2018年2月15日

業と神格

愚官や衆愚、極悪人達の死や苦痛は、善の勝利とより利他的で高徳な、慈悲に満ちた社会の到来を意味するので、娯楽以上の快である。暗愚で権力亡者の長期政権を布いた首相、退廃した自民党閥や侵略内乱罪を自慢する薩長土肥京芸州といった悪党集団、世襲邪教祖による象徴と名目化された独裁者、悪徳商人の大金持ち、愚劣で悪徳に満ちた若害成金、卑賤で傲慢な匿名犯罪衆愚等が苦痛を託つほどこの快楽は高くなる。業を認知する事は、来たるべき結果へ向けて苦痛の最小化と快楽の最大化を意味している。神格性とは、業からえられる必然的結末を自らの現実認識のうちに蓄積する態度を意味し、道徳的洞察としての理想から導かれる。
 Schadenfreude、痛快が感じられるのは、失敗した他人が不道徳か悪人の場合であり、道徳感情における業の認知に関わる。神意は公徳に関わる全生命への道徳認知の結晶であり、物理認知はこの部分である。不徳な悪人が不幸になる必然は、神意や道徳感情に反する為に起きる。不徳な集団としての衆愚、或いは愚官は、悪役になる為に群れているのである。