣っているので、例え賢く尊い人がいかに善意善行で接しようとも、寧ろ意図をとりちがえ誤解したり、さもなければ逆恨みする。これが賢者や貴人には社交一般に害があるわけである。
そうであれば善行を社交以外の何か、特により愚者や卑人に感知できる方法で行うしかない。だがその様な手段は、愚者自身や卑人自身にしか認知できないし、彼ら自身にさえ説明できない。また少なくとも卑人には善人の為になるその様な行動を進んでする動機もない。この世で慈善や福祉が困難なのは、単なる商取引で補えない様々な必要があるのに、愚者や卑人側には要求そのものを他者に伝えられる形で感知できないし、仮に恩恵を受け取っても感謝どころか利己心や他害性から逆上するせいである。このためパウロのよう自己犠牲を進んで行い、冤罪や磔刑をうけても愚者や卑人に交われと勧めた者がいた(『新約聖書』ローマ人への手紙12:16)。現実には、この種の善行がどれだけ行われうるかは、ある集団での大乗的教派(学派、学校など)の能力に依存している。ガウタマは上座部的立場を最善とした。アリストテレスのよう貴族的立場と、本性に類した職業分化の理論から、全ての人々を哲学者にできぬよう、賢愚や尊卑は単なる各々の生にふさわしい情報の房であり、究極のところ程あれ鈍さや利己性が必要とされる立場があるのだ。『論語』(子路第十三、四)で孔子に政治学等の覚えはあっても農学あるいは農耕の実践的知恵が欠けていた様、教育や宗教その他の啓蒙的文化はそれ自体で、ある集団の平均知能を耕す。ある社会で職業分化の必要があればあるほど、善行にあたっては異なる房の間をなんらかの橋で繋ぐ必要があるが、これが直接の社交とは限らないだろう。
善行の上座部性が生じるのは、こうして個性の多様化が進んだ社会に於いて尚更であり、対して啓蒙主義が正しく機能するのは大乗性の必要な多数政治の社会に於いてだろう。前述ガウタマの立場は前者、パウロの立場は後者といえるが、これらは時代や場での個別の状況判断によっているので、甚だ格差の広がった現代にあっては上座部的方法でしか、聖なる人が生きながらえないのは確かである。