最も類人猿に近い人々は、大脳新皮質の働きが弱いほど本能に抗えず容易に発情し、繁殖している。一方、利他性の高い個体であればあるほどこの本能を抑圧して生きているので繁殖率が低い。宗教界が行おうとしたのはこの本質的矛盾を逆転しようとする試みだった。そして資本主義教が成立後、利他性を相利性の金銭取引を介する一部と同定することで単純化し、金儲け度を成功と信じさせようとした集団が現れた。この集団は商業化を正義全般と混同させつつ、搾取や壟断を市場での適応行動と定義し、利他性を矮小化した。
資本主義教徒は金にならない利他性を排除したので、この信徒中では人助けは仮言命法より価値がないものとされ、他人は商いの手段にされた。資本主義教義によれば、そこでの人間の道具化は究極のところ、労働者や消費者を奴隷化すること、家畜化することだった。
労働者は共産主義や社会主義を通じこの信徒と戦ったが、結局、自ら資本家自身となってこの新奴隷制を利用する方が利口だと考える者もいた。皇族や法王、王侯貴族らはこの資本家の一員となることで難を逃れ、同時に世人を勤労と納税の義務で縛り、自らは搾取の頂点付近に鎮座し続ける策謀を成就させた。資本主義教で洗脳された労働者の中には、自ら支配者を狂信し、被雇用者として労働しない者を迫害する過激派も多数現れた。こうしてはじめにあった矛盾、即ち利己的な者の方が繁殖し易いという人間界の根本的欠陥は未解決に留まった。金儲けも或る利己性だったからだ。
社民主義や一国二制度下での共産主義は改良された信仰として資本主義の欠点を部分的に解決したが、そこでも商業が主な成人の仕事となって類似結果が出てしまう。つまり、ブータンのよう古典的宗教国を作り、その中では慈善活動の方が商業より社会的に優位となる状態を作ることなしに、最初の生物としての人の課題は解決できなかったのだ。
神道国としての日本は天皇が教祖として純粋な慈善家ではなく、皇族も世俗的職業に就き、或いは資本主義教を利用する半宗教国なので、これを反例にすれば神聖さを帯びた純粋に慈善的な教祖と、世俗的君主含む政治家とは分けて存在させねばならない。その上で教祖が上位者であれば、政治家は資本主義教に反し、より調整的な役割を担わざるを得なくなる。つまり政教分離は必要である。バチカン市国やチベットは法王やダライ・ラマが世俗的権力も兼ねているため、日本と似た類型、いわゆる政教一致に陥っている。
神聖教祖は一切の世俗性を離れ、純粋に利他的な人格の模範たらねばならない。そうであれば世人はこの人を生きる理想とし、商人でさえ自らの利己心を恥じるからだ。政治家は聖俗を見比べ商業の利益を再分配しなければいけなくなり、全体として社会は利他性を帯びる。良い国とはこの様に神聖教祖が世の模範となっている状態を指している。そして往々にして絶対権力は腐敗するので、聖人は形式によらず、単なる一個人として最も利他的な人として現れる。そもそも神聖教祖は後世や信徒が彼らの利他性を美化し言うものだから、同時代的には恐らく一部にしか名のない哲人として存在するだろう。しかしこの種の人の道徳性の質が、ある国の良さを代表する。