2018年7月10日

聖と善

美ではあるが善でない様な対象と、善ではあるが美ではない対象を見比べると、前者の方が劣っているのがわかる。単に美ではあるが悪い物は有害だが、醜でも善である物は役立つし、しばしば目的の物でもあるからだ。真善美の内、最も究極目的に近い価値が善である事はこの比較でわかる。
 他方、真善美をもちあげた聖という価値が善より高次元の価値であると理解するには、善ではあるが偽かつ醜である様な物とか、美ではあるが偽かつ悪である様な物を想定すればよい。聖は少なくとも、あらゆる価値を全体集合と考えたとき、真善美各々の部分集合3つの共通部分であり、真かつ善かつ美である様な価値を指すと考えられる。しかし善だが偽かつ美である様な場合、例えば白い嘘と呼ばれる人を傷つけない為の悪気のない嘘の様な物は、聖価値自体ではないにせよそれに漸近する事がしばしばであり、真だが醜かつ善だとか、真だが美かつ悪だとか、あるいは真だが醜かつ悪だとか、美だが偽かつ悪だとかいった様な場合に比べると、善は美や真より一層、この聖部分集合に属する要素が多いのだろう。