2006年1月19日

思考作用の考察

人間は思考することで宇宙を論理的に解釈している。これは数学によって証明できる。理解できない数式が論理的ではない様に、数学は人間が読み取らない限り論理的だとは言えない。だから宇宙そのものに論理的原因がある、という創造主志向の哲学は悉く誤りだと考えるのが論理的。
 いいかえると我々の大脳新皮質の活動に宿った論理的形式が唯一の真理への道なのであり、自然法則と言われるものですら我々の脳内観念の中にしか実在しない。さらにいえば実在という概念を認識する思考現象だけが真実で、idea界がどうたらという議論は根本的に非論理的な幻想である。
 もし自然がまるで法則通りに動く神の仕業による世界なら、我々の思考はその神と呼ぶものに相等しい。なぜならば法則を認識し得るものとはこの宇宙のどこを探しても思考作用だけだから。自然や社会や人生の本質に法則があるのではなく、我々自身がそれを思考によって創造的に発見する。だから不文社会で問われる疑念はどれもみな非論理的な解説しか満たさないが、それが真実ではないと主張する権利は我々が限られた範囲で共有する、十進法数学を基礎とした近代文明の理論にしか属さないのは当然。
 人が異星人と共有しない法則を主張することは人類文化たる近代文明の文脈に依存する以上、充分にあり得るしその上更におそらく、真の普遍理論といったものは宇宙が永久に延長するという生存意志に適する希望を我々が心理的に持たねばならない事情から言って実現不可能。だからあらゆる科学理論は、幾何学的定義ですら漸進的更新という使命を逃げ出せない。
 かつてデカルトが主張したように絶対確実なのは思考が有する神的な、とりあえず我々には神性としか見なし得ない現象しかない。精神と我々が名付けて呼んだのはこの、大脳新皮質に於ける生物学的に特異な作用。そしてあらゆる本質、つまり真理改築性はそこに属さざるを得ない。意味するところは人間の栄光だけ。精神だけが世界をつくる。