あらゆる趣味は未熟たらざるを得ない。教養が未完なる限り。
全知に到達することはできないにせよ、人間は知識を増大させることで、より賢明になる。愚か者は学ばない。
道徳は思索に応じ、道徳感情に応じた普遍的同感の為の趣味は道徳神学の予備学としての諸科学にも応じる。だから、知識が増進すれば転じて趣味にも変更があることだろう。
哲学に「学」の性格が含まれうるならば、それが諸科学の批判体系への漸近であることによって。例えば普通、小学一年生の哲学は身近な領分を出ない。彼らの全知識に対する目的合理化の思索は、幼い夢を愛でるのが精一杯であるだろう。また専業主婦の過半にとって家庭的幸福が夢、すなわち最高善な様。
芸術は哲学の環境適用だろう。審美判断には趣味を要し、美術制作には悟性を要する。従って、凡て芸術を高めるにはその背景たる教養をもって代えねばならない。技法を編み出す判断力が天才の証拠ならば、我々の天才は前提に秀才的学習能力を要求するから。逆に言えば最も取るに足らない天才気取りの俗物は無教養で、我々の笑い種を生み出すのが落ち。
遥かに時代を先駆ける大天才には、生まれながらの抜群に優れた判断力とそれを活かしうる圧倒的教養がなければならないことになる。そして我々の文明の進歩が共通して目指す理想の人間像も、万能の天才を究極の模範にする。
万能人は全知全能の神様には遠く及ばないが、少なくとも人間に於ては限りなく神格へ漸近しうる可能性を持っている。