2007年4月19日

理性の位置

普遍理論を創造すれば科学への盲執は永久に止むだろう。人間の無知は思考ゲームの形態として、科学という宗教を生み出した。ピタゴラス学派がこの宗教を初めて権威化した訳だ。スコラ哲学はかの教義をアリストテレスやキリスト教と矛盾しないように工夫された。ガリレオはこの宗教を盛り上げ、ニュートンが確立し、アインシュタインは正当化した。しかし、普遍理論は人間が創造してしまう他にないのだ。あらゆる科学知識は神によってではなく、理性によって作り上げられる。なぜなら理性が理由を認識しうる唯一の主体だから。
 Paradigm論に則れば、科学理論は時代思想の潮流にすぎない。つまり真理とはある時代の認識体系にとって矛盾しないだけの仮設物なのだ、と。
 しかし結局、哲学と科学の追求は思考ゲームを続けるだけで永久に最終真理に到達できない。究極の形相はそのparadoxicalな実現不可能性において理想に一致する。もし不完全性定理の解釈において数学が数学内部では正しさを決定しえる思考形式ではない、と考えれば、我々が数学の決定性を基礎にもつ近代科学を人類内競争応用に凶器となる適合形式として採用してきたのは単に、ある宗教による世界侵略の過程だった、と見なすのが自然だろう。とすれば、普遍理論は科学体系の外部からの批判に耐えうるものでなければならない。もし内部で生まれたものならそれは仮設物にとどまらざるをえない。
 科学の方法は利用されるべきで、決して唯一の目的ではない。理性は理性によっては批判できない。
 以上から理性はカントの考えたように目的ではないし、また同時にデューイが考えたように道具であってもならない。それは手段だ。