利己主義者を成功者と見なし、手本とする超人志向はニーチェ以来の自己実現の妄想に過ぎず、その種の利己性は他人に優越する事を目的とする卑しい人間を生み出す。唯一、真に幸福に値するのは利他的な人だけであり、資本主義、商、金儲け、或いは公務を含む何らかの生計の為の仕事と結合した利己性は、本質的に他人に害をなす。
ある生業が相利的である時のみ返礼としての報酬が得られる、と考えても、この儲けを企業から付加価値と見なそうと、或いは消費者から搾取と見なそうと、その分を適切に社会還元、又は他者にとって有益な方法で用いない限り、商業自体が他人には有害である。端的にいうと、商業的成功とは、他人をより貧しくみなし、差別する為の害他的な目的で行われた悪意の積算である。これ故にゴータマは「法による商人として暮らすな」と言い、商行為を根本的に否定していた。
商人が多数派を占めている国で、乞食が有罪とされ、代わりに搾取という罪を含む商売が正当化されているのは、商業が他者に有害である、という本質的理解がない無知な人々から成るからだ。アリストテレスのいう部分的正義の内、調整的(矯正的)正義に対する配分的正義と、搾取能力(逆にいえば付加価値能力)に応じた報酬の付与に、相利的行為への動機づけや鼓舞という効果があるとしても、これは仮言命法の域内にある不完全な条件つき善行でしかない。営利抜きで行われる慈善行為のみが、本来の定言命法的善行である。つまり、商業は半ば悪意の人々、利己が真の目的である様な偽善者らにとっての生業である。返礼を省略する規則が金銭のやりとりだとしたデリダは、商行為の搾取的側面、利己的側面についてわざと無視させようとごまかしているといえる。
結局のところ、我々が商業的成功者を真の聖人と見なしえないのは、その行いの本質に利己性があるからであり、これは嫉妬による非難をかわす手段としての慈善と寄付が貧者の一灯らしさをもっていない事、嗟来之食らしさがある事へ、賢人らの厳正な人格評価的眼差しが注がれるからに他ならない。資本家(投資家・投機家)、経営者、労働者らを含む商業階級全般への蔑視という貴族的観念の本質にあるのは、利己性という卑しさに対する人間的直感に違いない。商業化した先進を自称する国々、発展したと称する国々にあっては、それらの国々の大衆一般と違って、この利己性と利己主義を鋭く且つ徹底的に忌避する方向のみが、善の名に値する。この観点から見れば、アイン・ランドは極悪人と評されざるをえないだろう。