2019年4月9日

精神を病んだ人を世話することについて

わたしの経験上、精神を病んでるタイプの人間を、健康状態まで引き上げるのは殆ど不可能なばかりか、現実に全生命力をかけてそれをしてもすぐ元に戻ってしまう傾向もあるから油断ならず。かつ引き上げるだけでも全力を使わないと無理なので、メンヘラ(2chのメンタルヘルス板にいた人々の通称)と呼ばれる人らを2人以上相手にするのは絶対無理。
 イエスが慈悲で人々に接していたとして、聖職者のまねをして、いわゆる精神病者もどき(メンヘラと呼ばれる、同情を引く目的などで病的な振る舞いを演じる人々)、または真性の精神病者に接すると、普通に自分まで重い負担を背負い潰されかねない。同情が仇となって自分まで死にひきつけられてしまう。
 インターネット上に自傷行為を晒している人。たまにいると思うが、そういう人は俗にメンヘラといわれている。この人達の行動は精神科医でも十分分かっていない部分があり、一般人が理解するのは物凄く難しい。であるから常識で同情すると、危険である。
 自分は或る自閉症の、いわゆるメンヘラといわれるだろう人物を、健康状態までひきあげる為にありとあらゆる手を尽くして5、6年経過した。確かに、全力を使ったかいがあって当人は以前より遥かに健康にはなったが、元々その人の脳はすぐ自傷癖にもどってしまう傾向(苦痛緩和の手段に自傷を選ぶ)も残っているので、中々、健常者でいうところの一般的健康(自傷癖など全くない状態。想像もつかない状態)は回復されないが、それ以上の健康度に引き上げる為に自分は努力している。精神科医はこの精神を病んでいると診断される人を、薬で動けなくしたり、うつ的症状に際し不足している脳内物資を補ったりして、健康な人に近づけようとするが、元々その種の精神的病状に戻りやすい傾向をもっているので、これには限界があるのだ。薬代や、肉体自体への負担もある。精神分析学を応用し死の衝動に対しリビドーを強化させたり、自傷や自殺願望に対しては嫌悪を表明し嫌われる恐怖から忌避させる様にしたり、あるいは24時間付き添って相手の不安を緩和したりなど、打つ手は色々あったが、当人の脳が自傷癖の快楽(苦痛緩和)を覚えてしまっていてそこは直りづらい。元々、自傷癖とか自殺未遂とかに走り易い人というのがいて、その人の脳はいわゆるドーパミンなど興奮物質が出づらいのである。うつ的傾向が最初から激しいので、ちょっとした喧嘩とか世人の心無さで受ける簡単な心的衝撃でもすぐ自傷・自殺に走ってしまいがちである。精神的に弱いともいいかえられる。
 この様な自分の経験則からいって、一般の人で、精神的に強くない人が、メンヘラと呼ばれる精神を病んでいる演技をする人、または実際に精神科医から精神病の診断を受けている人の世話をするのは大変難しい。自分は精神的にタフな自信があったので実際に試みたが、それでも物凄く負担があった。私にいえるのは、先ず世話を試みる側が自分自身の精神や肉体を意図的に健康に保つことを前提にしなければ、決してその種のメンヘラ・精神病者を救うことなどできない、というわけだ。実際自分も24時間つきそう必要があって肉体的健康度は大分削られた。元々肉体の健康に自信があってすらそうだ。だから精神的に強く、肉体も強壮な人であって、しかも精神を病んでいる人に思いやりがある様な人で、かつ、自分の肉体的・精神的限界を熟知していなければ、メンヘラ・精神病者を自力で救済は絶対にできないであろう。大抵は、逆に相手にひきこまれた結果、自分まで心身ともに磨耗しきることになる。
 私はその自閉症の人(今では恋人といっていい関係だが)を救うことを最初に決めたとき、周囲にいた別の自閉症の人にアドバイスを求めたところ、「一緒にいてあげてください」といわれた。だからその通りにしたのだが、これが極端な話で24時間いないと不安に陥って自傷に耽ったりするのである。たまたま私の精神力が並々ならぬものがあって、そもそもその世話をはじめる以前に肉体も限界近くまで鍛えていなかったら、到底この5、6年のとんでもない労苦をのりこえられなかったであろう。私と同じ風に同情から精神病者・メンヘラの世話を試みる人は、今私が言ったことを冷静に参考にしてほしい。
 一般的にいえば、精神科医の領域としかいえない、異常事態が余りに多く発生するので、凡百の人ではすぐお手上げとなることは確実で、しかも実際の世話にはいわゆる共依存となる可能性しかないので常にメタ認知などの心術を使って、状況判断に一定の心理的距離を保たねばならないなど、色々なコツがいる。自分から精神病者、メンヘラの世話を買って出る、という奇特な人は実際におり、自分も善意の故にその一人だったわけだが、負担を背負う割に報いは少ない。だが自分がおしつぶされない範囲で、限界までこの救済的措置を試みていると、少なくとも人間愛について、特殊により深く学ぶ機会にもなるだろう。