2019年12月19日

ユーモア感覚論

こないだ、しりあいというかネットの友達(但し相手が切り捨て御免だの同人誌だのの古今日本ネタに発狂して物別れ)のイギリス人に次の様にいわれた。
「ユーモアのセンスがないのは知性がない証拠。日本人はドイツ人と一緒で頭が固い馬鹿」
これについて、以下、自分なりに考察してみる。

 先ず結論からいうと、ユーモアなるものの感覚は知能(知性)の一部ではあっても賢さ全体ではない。だからユーモア全体が本当に欠けていても、すなわち、その脳がまるごと愚鈍だとはいえない。しかもユーモアには種類があるだけで、恐らく全人類の大抵の人達は、多かれ少なかれ別の笑い方はすると思う。

 僕が好きなお笑い芸人(喜劇役者)は、ユーモアセンスだけでなら、最近だと青汁王子がとても面白いけど彼は起業家・経営者だろうから、プロでいうと、さまーず大竹(めがねかけてるほう)が一番凄いと思っている。いつも機知のきいたことをいうから感心してしまう。で、次に好きなのがカンニング竹山。
 しかし世間はダウンタウン松本とか、明石屋さんまが好きなんだろう(ただし『ひとりごっつ』は僕も現役でみてて天才かと思った)。自分は日本のお笑いしか特にしらないけど、ビッグスリーならタモリは一応面白かった(だ埼玉とかはうんざりだが)。最近の人で面白いのはウーマン村本しかしらない。
 初期の午後5時台でやってた頃のナイナイは、彼らの高校生活の延長ぽいノリがまだあって好きだった。自分は中学頃だった気がするが、ラジオも録音して聴いていた。大体、ゴールデンタイムに移動してからも、中居君とのこラボがピークだったと思うが、岡村さんのおかげで大出世だったと思っている。
 他にもウッチャンナンチャンとかも自分の世代では相当おもしろくて大体みていた。なにがいいかというとウンナンはあんまり下品じゃないのがいい。家族でみてても冷や汗かかない程度の、逸脱しなさに安心感がある(これと真逆なのがダウンタウンだが)。ま、そんな感じで大衆レベルにはお笑いみてきた。

 ほんでだ、イギリス人が「てめーはユーモアがねえ」っていうのは、全くの勘違いで、僕は中学の頃とかお笑い人間みたく思われていた。最近僕はモギケン(脳科学者)研究しているのだが、モギケンも中学生の頃そうだったぽく、すこし分かる。公立だと勉強できる側は道化演じないと皆と仲良くなれないのだ。
 つまり、僕の面白いと感じるセンスと、そのイギリス人が面白いと感じるセンスは、ずれている部分と、かぶっている部分がある。これが喜劇文化の違いで、大まかに言って、向こうはブラックユーモアを好むが、僕は好きじゃない。僕のお笑い感覚は、主に首都圏のテレビや漫画が作った機知のそれに近い。

 自分がギャグ漫画で一番好きだったのは『すごいよ!!マサルさん』で、完全にシュール系の機知だった。それに比べ、そのイギリス人は他人をザクザク傷つけることをいい別の人とゲラゲラ笑ったり(なぜ人を傷つけて笑えるの? と僕は可哀想か失礼だなと感じる)、やたらひねくれたことをいって悦に入る。
 例えばダウンタウンの笑いは、日本一のイギリス喜劇ファンと称する(クオリア日記に書いてありました)モギケンの感覚と、自分からみたら寧ろ似てるジャンと思う。元首相の木の前でのインタビューをからかって「私にはなぜ彼が木に向かって話してるのかわかりません」プゲラみたいなバッドユーモア。
 確かにダウンタウンのそれとイギリス系の笑いには全く違う部分もあって、それは知性を感じさせるひねくれた言い回しを喜ぶかだ。ダウンタウンの前でそんなのいったら浜田に殴られるだけである。実際、浜田がいないとなぜか松本がモギケンを素でディスり(笑わせろ)、日英喜劇論争は小休止中である。
 モギケンの自白では、「批判的ユーモア」がイギリス喜劇の最美なる点の様で(いいたいことはわかる)、その理論背景で実験漫才をつくってるのがウーマン村本といってもいいが、相方は普通の大阪人でおきざりにされているからTHEマンザイでもほぼソロ状態である。そこは吉本の伝統的には逸脱であろう。吉本のかけあい漫才の伝統なんざオモロければどうでもいいのかもしれんし、あれでいいのか総合点では慎重にみなければならないにしても、確かに村本は異文化もちこんできているアウトサイダーな点で興味深い。だが以て、イギリス喜劇のダークユーモアの命脈からしたら根本的に違う感じもするのである。
 僕がそのイギリス人の笑いの感覚で、全く共感できないし一緒になりたくもないのは、「他人を傷つけて笑う」点である。正直なところ、日本の関東と関西の笑いで本質的に違うのも、そこかなと思う。パチパチパンチはいいけどメダカ師匠をいじめるのはちょっと、みたいな微妙な感覚の違いがあるのである。
 全く同じことは海外の笑いでも、トランプを揶揄してプゲラッチョとかモギケンは毎度デイリーショー動画をリツイートしてんだけれども、僕から見るとなんて下品なんだとしか感じられない。ぶっちゃけニーチェもあれらを批判すると思う。だって権力者や強者をからかうのはルサンチマンの笑いなのだ。

 喜劇論の古典まで遡ると、『詩学』がそのひとつかと思うが、著者のアリストテレスいわく「お笑いは普通より劣った人々をまねるもの」と定義されている。滑稽味が生じるのは他人の愚かさを眺めて、馬鹿だなあアホだなあと、それに比べりゃ俺はましだと、ミラーニューロンが自尊心を高めてくれるからだ。
 最近の心理学では地位の高い人は笑わない傾向にあるといわれてもいて、実際、演劇の世界でも悲劇などまじめなのを演じる俳優に比べ、お笑い芸人(喜劇役者)は一段低いというか、歌舞伎の看板で三枚目といわれたよう、主役の一枚目とか二枚目の美男子をひきたてる脇役あつかいされてたのが基本だろう。
 つまり、「他人を傷つける笑い」は、この喜劇の伝統を大分ずれているというか、大いに勘違いしたユーモアのセンスなのであって、本来、自虐的にふざけたことをする道化的行動のほうが、理屈からいうと王道なのだ。それは誰も傷つけない。傷つくとしてもピエロ自身だが、自ら進んで観客に奉仕する。
 この意味で、最近の日本のお笑い芸人で、最も王道を歩んでいたのは、ナイナイの岡村さんだったのではないか。僕は彼の人生物語も最近のご意見番化も少しは、ラジオなどで聞き取ってきた。しかし後輩だったヤベッチに誘われ入り込んだ業界とはいえ、確かに岡村さんは喜劇を愛し真剣にとりくんでいた。
 いわゆるハネトビ世代がナイナイの次に出てきた時、サル的クリエイチャーを模してカジサック(キンコン梶山)がプロゴルファー猿ネタで岡村さんとコラボしてたのは記憶に新しい。キャラがかぶりすぎていたのでユーチューバーと化したにしても、カジサックはどの世代が見るのを想定していたのか謎だ。30代の僕すらプロゴルファー猿の漫画そのものを手に取ったことがないのに、敢えてワイはサルや、プロゴルファー猿、と決まり文句を2匹で公然といったとて、誰がわかるというのだろう。勿論それは喜劇の王道に属していたとは思うが、進化論を皮肉ったとか知性主義要素が皆無なのも大阪系喜劇の特徴だ。
 つまり、イギリス人が歴代哲学者らがフットボールする動画をみて、マルクスからエンゲルスへのパスミスでオッホッホと笑うみたいなのは日本側では基本的にない。なぜかというと日本側の喜劇文化は、基本的に庶民のものだからだ。いいかえれば無教養を前提にしているので、下品か、分かり易いのが多い。自分がみるに、モギケンのフラストレーションはここからきているのが相当あって、日本の笑いってなんて知的レベルが低いんだ! もっと高尚なテーマが必然に伴う緊張を緩和する社会的紐帯の潤滑剤が~とか、要は町人の笑いと紳士の嗜みじみた彼我文化差の前で、歯軋りか地団太踏んでいるわけだろう。
 そこではじめに書いたところに戻るが、そのイギリス人がいう「ユーモア」とは、自文化中心主義でイギリス系のお笑いのセンスをさしているので、わが国のそれではない。且つ、僕のそれは関東的などっちかといえば穏やかで機知が中心のものなので、頭殴ってプゲラる関西系のそれとも大分ちがう。すなわち、国とかところ変われば笑いのセンスも違うもので、もし自分が面白いとおもってプゲプゲいってても他国からみたらは? とされそのグッド・バッドの境界は、単に文化差であるばかりか個々人でも全然違うのである。ドイツの喜劇は全然しらないが確実にあり、みな笑ってることだけは間違いない。

 では今後、モギケンのいう日本のお笑いへの知性主義の注入が成功するか?(村本一人が米国に排除されテレビ終了し、再び吉本興業のアホアホ覇権がネットでも他を圧倒するか?)
 自分がみるに、例えば天皇にパチパチパンチみせても笑うに笑えない的喜劇の構造からも、イギリス喜劇の直輸入は難しい。
 そもそもモギケンが好んでみてるBBC笑劇的なものは、シェークスピア三大喜劇みたいな過去の伝統からしたらそれでもかなり堕落した(通俗化した)部類であって、日本でいやあ落語の転化した笑点くらいの地位かもしれん。帝大輸入学問的な文脈でドエライ西洋文化をもちこんでもハイカラ鹿鳴館で終わる。
 そして批判的ユーモアは、当の落語や講談が完璧にやっていたのだし、テレビドラマ化した筋でも『水戸黄門』は演劇論で分類したら喜劇だと思う。阿呆な悪党らが必ず定型的に退治されるがその途中でうっかり八兵衛らのお茶目な入浴シーンが入る偶有性。別に権力者の婉曲批評なんてどこでもあるのである。ザ・ニュースペーパーは、英国出羽守が好きなタイプの道化師的揶揄をやっているけれども、普通に面白い。ただ日本の庶民受けしてる度合いからいって、もっと世俗的な浜田組(と子分の松本)が威張ってるだけの話である。そんで、僕みたく冷静にみてホホホイはちょっと、という人もいるから問題ない。
 英国ユーモアなるものは、京都人の公家的言い回しと一緒で、はじめは上品ぶろうとして知性派ぶっていたが、庶民に風習が広がってひねくれ方が固定化したものと捉えるのが自然と思う。俺はこんだけ分かりづらい言い方もできるんだぜ、とのマンスプ系暴走の結果、他国民からみてなにいいたいか分からん。
 逆にアメリカの笑いもこれまた日本のと違う。貴族性を否定したから侵略祖国より率直なのはいいにしても、アメリカンジョークは一日本人からみると「そこで大爆笑かいな?」となる事が多く、笑いポイントの意味がわからなかったりする。米人は他人を笑わせようとしている事に笑ってあげてる感じがする。

 結局、どこのどんな笑いが好きでもそれは自由。しかしながら文化単位でセンスを変えるのは相当難しいし、そもそも各々のユーモアセンスが違うからこそ、異文化に接して驚き、また他人の着眼点に学べるわけで、日本は日本、自分は自分でいいのだろうと思う。僕は基本的に誰も傷つけない機知が好きだ。