2019年9月10日

性的指向と配偶様式の最小制約論

性的少数者の変奏はLGBTTQQIAAPPZN(Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender、Transsexual、Queer、Questioning、Intersex、Asexual、Ally、Pansexual、Pedophilia、Zoophilia、Necrophilia)ともっとふえていくだろうし、公害かつ犯罪にあたるものも含め、性的指向単体を貶めるのは愚かだ。或る性的指向が、なんらかの意味で自他に有害で不道徳だった時も、そもそも特定傾向の嗜癖が脳の現象として出現している事実に引き比べ、それが非定型的である点だけとりあげて貶める観点は、論理的に破綻している。定型的な性欲も客観視すれば単なる凡庸な嗜癖で、理性的には愚かでしかないからだ。
 同じく一夫一妻制を絶対的な定型性癖の信仰箇条にしている人は、パブロフの犬のようなんにでも条件づけられて成立する嗜癖のしくみ自体を、文化人類学的に理解できていない。もともと類人猿や、ほとんどの部族社会は一夫多妻だし、キリスト教の影響が広まる前はどの文化圏でも似た様なものだったのだ。多夫多妻、一妻多夫その他の配偶関係が制約される理由は、実質的に法律を多数派が少数派の犠牲のもと恣意的に統制していることにしか求まり得ないだろう。少なくとも配偶者同士で誰かの契約不履行や裏切りの不倫を含まない形で、複数相手とも婚姻可能な筈だからだ。結婚は個人間の契約と考えるべきだ。
 もし近代保守主義者が、今後の寛容度の高まりに抵抗しようとしても、単なる時間の問題でその種の信仰集団にとっての規範に留まるだろう。具体的には一夫一妻制の元、異性愛者として定型的な性指向をもち、それを正義と考える人達は、特にイスラム教徒の人口増加に伴い、地球規模で少数派になるだろう。

 特定の性的少数者がどれだけの公害度か、単なる主観的偏見を超え社会的に研究し、その程度に応じて法的統制が図られるべきだが、同時に、単なる内心の自由、思想・信条の自由としていかなる性的少数嗜好も、嗜癖の一種として不可侵に認められるべきだろう。内面の性には禁忌がありえないという意味だ。
 同時に、配偶についても、自身の配偶様式への信念と多かれ少なかれ異なる他人のそれを、法的・倫理的に制限するのは、自身への公害が及びえなければ、全く望ましくない。いわばこの場合も、配偶の自由度は、他人の配偶嗜好が自身の自由や諸人権を侵害する程度に応じてのみ、最小制約されるべきなのだ。