人は少しも自分の為にならない利他行動を無限にできるものではない。よくしつけられた人にとっても、ある行いが基本的に自分の為になる事、特にその本能を満たす物である事が普段の必要だ。
利他主義はこの範囲を拡張したものでしかありえず、自己犠牲は例外的な貴重性であり、ある人が人生を楽しむには利己性に含まれた利他主義を追求するしかない。特に単なる悪人や利己的なだけの人に自己犠牲を行ってみたところで、その人達は偶然の幸運を喜ぶだけであなたへ何の恩義も感じず、逆に虐げてくることすらある(宋襄の仁)。倫理的中庸は相利性を追求することにあたるのだ。
これらの事実にもかかわらず、真の善(定言命法)は純粋な利他性のみにあたるのであり、相利行動は偽善または半悪(仮言命法)でしかありえない。いいかえると相利性に向けての中庸と真の善は矛盾している。この矛盾は自己利益が相手にとっての利益でもある場合に限って、真の善に対する緩和として利己性が容認されると教えている。アダム・グラントのいう成功するgiverは利他性に包含される相利性の部分かつ利己性の部分(利他性⊇(相利性∧利己性))であり、この矛盾を止揚している。
ピーター・シンガーは2019年1月17日のインスタグラムへの投稿の中で、"The hedonic hamster wheel of a consumer lifestyle"という小題で、消費生活のラットレースから抜け出す骨として利他行動を勧めている。ここで脱消費生活的な態度と絡めて自尊心を回復する手段になっている利他主義の実践とは、上述の真の善にあてはまる無私の、非営利的な利他行動だといえる。しかし自己犠牲をくり返してきた人にはわかる事だが、これもハムスターの車輪同様に人を疲れさせる一方で、搾取的・他害的な人は遠慮なく利他主義者を貪り、利用し、陥れる。いいかえれば例外的な自己犠牲を除き、普段から維持可能な利他性一般は、利他性が相利性と利己性を共に包含しているような場合である。私はこの状態をあらわす概念になんらかの命名が必要と思う。それは利己性、相利性、利他性という3分法では十分示せない領域だからだ。ここでは全利性と定義しておく。