公立教育に地方特色を認めることは分業能率という国治の理念に叶う。気候と民情から農学の盛んな地方が商学のそれや政学、文学のそれと同じ地域特性を伸ばすだろうと短絡的に考えるのは不条理というものだ。才能を一元化することは日本の破壊に等しい。それはあらゆる弱点を、従ってみずからの驕る文化の奇形さを分かりやすく露呈するには向くかもしれないが、脆さという面で最悪の体制である。人間が全能でない限り、どの様な帝国の独裁も歴史は覆して来たのだった。むしろ、課題は文明化、したがって緻密な情報波及による望ましい市民開化なのである。飽くまで最低限度の教養の枠組みだけを中央省庁から譲り渡せば、後は人格信頼を以て地方文官へ公立教育の使命を一任すべきである。地方信任が才能の分散を計る最善の遣り方だ。又過去の帝国の瓦解の原因が国内分裂を誘われ、外来民族に侵入を赦したことに帰着しうる以上は、飽くまで地方教育と雖も標準語を用いて為されねばならない。そしてこれはその時点での中央政府で、則ち今日の首都界隈で最も良く用いられる言葉を基本とすべきである。
中央による情報管理が危機に際した各地での素早い任務を可能にするからには、地方教育の特色はこの標準語の使用範囲で、追究の余裕を与えられるべきだろう。却ってそのことが彼らの特徴を認識させ国学へ有益たらしめる。民俗学における方言の研究の様なことも、標準とされている中央文化とみずからを対比すればこそできるのだから。なお、ここで公立教育というのは国立と私立の中間に位置する様な、地方自治体が中心になって制作できる組織についてである。従って国民全員に及びうる国立教育や一部分の階級にのみ働く私立教育よりその優先順位は低いが、少なくともその地域適応型の特長教育という意義は、単なる公共機関や営利団体としての他の二者には代替できないものだ。