私はこの1年間、ツイッターをわりと本気でやってみた。で色々試行錯誤した果てに、
最近は脳科学者の茂木健一郎氏の論考に、批評めいた返信をしまくる使い方になっている。
なんでこうなったか、いやツイッターとは何かを以下に考察するが、その前に最近氏が話題にするユタボンとグレタ氏の分析を置く。
(わたしと僕という一人称が、自分の文体ではしばしば両立して用いられるが、自分は異性愛者だけどジェンダー的自由を示唆しているだけでなく、文脈上、日常生活と一緒で公に対する「わたくし」のときには公式の一人称である私を使っていることが多いので、気にしないでほしい。要は口語文体のせいだ)
ユタボンは天才だ、そして今後ともそれは変わらないだろうから、もう確立された地位が揺らぐ事もないと私はみる。特に「自殺するくらいなら」学校いくな、との彼の神託はもはや聖言といってもよい。自分も普通の公立だった小中は地獄と感じていたばかりか自殺を考えたこともあったので全く納得できる。
日本の公教育がどうしようもないのは日本人自身ならご存知、同調圧力が「和」という大義名分で全力でおしつけられ、集団の中央値でない人間にとって最悪の足の引っ張られ方になるところだ。自分はユタボンと逆パターンで小中の勉強がぬるすぎ面白くないうえに同級生がさるに見えたので檻と感じていた。
僕はユタボンよりある意味では利口だったともいえるが、いくら学校最悪と感じていても、自分の人柄の良さみたいなので誰にも気づかれていなかったと思う。親や親友すら分からなかったのに違いなく、ニコニコして普通に遊んでる子供にみえたろうが、内心では猿の檻に入れられて泣いていたのである。
それでほかの親(自分は今のところ子供いない)には勧めたいが、小1時点で全部100点ばっかり出してくる子供は、すぐその学校より偏差値なりクラスの平均成績の高い学校へ入れなおすか(日本ではなぜか一般に飛び級がないので)、さもなければ塾、又は家庭で学ばせた方がはるかにましである。
これはユタボンをみたらわかるよう、単純に宿題すらやりたがらないとか(小中時代の宿題は無意味といってる心理学者もいるくらいだから、それへ批判的に気づける彼はある種の天才児なんだろう)、何らかの個性があって学校に合わなかったり、あるいは普通にIQが低くてついていけない場合も全く同じだ。
自分がなぜ小4くらいのとき一度は自殺を考えたかだが、そのころクラスの少年界をしきっていたのは近所のクリーニング屋の息子のA君(仮名)という人であったのだが、なんでそうなのかなら彼の身長が一番高かったからと思われる。あの年代の子供は運動神経や体の発育速度で優越してガキ大将化し易い。で、A君は頭の方は疑問符がつく程度で、その権力を完璧に乱用し、普通にクラスでイジメを遊びとしてやりまくるばかりか、日々その手口は巧妙化し、手先にしたすべての子を誘導して手を汚さず、ターゲットを陰湿に無視して遊ぶとかやりだしていた。である日自分もターゲットにされ1日無視された。
僕はま、自分の行った田舎町公立小では常に成績表はAの様な、精神年齢だかIQだかの方は同年代に比べればいくらか上の方だったので、彼の猛威にはのらりくらりかわしながら仲間でありつつ同調するでもないみたいな、ある種の政治的な立場で接していたのだが、まあすべてが馬鹿らしくなったのである。で、小4の僕はお風呂で一人で泣き、もうこんな馬鹿みたいな社会で(サルの檻に入れられ、サルたちとうまくやれといわれてる様なものだ)これ以上生きていくのは下らないし自殺した方がよさそうだと本気で思い、実際そうしようとしたが手段もなく、具体的実行が恐ろしいのでそのままお風呂をあがった。
その自分への無視は、次の日にはなくなった。A君はそれまでも目をつけた全員を、傘下成員に圧力かけ無視させるなる、国連でのUSAみたいな振る舞いをくりかえしてきたが、僕はその1日目で遂にターゲットになった際、対処法が不明なのもあるが無視し返したので退屈視されたか、すぐ別人が標的になった。
だが内部的に倫理崩壊が起きている集団に、しかも子供の様に無力かつ無知の状態では、なんの対処のしようもない。当然ながら親も先生も子供社会の内部事情など一切しらないし、もし相談(いわゆるチクり)したらその後もつきあっていかねばならぬ同集団で徹底的に立場が悪くなる事も暗に想定される。
これを実経験として自分にいえるのは、特に田舎ぐらしとかで親の仕事も固定しており引越し不可能の際、公立校が選択肢に1つしかない様な完全閉鎖状態の中でどれだけ利口にたちふるまおうが、ある学内集団での倫理崩壊を逃れるすべは事実上ないといってもいい。これが自分が学校を地獄と呼ぶ理由だ。
他に特に進学校とかでない普通の公立中学では教師の方が体罰しつつ精神的圧力をかける怒号つき人格否定の罵倒とか、指導と称し常態的にやっていたばかりか、驚くべきことに学内で周りの教員が「当たり前」みたいに考え、閉鎖集団で生徒虐待をしてきた(当然僕もやられた)。後輩イジメも当然された。具体的には少数の生徒らをあるひとけのない教室に放課後よびだすや正座させ、少数の教員しかその場にいないのをいいことに竹刀で脅しつつ殴る蹴るビンタなど行いつつ自白を強要、さらに人格否定の罵声をあびせながらスリッパを投げつけ、泣きはらした僕を無理やり立たせ目を見つめながら怒号とかだ。
ほか、狭い部室に後輩らをよびこむや、先輩がお前ら気に入らない、なめてるのかなどといって僕の友達の腹を蹴り、うずくまった友達を複数人で嘲笑し、おびえた僕や他の友達らを脅迫しまくるなど、倫理崩壊が、当たり前みたく世代間でくり返されていた。僕としては当然だが文化衝撃の上に地獄と感じた。
「どうせお前が悪さをしたんだろう」と日本人なら(体罰やイジメの)被害者叩きを考えそうなのでそれについても正確に書いておくと、ある日テレビでアメリカの学校が映り、生徒がガムかみながら教員と仲良く話していた。で僕らは真似てみっかと思い授業中にガム噛んでみたのである。その結果が上記だ。
今にして思えば不良教員の質の悪さに起因した、指導と称した体罰であり生徒イジメでしかない。
「なんでガム噛んでたの?」と素直に尋ねりゃ
「あのね、テレビでみたんだけどアメリカでね」と生徒の僕らは説明し
「そうなんだね。日本の学校ではあまりみないけど、文化の違いについて議論してみよう」
みたいになって当然なのが、まあまともな学校であるべきが、現実の日本というかTHE普通の公立は何一つそうなっていない。その凄まじい質の現実の中で生きていかねばならない我々が、
「自殺するくらいなら、学校なんていかんでええ」
なる仏の真理を仰るユタボンにありがたらないのは意味不明である。
(なお後輩イジメの方は、体育会系ソフトテニス部で単なるストレス解消として、上記のガムネタと無関係にやられたのだけれども、負の連鎖をたちきるべく僕の世代では後輩を優しく扱った。まあ自分が部長になれればもっと文化を改善できたのだけれども、教員の選択眼がなかったので少しだけに留まった)
逆に言うと、僕は奇跡的に自殺せずにいきのびた成績優等生側に属していた子供で、とんでもなく倫理の質の低い集団に無理やりねじこまれるとそういう子にはとかく悪影響しかない。多少ともあれ同調しないと即座に全力で全員に虐められるわけだから。ユタボン批判用語の「社会性」ってその意味なのだ。もっというと、ユタボン批判用語での「社会性」とは、使ってる人らの脳内では同調圧力を優先し、少数派を全力で潰しまくって擬似的な和を形成するという、日本人集団に典型的な、あの窮屈なイジメ能力を意味しているのだ。裏を返せば社会性が身につかないとは「イジメに屈せよ」と同じ意味である。
茂木博士が「高偏差値、高学歴は、「クジャクの羽」のこけおどし?」の動画内でユタボンはもう社会性みについてるじゃん、と申されている。この文脈は確かにリベラルにはそういえるが、反ユタボン用語の核心を捉えられていない。日本人一般はイジメに従えといいたいのだから。
僕の場合、ユタボン先生のお告げがなかったので、一度は死まで考えた地獄の小中学を知恵と勇気でなんとかのりこえ、高校は近隣の進学校に入れた為そこでうまれてはじめて救われる結果になった。驚くべき学校文化の違いがあり、イジメが先ずない。そればかりか教員すら生徒を自由にしほっといてくれる。
またこれも驚くべき話だが、成績優秀者だけ集めてる様な場だと、まあ絶対というより比較的なものにすぎないともいえるが(中にはアホもいたので)、集団のモラル水準が随分と高止まりする。さらに最初男子校だったが途中で共学になり女子が入ってきても、当然だが乱れた風紀とかになんらならなかった。
僕は高校入学の時点で小中学の経験から、もはやこれまでの日本社会の機械的量産をくり返すだけでは地獄の再生産にすぎないと悟り、今の言葉でいえば「イノベーター」になるしかないと固く心に決め、とりあえずアカデミズムを全否定するところからはじめた。その後の人生は別の項で詳述するかもしれん。
進学校内部だとどれだけ違ったかの一例をだすと、これも今にして思うと感慨深いので記述してみるが、僕がじゃんけんで部長になった美術部で(古代ギリシアの政治か)、キャンプ行ったときの話。自分が3年で1年に女子生徒が入ってきたのだが、深夜にテントの中で皆で話しててそこに女子もきた。で、なんか性的な意味での恋愛ぽい雰囲気みたいなのが発生し、下手するとみだらな感じがした時に、僕の親友は「いいじゃん」とかいっていたのだけれども、なぜか僕が直観的に指導者ぶりを発揮して女子らを自分のテントに帰らせた。特に考えずやったのだが、そんな感じで倫理水準も高止まりするのだ。
わたしは、茂木博士の常々仰る個性の育成を中心にする自由教育論には全面的に賛成なばかりか、寧ろ茂木氏ですら時にぬるいと思ってるくらいなのだが、彼の偏差値批判の方には上述の様な盲点があるとも考える。IQが大まかに精神年齢をさしてるとすると、似たIQのクラスでないと集団教育は不可能に近い。普通の公立だと成績でクラス分けしていない。その場合、平均にあわせて授業されるので優秀者側はほかの人らが唸ってるあいだ時間をもてあますばかりか進度が遅くて拷問だし、逆に劣等者側なら授業についていけないのでずっと拘束され叱咤され皆にはぶられてるだけに感じて、これまた拷問に他ならない。
ユタボン批判者の大半は、この意味で、成績平凡者ではないかと推測される。彼らは社会性というイジメのおしつけをしたがるが、それは彼らが日本社会になじみすぎて単に同調圧力ヒエラルキーを和教団として信じているだけでなく、彼ら自身に都合のいい平均最適化の現体制を正当化するためでもある。
私立や特別学校など複数の選択肢がある地域は、よりその子なり再教育をうけたがる人にふさわしい場をえらびだせばいい。問題なのは1校しかえらべない環境にある場合だが、このとき親の方が不寛容で頭が固かったら個性派には人生終了になってしまうが、もしできることならユタボン的選択が最善となる。「1校しかなく、親・保護者の頭が固く、個性派だった時どうすればいいの?」についてだが、まさに自分がこれで、自分は我慢してしまった。それで人生の前半部は完全真っ暗になり(周りには明るい子にしかみえなかったろうが)、拷問以外なにものでもない4~15歳までだったのだが、寧ろ抵抗すべきだ。大体10年も人生を無駄にするのは賢明といえない。自分は幼児だったので抵抗手段は皆無、地獄でしかない拷問をおしつけられるがままになり、一度は精神的に死の直前までいった。しかし自分はまあ日本人の遺伝としていかにもありそうだが素直で大人しすぎただけで、本来エジソンのよう生きるべきだった。
抵抗とは、自分はこうしたいのだとか、学校がいやなのだとか、野蛮な人間たちとふれあいたくないのだとか、子供は語彙をもたないので、一般になんらかの身体的行動などで親や保護者に伝えるしかない。脱走とかぐずりとかでも最低限度の意志伝達にはなる。逆にいい子にしていると拷問は果てしなく続く。
誤解してもらいたくないのは、あたりまえだが不良行為をしろといっているのではまったくない。自分の感じていることを周囲に伝える努力をあらゆる方法で試し続けるべきだといっている。「いい子」とは、ここでは皮肉な意味で、自分の内心を表にださず、親を思いやる行動は逆に、不条理といっている。いまにしておもうと、自分はこどもながら親を思いやるがゆえに、彼らの望む「普通」が破綻しない様に行動していた。そしてこれは親の脳内で不確定性を低減させはするものの、そんなのもう爺婆に彼らがなって死ぬ直前の最近まで孝行をくり返そうとも(実際そうしたが)、実は、自分の実人生ではない。このため、孝行の観念をある種の賢明さによってもってしまっている子供については、親の死後(しかも孝行するほど長生きするかもしれんから、恐らく自分みたく青年後期から壮年にさしかかってから)にしか、本当の自分の人生をはじめられないことになる。それでは一般に、事を成すに遅すぎるのである。
ユタボンみたくできるだけ幼児のうちから我を出し、自分はこれをやりたいと決めたら、基本的に親を無視して自分の為だけに生きるべきである。この考え方は、どうも欧米人みてるとあたりまえみたいだが、IQか孝の観念のせいか日本側では常識的ではない。だが彼らの方が正しい。孝行はオプションなのだ。
で、その「我を出す」生き方をしてる西洋人の一種であるところのグレタ氏の方だが、自分のみるところこの人の主張は、かなりの部分が科学的陰謀論の類である。温暖化が悪だという前提そのものが幼稚な勘違いなので、遠からず、ありとあらゆる反対の現実を否定しきれなくなり運動そのものに挫折する。しかし、彼女の生き方自体には学ぶべき点が多い。中学生のしゃべり場(もうNHKにないか)的なというか、青少年の真摯な主張は、人生経験や世間知の不足から大抵は勢いとは別にまちがいが含まれ、あとから振り返って恥ずかしく思う羽目になるだろう。それは問題ないが、はっきり自己主張するのが偉い。
ユタボンの聖言「自殺するくらいなら学校行くな」は完全真理だから天才と認めるべきだが、グレタ氏の「(温室効果ガスを出すなんて)なんてことを!」は相当、科学主義者にありがちな科学哲学上の認識のあやまりがある一方、激しく自己主張し軋む車輪は油を注がれる式に言行できているのがすばらしい。日本人一般は17条憲法式に和のおしつけでおとなしく個性を殺して無口で黙々と働く国内最凡人(裏を返せば天皇制の下に生きる奴隷社畜)を最高傑作と思っているので、ユタボンやグレタ氏の異言偉業には大発狂の日々をすごしているけれども、僕の目からみると狂人なのは日本人一般の方なので笑えてくる。
出る杭をうちまくって個性抹殺に躍起な自称普通の日本狂人らは、自称社会性と呼ぶ集団イジメを正義と、天皇政府の義務教育以来徹底してすりこまれているので、みずからの奴隷根性を疑えない。それはいい。直らないものは直らないのだから宗教信者を憎むのも愚かな話だ。それで次が本題だ。
日本語ツイッターは匿名アカウントがやたら多く、これは労働者らは会社や組織に命を握られているので問題起こした途端くびきられるのをおそれ、責任放棄しながら悪口誹謗まきちらしてストレス解消する為らしいが、和の狂信を兼ねているので強烈で卑怯な慣行となっており一朝一夕には直らないであろう。
ユタボンらの論考を先に書いたのは、次の分析を理解する前提条件になるからだ。すなわち、このおそらく日本特有なのだろう匿名卑怯者文化というのは、もともと義務教育の犠牲者らの成れの果てなのである。個性を殺し和に群れる全体主義が正義としつけられまくると自我を喪失し集団虐待する様になる。顔を隠し、匿名でユーチューバーしたり、ニックネーム使って素性を明かさずこそこそ配信したり、一昔前なら2chで名無しぶって誹謗中傷だの名誉毀損だの犯罪予告だのを書き散らしていたり、こういう日本人一般が普通にやっている行動原理は、彼らが我を殺した果てに無責任な卑怯者になって生まれる。もう少しさかのぼると『「空気」の研究』『「甘え」の構造』『菊と刀』などなどを経由、五人組とか17条憲法を挟んで、最古までいくと弥生時代の水稲村落社会での自我埋没理論までいきつくが、現役でもツイッター匿名集団がまさに、恥をかかねばなんでもやるという日本的特徴を発揮しているわけだ。
もしその匿名が善意からのもので、集団で「人前でみせつけるために」善行していると思われないため、ちょうど身分を隠したヒーローみたく呼べるふるまいを皆がみんなしているならそれは立派なものだが、まったくの真逆である。それで僕はこの1年、ツイッターを朝晩みてみてまたここもダメだと思った。じゃあダメな場になんでまだこうして居残ってるかというと、比較的ましな人達だけみてれば少しは情報機関として使えるからなのだが、人間関係ゲームだったアメピグを限界までやりこんだ僕からみて、ツイッター政治は尋常じゃなくぬるい。ブロッカーが典型で社会的分断で解決したつもりになっている。政治のおそるべき極みは、ありとあらゆる邪悪なる利己心をもつ人達すべての利害を、最大の狡知と大胆不敵な勇気でまとめあげていくダイナミックな劇展開にあるわけだけど、ツイッターではついぞその種の力動をみたためしがない。ロム専だった初期から数えてもSNSとしては2chレベルの罵倒の場である。
なにがいいたいかなら、第一に、個性を潰す場では一切、優れた人が生き残る余地はない。だからツイッターも残念だが日本にあわなかった良貨駆逐のダメシステムなのだ。第二に、日本国自体がその単位なので逃げろと推奨してるのもいる昨今、国内に踏みとどまる側にできるのは人づきあいの厳選だけだ。
この文の最終結論として自分にいえるのは、ユタボン、グレタ氏みたいな天才奇才級の個性は和地獄の日本には絶対に合わない。即刻国外脱出か、さもなくば、自分みたく人づきあい自体を最大限遮断するかどちらかしかないであろう。中間で耐えられるのは個性の独特さが中途半端な人だけということになる。
勿論、この中間で同調圧力ヒエラルキーに交わって赤くなるのを「世間を知っている」とか「社会性が身についた」とかいっているのが、日本国に適応的な凡愚であり、当然ながらその種の人々が世界史に必須級の傑出した偉業をなしとげられることはない。だって最平凡へ無理にあわせられてしまうのだから。一本足打法を強制的にやめさせられそうになったり、そもそもオリックスでさえドラフト1位でなかったり、完全イジメ以外なんでもない状態で長年耐えていた頃のイチローは、いくら最優秀でも悲壮だった。だがあれが、日本で偉人の置かれている悲劇の常だ。ユタボン英雄譚を他山の石とし、馴れ合う勿れ。