2010年3月19日

動物功利主義の批判

全ての生命体への功利主義観点の敷衍、即ち快苦原則の最適化はもしそうよぶなら神のまね事であり、それ自体は至善でない。それは知的設計説の趣味観に限って真だが、全面的に全生態の倫理状態を代表すべきものではない。動物の快苦を我々のもつ痛覚や快楽物質のあてはめで量ろうとすることさえ人間原理の行く末あしき傲慢なのだろう。野良猫の幸福と介護犬の名誉は捕鯨の技能とか豚や牛肉類の食事と似て何らかの主観からの趣味を反映する。同様に、知的設計説の趣味のみが全生態への慈悲心の基であるとはいいきれない。
 この点で、動物功利主義というべき(ピーター・シンガーなど)オーストラリアを中心とした学派は、趣味主義の本の前座に過ぎない。宇宙生態学でいう感覚原理を、我々の今の生態地位上での確かな主観の根拠としていい理由はどこにも見つかりはしない。というのも我々の生態地位は、大量絶滅の史実を省みれば偶々有るものとも考えられるだからだ。この偶有さは痛覚のしくみをある程度は共有しているだろうかなり上位の動物類と我々とが似た生存競争の場を共有し、又それ自身の規則で奪い合うべき自然の道理を全く曇りなく原則づける。つまり弱肉強食は、いわゆる利他行為の同種間保存、道徳と呼ばれる習性と等しく、とある系の内外へも趣を違えてでも分派していく。我々か私は、この神ながらの賢明さが我々を生み出し、又我々の言説を超越した主観という絶対非対称さで導いている、と信じる。結局、動物との共生は私か私達の都合なのだ。そして生態金字塔の消費順位制度はその理が複合した生態を可能とする高次細胞間協調作用の節制する仕事量分の秩序度に関して、我々の神ながらの自由を異種や異類への共生か捕食かに任せている。慈悲心の趣味は主観による程度である。だからそれは場毎の生存哲学だが、どこでも一律のおしつけに足るだけ自明ではない。宗教段階や道徳の常識は系内主観の互恵習性に委ねられる。
 もし宗教原理主義に考慮すれば、神が我々へ他の動物への支配を明け渡したのは殖えすぎた人類の堕落以前であり、そうとすれば楽園の再建に携わる知性の面で、倫理学説上も我々は程度こそあれ知的設計の外でいかなる捕食をも肯首できる筈だ。謂わばそれこそが趣味に叶えばよい。後から現れた預言者たちは神の代弁を名乗ったのに過ぎないことを考えれば、神自身の口から語られた言葉こそ比べた誠があると云われねばならない。無論それすら解釈論の範畴だろうと。