イギリス経験論がヨーロッパ大陸の合理論での形而上学の試みを少なからず無視や出し抜こうとしたのは、人口比と島国の自律による所が多大だろう。功利主義自体にはこの種の利己性の肯定が暗黙の前提にある。快楽計算そのものが、現代の法律でいう幸福追求の権利を公に認める。しかし現実のイギリスからアメリカへ至る人々の過半を占めていた倫理規範はいわゆるキリスト教抗議派のそれが産業革命で天職思想と結びつけられた類の物だった。
経験論系でなおざりにされがちな利他性の理由は、反面に宗教感情を抜きにしては成り立たない程危うい。国家の置かれた地政場はその運命もかなり決めゆくなら、島国の道理たる一国孤立を前提とした進退は東洋でも採用され易い共感点を伴っていたかもしれない。大陸国で使われる常套句は形而上学の完成が異民族への最大の防波堤になる、という事だ。障壁や隔離された地理の好ましい適宜さが利用できない場合、そこで覇権を築くに最も基礎となるのは強固な民心掌握である。この為に大陸の覇者には政権を少しでも長らえさせたくば民衆を無知にさせた侭、自らの腹心へだけ通じる高度な全体の把握が要る。そうして思い通りに民衆を動かす中で自ずと支配者の学が成立してくる。出自がどうあれ儒教や諸氏百家の内その当時の支配者に気に入られた形而上学は中華大陸でみな同じ役割を果たし、中央文明の波及という望ましい効果も伴った。結局、大陸国とよべる地域で求められるのは覇権の維持にかかる労力を最大に軽減する何らかの抽出された智恵。之に対し島嶼や半島、僻地で大量の人口流入が見込めない場合ではそれらの性質でかなり違う変化が起きる。道徳の体系とよべる形さえ国家の種類でとても趣を違え、主に小型な程それは利己性を肯定する。逆に極端に小さな国家では利己性とは何かにすら思い至らない事例も散見できるが、大凡で言って大雑把な類型はこの開放と利他の相互希求原則に叶う。道徳性は努めて獲られねば失われ易い人倫の弱点と定義されればこの観点にもある程度納得できる。中小位の僻地では特殊や単純な利己性はすぐ知れ渡るので、却って自由や自律への道徳が叫ばれる。それとは別に、ほぼ完全に利他のみを目的とした極端な学説や理学は、何れ宗派に格上げか集約されがちな程勢いを持ち易いしそこが中央政権の最も史的に重きを置かれる可き部分なのだ。
まだ不思議な事例だったが、現実の国家事情はこれら道徳学説とはまるで相反している場合が多い。大陸国には浅ましい利己主義者がのさばり、島嶼国にはかなりの利他風の性向を望ましいと見なす一般な風紀が確立されているらしく見える。勿論ここにも歴史のどこかに反例が見つかるだろうし、又それぞれの地理や文化の条件では時勢の推移の内にその全体像からずれや変異の傾きが生まれてくるが、つまりは相手どる国家の根本の達がその侭そこで主眼を置かれる何らかの倫理規範へも厳然と染み込むとは云える。
形而上学の変節として経験論の潮流を捉えるのは尚早で、なおその再大陸人倫化の中途にある実用主義の系列も同じ評定を下すのが冷静。これらは従来の大陸覇権の学問たる儒教やその徹底放棄の賜物な仏教なる、既に宗教化された智恵の数々と本質で意味や重要性が異なる体系ではなく、等価視か同等視されるをう。そのどちらかどれがより真理か、その場での善意に近いかは哲学の命題で、何らかの外部の権威から一律化されてしまっているのは危険だ。現今の国家主宰の教育体系が西洋科学とその倫理化の源たる経験論のみを主眼とする事には斯くの可謬性か誤り易さがある。哲学そのものは体系だった実証できる対象をもたないため直接教育できないが、経験論哲学のみの採用の危険性よりは一般教養や倫理道徳の名目でそれらを矛盾する学説同士も含む均しい観点から知らせるのは遥かに、どれかの倫理学説のみの狂信を避けさせるべく国家主義を装った洗脳への注意づけに以て増しだろう。