インターネット上で悪業三昧していた人間の末路は、観照に値する。もし因果応報が人道の哲理なら、彼らの悪徳が自滅をもたらす筈だからだ。また反証できた時、悪業と考えられた振る舞いを再考する意味ができるだろうからだ。だがこの際、当該人物の悪業については厳正かつ客観的に認知している必要があるが、自分自身が被害者だった時、うらみや呪いといった復讐心をできる限り離れて分析しなければならない。ここでいううらみ(恨み・怨み)は、加害者への受動的な感情、呪いは加害者への能動的な感情である。少なくとも相手の加害に反し相手が善き結末を得たときうらみや呪いが晴れず却って深まるかもしれないし、これらの感情はかつて一度以上自分に災いをなした有害な他者を見分ける為のみに役立ち、それ自体が復讐による正義の回復のみを目的にしているので、業の分析に対しては確証偏見を与えてしまうからだ。
ゴータマやニーチェはうらみを捨てたり、超える事を推奨していた。だがこの感情の本体は自分の受けた被害に対する賠償を求める正義、即ち復讐感情であり、賠償が叶わないときは呪いとして相手の自滅を願う報復心となる。聖書では神による自然的復讐を信じる事を推奨し、自分自身による復讐を諦めよと説かれている。これらはうらみそのものをもっていない状態の方が気楽である、と考えることによる心理的な骨なのだろう。逆恨みの様な正義に反する例外的妄想を除き、自分の信じる正義が、自分の受けた被害に対して実現されない事は社会的公正に反している。裁判制度は或る共同体にとって共通の最低限度規範としての法的な範囲でこれを部分的に解消するが、個別具体的な倫理的裁きを確実に遂行するものではない。聖書でいう神による復讐とは、相手の悪業、即ち加害行為を悪徳と見なすところに成り立っている。加害行為を含む悪徳が当人にとっても有害な事は明らかだから、倫理的裁きはその当人の悪因に応じて結果する。すなわちゴータマやニーチェのいううらみへの否定的見解は、この倫理的裁きを前提とし、法律未然、法律以外または法を超えた悪業へ、能動的に復讐する事への不合理性を指摘するものなのだろう。いいかえると犯罪への法的裁き以外のうらみと呪いは、復讐費を鑑みると悪徳を持つ相手の自滅を待つという消極的な方法で解消する方が合理的なので、それを捨てたり超える方がより賢い事になる。この事を顧慮しても、業の観察は人徳についての単なる後学のために可能なだけ客体的になされるべきなのだろう。
勿論、善業を行っていた他人に対する観照はより価値の高いものなのだろう。残念ながら、平成時代の日本人一般はインターネット倫理というものを殆ど持ち合わせておらず、匿名を隠れ蓑に悪業三昧している人が非常に目立っている。