文体学は文化的にのみ有効な概念だろう。我々は文体を文化的にしか持てない。語学的な語種概念はこの為の弁償として働きうる。
凡そ国語学と呼ばれるものは何にせよ文体学の言い換え。なぜならそれが語学そのものであったなら、我々は口語を通じての助産術しか行いうることはない。
国語学が国家と不可分なのは自明。一族一国の原則は民族自決主義的な文体学の弁証法を伴ってnationalityに「国民」の定義を与えていた。従って、国民に於てのみ標準語が与えられたろう。それは文体学の成立と同じ起源を持つから。
国民の形成は文体学と国語学の同時生成に対応しているが、それすら文体学の脱構築に及べば国際化の方法と成りうるものだ。ヘーゲル的人倫は国語学の止揚として国民文体の複数、多層性を考慮に入れるよう要請する。なぜなら国家の最終目的が人倫ならば、国際化も又、いずれ人倫の内容に含まれざるを得ない。国家とは縁起した概念であり、いずれも他国との関係に於てしか国家を主張し得ない。
よって、文体学は方言学を国語科の必修課題に算入せねばならない。それは我々の人倫の完成に、多声的な柔軟さを与える契機となるだろう。我々の国境の分明は必ずしも定かではないし、飽くまで国際関係に応じたnationalな民情の区分として、度合いに応ずる偏派心しか真実の国体には存在していないのだから。