言葉の規則内での工夫や慣れが我々のいう民族語の域をつくるのは傾注に足る。言語がどこかしらからもちこんだ幾つもの特徴を有するのは、それが他と異なる差異の体系を内に含んでいるので。そして、私等の知る限りではこの特徴が実質は民族の精神の特徴とかなりの相似を描くらしい。方言という考え方が之を示している。
どこか言葉の持つ冗長さは、おそらく系統に持ち込まれた昔ながらの経験がその起源だろう。この差異は方言と同じく全ての民族語には相当の量感を以て入っている。語順や品詞はその最たる物。
民族は各言語にこういう知恵を忍び込ませうる限りで、バベルの昔から独自さを護られてきたし、そうされる可と云われた。もし同じ冗長振りを彼らが共有すると、言語そのものは希少さを生み出す土台を大きく失うだろう。冗長度は情報論や学の概念に、情報量分の重複さへの比較逆数として定義されているが、どうやって言語間のこの値を計測するか未だ不明瞭。もし哲学的という程に捉えれば構わないなら、同値を言い回しの複雑さと考えても大きくは外れない。この言い回しは、ひまながさという訓読み名義と似て彼らが生活体験内でどういう自由時間を弄んできたかに殆どよっているらしい。きわめて知性に適宜さのある系はその場で持て遊べた時間が、敵や同種間の競争に向いていた。同様に何らかの能力への、又は性質というかたちへの移りはそれが適所の日常体験感からの抽出である、という基本底流を伴っているかもしれない。
冗長さは自体の情報論値のみならず、特徴差を相応伴う。これは必ずしも量へ還元できず、何らかの趣味観からの質の分析を要すかもしれない。
一般に、このたちは思想と考えた時の精神性の焦点へ集まりがち。故、部分欠落にも関わらずその精神は生き延びゆく文化素を育む。全ての民族語には特有の冗長さ抽出がある。と同時に、この反面としての簡潔度、つまり情報量分の重複さの正数も当然存在し、我々が共有できる規則は全てこちらへ属す。
我々が会話を愉しむ時、実質は簡潔度分の冗長度を質量の両面から鑑賞ややり取りしている事が多い。この値を深長度と定義できる。単なる機械的応酬に終始してもおかしくない意味が趣をおぼえる類いの仕業へ転化するのは、この深長さの為らしい。異文化がなくば人々は機械だけで十分な取引をできる。そこには簡潔度しかないからだし、ただ効率的な程よい。事務的と呼ばれる世界にはこの種の規則が敷かれるだろうしそれでいい。逆に、芸能的な程どこかしら楽しみを期待される場では、つまり規模を問わない社交界ではこの深長さが素晴らしい程、その個性には面白味があると評定されるに違いない。