東京圏とか大都市部内だけで生育した人達が、自然や里山、田園などのもっているさまざまな要素を「何もない」と表現するのを、自分は全く理解できなかった。なぜそんな発想が出てくるのかすら分からないし、今の今まで差別にしかきこえなかったわけだが、彼らは単に自然の要素を認知できていないのだ。
恐らく脳内に自然に近い諸要素(空気、湿度、色、光、動植物、質感などなど)を感知する部分があって、これは確かに大都市部ではほぼ絶滅されているので、生育過程で一度も体験していないと、脳内でその要素を感知する部分が退化しているのだろう。つまり彼らはある種の脳の障害者でもあるわけだ。
勿論、都会人一般が行うその種の傲慢な差別には、ダニクル効果とか自文化中心主義からきた中華思想の思い上がりも含まれているにしても、同時に、彼らは脳の障害(いわば都市型認知障害)で自然性そのものを認知できていないので、努力して自然体験しないかぎり、今後とも感性の一部が欠けて行く筈だ。
また次の様な類型も見かける。それは東京人の一部にいたのだが、北海道・沖縄、南の島、欧米都市部とかだけに出かけこと知ったかぶるが、田園、郊外、里山など日本国内の大部分について何もしらず、それどころか中華思想で頭ごなしに差別している人達だ。これは一言でいえば東京型観光俗物である。
この種の観光俗物は、インスタ映え狙いのセレビズム(celebism、有名・芸能人気取り)とか、欧米崇拝とかが思想背景にあって、とかく国内の無名または地味な地帯を全力で無視している。また観光地でもマイナーな物は完全無視する。なぜなら彼らは自慢目的で旅行するので、俗受けしないといけない。
僕個人はその種の東京型観光俗物は馬鹿なんだろうなと思っているし、実際、観光客文化になっている有名観光地より穴場の方が通常は地元人向けでサービスの質が高く、文化人類学的興味(要は異文化体験の欲求)だのも満たされる。旅行の目的そのものが違うにせよ、観光俗物にも一種の認知の盲点がある。
「何もない」といいながら、自分の目には恐ろしく美しい風景だったり、偉大な文明の証拠だったりする場所を素通りしていく大勢の人達。ここから学べるのは、われわれは自分の感受性次第で同一対象に全く違う感動をし、また自動で興味の対象を探索しているということで、ある意味恐ろしい話である。
和辻哲郎は世界旅行後に各国の感性からくる人倫論であるところの『風土』を書いたが、成長過程で感性そのものが貧弱なままだと全世界を通っても死んでいる。裏を返せば、極めて感性鋭敏なら(まあそれは僕だ)家の裏庭みるだけでも四季の移ろいで胸が一杯になって感動で動けなくなる。実話だけれども。
引きこもりを否定的に侮辱し、差別対象にするばかりか無理やりデヅッパリの労働者と同じ状態にしたてあげようとする強烈な同調圧力が良識ぶって大手を振って歩き、暴力や精神的圧力で自殺にまでおいつめている現代日本は、終生家からでなかった平安貴族の女性だの、部屋住みの諸侯の感性を忘れている。
ヴェーバー・フェヒナーの法則からして、デヅッパリで毎日雑にグチャグチャ移動していたら段々とその刺激値に慣れ、もはや一葉落ちて秋の訪れを知る様な繊細な感受性を得るのは不可能に近いかもしれない。日本史上の卓越した感性をかんがみても引きこもりは五感プラトニストであり、感受性のプロだ。
労働者クラスターが多数政治を乱用し、大都市部にたかってあらゆる分野に全力で自文化中心の圧力を加え、罪悪感どころかなんの痛痒も感じなくなった野蛮な先進国群では、寧ろ、万葉歌人のよう細やかで開かれた感覚をもつ人がいきのこれる方が奇跡に近い。感性は世界認識を拡張する重要な知能という話。