2013年2月7日

商業文明の全体性

反商業主義は確実に、個人主義の第一歩になるだろう。商業は利益bulgeへ全て民衆を群衆化に結びたがる。この思想は総じて、ベンサムを起源とした快楽計算的な量的最適社会構想を否定する所から始まる。中産集団の中にも商業的群衆化を是とする価値判断の原理が生じ易い以上、中流的な消極さが最も誤り難いという民衆政の公理も否定される。

 原理主義が反商業主義の中に入っている事で、それが商業集団に不都合とみなされているとすれば正にこれこそが宗教のはじまりだった。宗教は反商業的な調整の役に寄与し易く、多くの政治行為にとって理論背景を提供してきた。商業文明は全て、中産集団の功利主義によって群衆化をもたらす悪い体制。こういった集団から離れて、本来の社会性をとりもどすにはベンサムの快楽計算から外に出る必要がある。
 計量できる快苦という考えは、金銭で代替される資本に価値を一元化させてしまい、人々を統一した趣味に染めてしまう。趣味は自体が道徳だから、結局快楽計算は全体主義のはじまりだった。