卑しい人、愚か者の考え方をそうでない人が伺い知る事は極めて困難である。卑しさや愚かさは何らかの文化資本としての思考の欠如に由来し、特に、他人の意図を利己的にしか解釈しえない人々に該当する。これらの人々は、人生において利己的かつ害他的に生きる事しか考えておらず、多少なり利他的で自己犠牲的な人々の思考に理解や想像が及ばない。一般に、この卑しさや愚かさは育ちの悪さと言われる。生活に余裕のない人は、子育てについても同様に、自分の最小限度の生活資源を確保するため周囲と利己的に闘って生きてきたからだ。
他方、皇族や金持ちの育ちがよいわけではない。前者はその宗教政治的・祭政的独裁権力により人権がないものとして極端に贔屓され常々他人を差別して生きてきたからであり、後者は怠惰や傲慢により為すべき利他性の学習を怠ってきたからである。
卑しさや愚かさは、自他の害毒である。卑しい人、愚かな人はほぼ無意識に判断の正否を支持者の多寡に求める。したがってこれらの人は衆愚になり易く、より卑しくより愚かである事を反省しないどころか自慢したがりさえする。民主主義、多数政はここに衆愚政化する。多数決が正しさの根拠でないのは、衆愚の判断にはより下卑た人々、より劣悪な人々に群れて安心する、という集団錯誤が原理的だからだ。こうして錯乱的な群衆によって大都市圏は形成され、より衆愚な人々が都会から無知や高慢といった悪徳によって虚栄心に耽り、悪業の限りを尽くす。結果、大都市ほど人口は急減し犯罪率や社会的格差は急増する。悪徳は絶滅の様式だからだ。卑しく、愚かな人ほど都会を憧憬するのは、衆愚に同調したがるその人の持つ悪徳の故である。
宗教権力や有限の資源たる金銭を独占する人々はそれらのふるまい自体が利己的で害他的だから、それらの特徴、つまり皇室制度や蓄財量は人々の持つ悪徳の結果である。