美が相対的なものであるとはそれのもっている希少さが量感とも関係することだ。だから量的に稀すぎる種は奇観を呈するが、時代や状況のうつろいでそれが適切な量感のもとに示されれば美しく見える。
審美性を至上視すること、とりわけ、ある一種をそうして目的視するのは以上から危険でもある。訳は自然の目的論が確定しない間は、量感の粋がとある一種を選び出すとは限らないのだから。人類が審美的かどうかは次の比喩で理解できる。もし嗜みのあるペリカンがダビデ像を眺めて人類らしいと呟いたら、その普遍性が神の像の設計面ではなく、模造された精神の形相へ様式論として語られているからだ。つまりはペリカン社会にとってリスやムササビの神像がペリカン自身のそれよりも審美的かどうかは確定できない。人類自身にも同様。無論そうはいっても、チンパンジーとか人類とかが彼らの神格化を施すために模擬した審美観とは、そのらしさ、写実的設計にしかやがて求まらない。故に人類が唯一の審美的対象となりうるのではなんらない。審美的意図を自然の設計論の上へおしひろげてみるがいい。
我々は宇宙あるいは時空間に、実に多様な形相が広がっているのを見る。そしていつしか色彩の面でであってもこれら極彩の無償性は積極的な中庸を益々捉え難くする知覚撹乱の現象也と認むるに至るであろう。知的あるいは理性の設計の面からだけ神格の理念を表現しようとした古代ギリシアの精神にはかれらが抱え込む擬人化の弊害も限界として聳えているのである。
我々は未来の芸術世界が理性の設計以外をも試みるのを知るべきだ。市場主義現代化の通弊として欧米思想潮流の王道視が万国を覆いつくそうとしているのを観察できるが、たとえ極小の勢派であっても、それに本格的反撃を加える、また加えつづけることは道徳的である。なぜなら理性以外の性特徴が審美的でないと確定する理論が存在したことはない。この種の趣味観のずらしは結局生態論上ではその可塑性を補償する。例えば同系列が突然変異によって未知の形質を生じてなおその有用さが理性の面からは不明だとする。この系統枝を単に以前の形態とちがうという理由で処分すれば、将来の恩恵か遺伝的浮動の機会をうしなう。博愛或いはagapeの理念はこの面から未だに評価できる。訥弁すぎる子供が悟りの深い思慮の聖でない、とは従来の議論前提の土壌では確認できない。そういう変異のきっかけは微小なものでも、ごく注意深い選良の仕手に係れば多くは新種の発見、少なくとも個性とひとしい。いまで言われる障害の対象は現実には環境土台との違和にしか理由をもたない。条件者または事情ある者という、より緩和された博愛主義呼称用語が普段に通る社交美の未来が必ず訪れるだろう。
だから知的設計至上思想から適者生存の原則的圧制があるにも関わらず我々がそれとはことなった無用の用につらなる一連の文化とこれを羽含む趣味を有することは、結果として未知の環境変異への実に思慮深い心くばりである。設計者は夥しい形態の繁茂に関係なくして、この障害の除去を行うのが自然の理想であると信じるに至る。乃ち知的設計者の根本目的と慈悲、或いは慈愛の理念とは何かしら通底するところがある。環境の理念というのは生態的可塑性を福祉と矛盾しない程度に中庸へ順次漸近させる技巧の上にあり、それはいわば面白味の方法であって、この面白味のあるなしがその場が将来に亘ってもより審美的な創造性を維持できるかの鍵概念となる。調度適合の過度、流行好みの個性至上主義気風はこれゆえに生態の構造的固定化を意味し、多くの場合は後退的宿命の土地として置き去りにされゆく不毛の設計方針なのであると知るべきだ。
我々が永久性を建築表現と一致させようとすれば一切の個性を犠牲にするに如くはない。それでも面白みがあらわれなければ彼は天性の感覚に不足する。そういう場合、必要なのは知的設計者へ習うこと、則ち自然の主というべき地霊あるいは精神が模範になって教える土地の構造へ能動的に順応することだ。郷に入れば郷に従えという諺は知的設計論の根本原則を簡潔にいいあらわしている。例えそれが一種おかしな計画でもまさにそうだ。設計につき特異点はありえない、それは時間的空間的に相対的にのみ成り立つ様計画されている。
我々がこれらの審美的偏差から悟ることができるのは、宇宙では無限につらなる変化が期待されているということだけである。唯一絶対の美という概念は、創造計画の意図が設計を通じてあらわれてくるその個物間の調和へ一々理想してみつけだすほかない。だからそれは各々主観の、裏返してみれば完全な客観間の原理であって、幸福一般と同じ様に趣味主義の頂点をのみ到達点とする。芸術性についての直感が美観を覚えさせる理由は、感情の合目的性が、医学の言葉を借りれば自らの有する脳幹を、理知の枠組みを外さない侭でさえ十分働かせるから、といった本能の愉悦への予期せざる奇跡的回帰に由来するのだろう。それは大脳或いは新皮質の瞬間的痺れによる感激を斉す。なので芸術はなんらかの抜け道を通じた生態的体制固定化の脱構すなわち社会脆弱性の回避であり、及ぼすところ誘惑か威嚇いいかえると驚きの作用とほぼ同一である。これが我々をもふくめて社会生物の群生を同系配偶の連続的癒着による弱体化から救う。
奥深い創造計画の根本理想を芸術性による調和の比喩法を借りてさえ最も適当な最短音節の理念語で確立しようとしてきた古人は、にも関わらず文明間の隔たりにか基づいていた地方党情もあってその究極の言葉を様々に言い表すしかなかった。ある者は超越概念を延伸させて神と言い、西洋では血縁を超えた愛と唱え、東洋では無限遠を空想させる道に喩える。だがいまやそれが一神教の文化的信仰段階の先にある普遍計画の理性のことであるとは認識可能な進歩を、文明の知能は達しつつある。そして我々がより良い数学的論理表現を哲学へ十分に適用できたとき、この計画の完璧さは諸々の詳細図と共に、学者の掌へ科学による自然認識の貫追を通して明らかになってくるだろう。我々の精神、すなわち知能が神学の段階を抜け出して宇宙工学へ進めるのならこのすぐれた知性存在は、真に理性と呼ばれるべき神々しいまでの深慮に関する注釈、その本質を合理的社会建設の規則性ある理論体系へとより簡潔に論理式へ圧縮しつついずれも納めゆくであろう。善という未だに曖昧な理念が規則性へ高められる時も、政治学が確立されるはず諸社会学の後駆りに伴って訪れるだろう。