アメリカ人はどうして自立を優先するか。フランクリンの代から彼らは成長を早める為に如何なる犠牲も忍んだ。日本人においては成人後も子供に世話するのが自然だし、又子供自身の自立の後にも親孝行は当然とされる。それは成長を急かせない。彼らは民族全体のモラトリアム値を集団的・社会慣習的に構築しようとする。従ってアメリカ人は日本人より成長が早い。アメリカ人は極めて早く成長を要求するが故に、子供にも早く早く自立を勧め、幼い頃から経済的損得感情を人倫に相反しない様に教え込む・pragmatism。その植民地からの独立の焦りが「新しさ」への渇望へ彼らの生活態度を合理化させた。
対して日本人は成長をなるだけ引き延ばしたがり、幼児には商売へ近寄らせない。どころか、彼らは子供に買い物させることすら何かしら卑しい家庭の事柄として嫌う。日本人はこうしてまるで幼子のような成人を求め、そのような汚れのない、世間知らずの若者を理想として様々な浮世の荒浪から長く、隔離して成長させようとする。まるで抹茶に陽射しを当てずカテキン合成を阻害しテアニン成分を抽出する様に。日本人はそうして幼形成熟・neotenyな人物を理想として育む。
極度に幼児的な女性は可愛い子振りっ子と呼ばれ成熟した女性から悲惨な迫害や排斥に遭う。又、男性においては餓鬼と呼ばれ様々な社会的差別に遭う。にも関わらず、彼らにとってそういうネオテニー化した成人こそが常に目指されるべき理想像であり、純粋な希望の象徴となる。つまり大多数の凡人はそのような貴重な達成に預かった人物を嫉妬しているに過ぎない。
日本人の教育哲学は全くプラグマティズムとは相反していると考えても大きな間違いはない。日本人は、アメリカ人とは違い、競争を殊更避ける。競争させようとすると彼らは極端な場合、互いに虐めを始め、一定の対象へ敵意を集中させ自らの集団内の相互平等を維持させようとさえする。日本人はしばし成功のためではなく平和のために努力する。こうして彼らは自ら目立つことを避けるべく神経を尖らせた深慮を凝らす。プラグマティックな個人主義は競争における成果を和合よりも優先させる思想故。
日本人は自立をさほど立派な事と考えていない。だから成人後も親と同居したり資金援助を受けたりするのが不自然ではなく、大半の人々が親の住む家(彼らは実家と呼ぶ)に頻繁に帰郷して家族会を開く。このような家族会の慣習を彼らは帰省ラッシュと呼ぶ。ある種の国民的祝日の前後には、Japan Railwaysの駅はこのような民族事業に熱心な人々でごったがえす。自ら労をねぎらうべき休暇にそういう仕事を詰め込んで不合理とも覚えない人々をクールな眼差しで哀れむ人種は希である。日本では、最大多数の意見に従うのが、たとえそれが明らかにどんなに誤った偏見であっても、常識とされてしまう。こうして彼ら固有の悲劇は集団生活を何より好む彼ら自身の心情に合致して、様々な窒息しそうに狭い空間に蟻のような行列を作る文化現象をあちこちで発生させる。
アメリカ人は連邦自立のため余りにも急速な成長を余儀なくされたので、子女に最小のモラトリアムしか与えない慣習を作り上げた。こうして彼らは高潔とか貞節という概念を殆ど持たない場合が多い。そういうものは野暮だと考えている。彼らは性的には野蛮であり、むしろ純潔をなるだけ早く破戒する様に努める。
その結果彼らの文化は性的に際限もなく放縦となり、エイズの危機に大多数の人間を晒している。そして本の一部の変わり者以外は大部分が、早くにビジネス界の片隅から利益のお零れとそれ相応の自尊心を手に入れようと躍起になって競争し出す。
従って、彼らアメリカ人の間では、最も魅力的な男性は野獣のように豪胆であらゆる事に万能なスーパーマンでなければならず、そういう完璧な男性像を虚構するべく彼らは様々な画策を図る。何としてでもアイビーリーグに入り込む為には世襲や賄賂も公然と行われ、制度化されさえする。そのような環境ではライ麦畑のキャッチャー志望者は一人残らず排除されざるを得ない。
日本人はこれに対して純潔を何より大切にする伝統を持つ。彼らの殆どは皇族などの専制権力者、富裕な商人、下層民衆という商業圏の影響下にあった例外を除いて、あらゆる時代を通じて純潔の模範だった。彼らは汚れを嫌う。常に社会的差別と隔離のもとに存在する遊女や痴漢を除いて、日本人は家庭を恋愛より優先する。従って、彼らにとって恋愛は何かしら忌むべき邪な事として生活の隅に追いやられる。中流以上の日本人は家庭生活内で恋愛に関連する事柄をタブーにし、なるだけ子女を発情から遠ざける工夫を凝らす。その結果、中流の子供は社会に存在する中流以下の家庭の子供に教示されて初めて、性的な問題に関する知識を得なければならない。従って他の階級とは隔離された上流家庭では一切の性的問題を教えられないまま、子女はあたかもむく犬のように育つ事を期待され、大半は成功する。事実、日本人の社会では性的目覚めが早ければ早いほどその所属する階級は低くなるように巧妙に仕組まれている。下流階級の子女ほど早く恋愛を経験し、早く家庭を築く為に早く経済的自立を求めなければいけなくなる。この結果、彼らは優等生に与えられるあらゆるハンディキャップを剥奪され、素足でレースに出なければならない。その結果彼らの過半は生涯うだつが上がる気配は無いが、同時に子女も早く自立するので教育費の負担もそれほど心配しない。
つまり、日本においてはこうして「優等生」と「不良」にはそれぞれに独自の生涯の展開が、巧妙にコース分けされて存在する。
アメリカにおける様なチャンスは日本には殆ど一度もない。代わりに日本には始めから終わりまでコースが敷かれている。そしてこのようなコースを一端外れてしまうと、様々な社会的圧力により元々所属していた階級コースに再び乗り換えるのは本当に容易ではない。
アメリカは平等の名目をとった実力社会であり、日本は階層の名目をとった単線社会である。両者にはそれ独特の長短がある。しかし、究極では両者は決して混じり合わないだろう。なぜなら両者は風土に対して適応した結果、そのような文化型を独自に捻り出した。
日本はアメリカ文化型を部分的に摂取することで自由主義を消化しようとした。
だが、彼らは国家制度を異ならせる為アメリカ文化へ完全に同質化することはないだろう。