2019年9月10日

「裁き」の解釈

(先日書いた詩「裁き」について、ツイッター上でグノーシス主義か問われての返信集)

グノーシス主義についてはウィキで流して読んだくらいしか記憶の一部にありませんでしたが、改めて調べ直してみて、上記の詩の様なものに表されている内容と、確かに反宇宙論(外界が悪なるものと考える)にはある程度の相似性がありますね。
 もう少し詳しくみると、神に関する考えについては、グノーシス主義は真の神がイデアとして存在する一方、この世界の原因となる創造神については悪とみなすので、上記の詩の様なものを書いた私の考えとは幾らかずれがあると思います。
 筆者としていえるのは、筆者自身は、神を自分が達成できる対象とみているらしいので、これは私がはたちくらいのころ現実の不条理に厭世するあまり、神になる夢を抱いていたのと関係しているでしょう。
 その後、猛勉強しようが全知に到達しえないと悟り、神は無限に接近できる全知全能全徳の当為(聖性の上位に神性がある。精神性とは神性に関するくわしさ)だろうと考える様になりました。
(聖性はここでは真善美を兼ねる性質を指します)
その様な神性は、プラトンやグノーシス主義にいわせればイデアだということになりますが、私自身はプラトンのイデア論やグノーシス主義のそれと別のルートで一部相似の当為論を抱くに至ったということでしょう。
 より厳密にみると、プラトンの場合はイデアを最高善についての認知だと考えていると思いますし、グノーシス主義についてもイデア(或いは霊)を認知的な対象だと考えていると思います。しかし私はこの当為についての相似部分については人格神(人の形をもつ神性がある)がありうる様に考えており、ヘーゲルの様に人類の一員として当然の到達目標、進化の或る意味で王道的な道筋という風にみているのだと思います。

 ただ二元論という部分に関しては、上記の詩については、人類全体は勿論のこと全宇宙をもその人格神性による裁きの対象と考えているみたいなので、いってみれば筆者としては最終進化後の宇宙人、まあほぼ最高神みたいな業の支配者を想定してるんじゃないかと思います。
 別の言い方をすると、私は一人類として進化の方向は聖性を超え神性へ向かうべきだと考えており、その方向は同時に人類滅亡後(主要文明なんて全部滅びましたからね)にも続く或る生命体の進路であって、いずれ自分なり自分の子孫なり傍系子孫なり、私の意志を継ぐ人類の一員なりもその方向へ進むと考えているのだと思います。そしてその今日の人類一般の目からみると神的な世界では、個々の神格は無我が当たり前ながら無私の裁きが仕事であって、世界に秩序をもたらす役割に収まっているのだと空想しているのじゃないでしょうか。まあ私はそういう業の支配者になりたいのでしょう。
 聖書ではイエスが(口述律法による恣意的裁判を否定する文脈で)「人を裁くな」(マタイ7:1)パウロが「自ら復讐するな。神がする」(ローマ12:19)といい、『ダンマパダ』252、『ウダーナヴァルガ』27-1でゴータマ(釈迦)もほぼ同じ含意で「他人の過失は見易く、己の過失は見難い」といっている。
 つまり、我々が業の審判になりうるとしても、単なる力でなく徳の訓戒でも無矛盾にそうするには自らが最上の人徳者、或いは神格でなければならない筈なので、道徳的謙虚さ(徳版の無知の知、不知の自覚)を前提にすれば、上記の詩みたいに或る不動の真理にしかできないのでしょうね。

 あと筆者(私ですけど)は「全宇宙が破壊され尽くせばいい」と書いてるので、自然自体がビッグクランチみたいに必然にもたらした全宇宙滅亡後、全宇宙版の終末論じみた考えというか、(自ら神性への進化に加わりつつ)最高神の立派な真理が秩序づけた、理想の新世界が来るみたいな予言とも読めますね。
 どうでもいいかもしれませんが、昔私が仲間と作った『ほしをまもるひと』という数分くらいで終わるミニゲーム(超短編RPG)の筋は、大体上の詩みたいなのと似た内容と思います。人工知能のシンギュラリティがもたらす終末後の世界にも或る希望がありうるのだというお話です。
(なお私はシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれる、人工知能が人類の知能全てを超える点は現実には来ないと思ってます。きても、一部の機能の模倣という部分的なものと思います。理由はプログラムは機能模倣か、或る目的に供するものだが、脳は自生的で無目的な自然の一部で根が違うからです)