2020年1月15日

生涯学習は自分の進度でやって文科省の推奨進度は無視してもよい

自分は磯原幼稚園、で精華小から磯中いってそこから磐高という場所に行った。その後、どばたと工学院大学専門学校の夜間部なる場所を経由して、放送大学に入った。これらの経験は自分に次の様な複数の落差を感じさせた。
 先ず自分が経験した複数の学校社会は

・同年代だけ無差別に集めた環境(幼小中)
・IQが高い人だけを集める環境(高)
・誰でも入れる環境(専門)
・年齢・職業などの多様性が高い環境(大学)

だったのだけれども、それぞれ、極めて異なる秩序がある。
 特に高IQだけ集めた環境は特殊だった。

 高IQ集団だけ集めるとなにが起きるかというと、同年代限定集団では同質性が高いために必然にかかる同化圧力が変質して、異化圧力の様に感じられる。
 僕が一番あおってたかもしれないが、ジョブスのいう「クレイジー」日本語で「きちがい」を肯定的文脈で使い、もっと個性的なことをして! となる。
 なぜそうなのかなら、恐らくIQが一定より高いと認知できる個性の幅が広くなって寛容になるのに連鎖して、知的好奇心が高い傾向にもあって、できるだけ興味深い友人を持とうとすると常に、自分の知性を満たす相手を欲するからかと思う。なのでいわゆる進学校は友と哲学的討論みたいなのをしてたりする。
 しかも寛容な傾向でもあるから、他人が異質な行動するほうを面白がるといった風情で、同化圧力の方向性があたかも、うまれもった個性をもっと特殊化させようとするみたいなのである。
 例えば東大行った奴が2階から飛び降りてた。
 僕の場合この好奇心は知的障害者の福祉施設でボランティアさせた。

 次に興味深いのは、多様性が高い環境だ。今僕が一応入っている放送大は学習センター行くとお年寄りが普通に僕の隣で勉強してたりするし、そもそもが大人だらけなのでいわゆる同年代とつるむといった現象がないし、通信制だから他人との接点もないんだけども、試験で観察してると他人に干渉が一切ない。
 僕的にはけっこう楽園に近く、なぜかというと他人、特に教授のペースにすらに煩わされず進度調整して、自分が興味あるものだけ急激かつ猛烈に短時間で集中しまくって学んだり、興味ないの飛ばしたりわからなかったら後回しもできるからなのだが、効率よく勉強できる点でこの上なくよい。本当にお勧め。
 僕が経験した上記4種の環境で一番、勉強するのに都合がよかったのは多様性が高いこの最後の通信制大学で、最初からこうしてくれよとしかいえない。自分的にはあまりにいいので卒業せず延々自習続けてのころうとしてるくらいで、僕みたいな勉強趣味な人には最強にいい環境だ。誰からも邪魔されない。
 で、多様性が高いとどうやら干渉が起きない。大体、年齢が40とか離れてる人がごろごろいると、干渉する方法すらわからないくらいで、まあでも自分から学費払って大学で勉強したいと思ってくる人達という枠があるから一見野蛮なのがいないのかもしれないが、それでも無干渉は僕的には満点に近い環境だ。

 これに比べて、同年代集めた環境が、僕には一番最悪だった。思い出すだけで吐き気がしてくるほど不愉快だったし、全体として拷問でしかなかった。だってどうみてもサルまがいでしかない連中と協調させられるのである。そのせいでイジメとか心底くだらねーことに従わせられたり、授業進度が遅すぎた。
 それだけではなく教師も、そういう同年代だけ無差別に集めた環境だと平均か最低級のひとにあわせて言動してるから野卑きわまりないのがいる。特に体育教師というやつは、みんなも学校いったからわかるだろうけど、この世に存在しうる中では最も野蛮な種族といっていいくらい蛮行していた。ウソ抜きで。
 僕が経験したのは、その体育教師は竹刀もってうろうろし、生徒を竹刀で授業中に脅すわ、たかだかアメリカの学生のまねしてガム噛んでただけで、生徒へガチで頭に膝蹴りいれてたのである。あんなの犯罪だ。しかも大勢の子供を教師が脅迫してる同年代閉鎖環境だと誰も訴えようという考えすら浮かばない。
 大人になってから振り返ると、当然、訴訟すればいいとなるわけだけど、子供の頭では刑事・民事訴訟法なんて習ってないから家庭裁判所や警察に訴え出る方法すらわからない。それだけでなく、教師は自分が担任したクラス全員を洗脳できる絶対権力をもっているので逆らいそうな奴から集団イジメしてくる。
 そういう同年代無差別集団だと、リバイアサン状態の教師のご機嫌伺いをして、天皇陛下万歳みたいに心にもない言動してるほうが利口となって、優等生ほどずる賢く立ち回る傾向になってしまう。先生へチクって得する囚人のジレンマ状態みたいになって、訴訟の前段階で共謀罪扱いで仲間に潰されてしまう。
 すなわち、明治政府が捏造した現今の年齢別クラスによる義務教育って最悪の地獄づくりだったということだ。もういうまでもなくそんな地獄へ子供を陥れている大人とか拷問をくり返してるだけなんだから死んだほうがいいのはまちがいなく、国際人権規約だの子供の権利条約に反する大犯罪をやっている。

 僕だって幼稚園から中学卒業までの12~3年間くらいは思い出してもよく自殺せずあんな地獄を抜け出れたなと奇跡の思いでいる。いやよく考えると拷問に10年間以上も耐え抜くほうが自分の為にならなかった様な気もするし、今の子供が義務教育自殺してる中で、ユタボンの救済の声は本当に神々しいと思う。
 しかし、これは僕みたいな、生まれつき或る無差別同年代集団での一番成績がよい状態に自動的になってしまう人、つまりおそらくだがIQが一定より高いほうの人の一部が感じる感覚で、後から知ったけどどうみても成績悪かった人が中学楽しかったとかいってるのみて、ぶったまげた。天地ほど感じ方違う。

 もう一度書いておくけども、なんの努力もせず小1の最初のテストとかで成績が満点になる様な子供と、九九にさえつまづく人を、同じ集団で教育しては絶対にいけない。理由は、成績がいい側の子供は例えば400馬力車みたいなもんで最低でも380頭くらいひっぱれるのになんで4匹なの、と完全に時間の無駄。
 僕も、おもいだすと、小学校のときテストがあっという間におわるからひますぎてずっとテストの裏にマンガ描いてたのである。ドラえもんとか剣とか。あの時間のほうが長いんだから、どう考えても時間の無駄であって、もし僕がアメリカに育ってたら飛び級させてもらえてどれだけ楽しかったかわからない。
 日本には驚くなかれ飛び級という制度がない。じゃあどうなるかというと、1年の殆どの時間は、わけのわからない同級生にあしひっぱられてこの上ない苦痛の中で過ごしている。僕もそうだった。ほんと迷惑だな、遅くなるからやめてほしいと思いながら耐えていた。しかも9年とか。あれはなんだったんだ。
 私は一番足引っ張ってくる人が嫌いなんだけれども、それはこの小中学の殆どの時間を無駄にした拷問経験からきていると思われる。最初から足引っ張ってくる奴なんていないわけで、無理やりIQが全然違う集団を、同年代くくりでまとめて、同じ授業ペースにあわさせようとする膨大な力の浪費のせいである。

 塾というのがある。上の4分類には入れてないけど、これは実利的な意味でお勧め。進学塾で少人数教育のところに限るけど、自分の学習進度別でクラスわけしてもらえる。そうすると義務教育で生じる様な圧倒的な不条理がない。しかも同級生もサルみたいなのがまじりづらいから下らないイジメとか少ない。
 僕はその「サルみたいな」同級生、という形容で差別してんじゃないの? と思うかもしれないが、そうではない。なんで同年代無差別集団だとIQ低い側がサルみたいに見えることになるか、単純に、精神年齢に差があるからだ。IQといってるけど要は肉体年齢に比べた一般知能の発達の程度だから精神年齢差。
 例えば話にきくところでは北欧圏の学校はこっちでいう留年の概念がなくて、各自の学習進度に応じて何回もやりなおすみたいだ。これは正しい。だってIQが低くうまれついてる子供だったら一般に、同年代よりゆっくりしか学習できないはずなんだから。そしたら落ちこぼれで排除じゃなく遅く進級すべきだ。
 僕は中学のおわりころは近所数分のところに進学塾ができたから通っていた。そこは公立の普通の小中学より、圧倒的に学習密度も高いし、学習進度別クラスなので授業が面白くてしょうがないし、真剣に準備していってもわからない部分があったから予習復習も友達でやりあうとすばらしい教育になっていた。
 授業が面白くてしょうがないというのはまあ所詮、味気のないといえばない時間単位でクリアできるかな? テストゲーだから言いすぎな面がなくはないけども、基本的には正しい。特に数学の授業とかきちんとわかるとナルホドネとなるから、おそらくだれでも面白い。パズルみたいなものなので。

 本当に面白い授業というのはたまにはある。僕が思い出すと高校の世界史の先生とかがそれにあたり、どういう部分が面白いかというと、教科書をベースにして板書してる部分は所詮受験勉強なのでただの暗記でつまらんわけだけども、当人が好きで研究してる教養に満ちた応用編みたいなよもやま話が面白い。
 例えば修学旅行で京都なんだけども(関係ないがなんでアホそうな高校は千葉ディズニーランドに行くのか? なにを修学してるのか?)、どこがいいっすかと聴いたら詩仙堂を教えてもらって実際よかった。どうでもいいけど。要は、この世で面白いのは一般教養みたく生きた知識であって受験知識ではない。
 受験勉強の何が下らないかというと、あれはパズルのうまさと同じなのである。確かにパズルは頭を使うけども、それはパズルでしかない。パズル知能を証明しても、それはパズルのできばえの証明にすぎない。IQとパスルのうまさが一定程度相関してても、全面的にではない。高学歴のパズル馬鹿も当然いる。
 受験パズルがいくらできてても、実人生はもっと遥かに複雑なのでそっちはうまくいかないなんてざらにある。入試偏差値ゲーは、僕は高1くらいでおりてしまった。一見してみて下らないなと感じたのですぐ、自分の勉強をはじめ、小中学と同じわだちにはまらないよう自分を律した。僕はパズラーではない。

 で、最後になるが専門(正確にいうと専修)学校は僕はなぜか2つ行った。なぜかというかどっちも学ぼうとしたからだが、1個は絵、1個は建築。絵のほうは、美術予備校として扱われるところだし、約1年だけだけど。どっちもものすごく違う特異環境で、たぶん人間観察の面では優れていた気がする。
 まずこの環境は「誰でも入れる」ので、同年代が集まってるわけでもないけれども特に多様性が高いわけでもない。芸大美大行こうとしている集まり、または建築士とろうとする集まりで、おじさんおばさんも多浪生もいれば子供もいた。で、この環境は同年代無差別環境よりはずっといいが、下らなかった。
 誰でも入れると、IQと相関する指標で足きりされてないからこいつ筋肉馬鹿なんじゃねえかみたいなのもいれば、おちこぼれの極みみたいなのが一瞬だけいてすぐやめてきえたり、江戸っ子崩れみたいなのも、まあ都会の普通大学そうだろうけどド田舎からでてきたなまり全開のもいた。つまりただ雑多である。

 で、この誰でも入れる場だと、僕は基本的に1人か2人くらいしか友達になれなかった。なぜか。理由は自分と同じ位のIQの出現率が物凄く低い。それで話が全然あわないので他人でしかない。僕が仲良くなった人らはあとからみるとどうも地方の進学校出身者で、やはり似たくらいの一般知能と親しむらしい。
 この誰でも入れる場だと、一々経歴がどうとかみてないので、適当にまじるんだけれども、話の中身とか性格とかで自動的に仲良くなるのとそうでないのに分かれる。しかしずっと後から調べなおしてみると、不思議な事に、大体同じくらいのIQなんじゃないかこれっていうくらいの友達になっているらしい。
 結婚も、大体同じくらいの学歴の人とする様な傾向にあるけど、これはそれがIQと相関してるからな可能性がある。精神年齢が似てないと話が通じづらい傾向があるので、頻繁に親密に話すにはどうしても、一切経歴を選別してなくても、自動でそうなるのではないか?
 で、僕は専門は全然親しめなかった。
 自動車学校を想像すればわかるが、誰でも入れるとまたも同年代無差別環境と同じ現象が起きる。すなわち平均にあわせようとして、高IQ側が足引っ張られる現象モドキが起きる。僕が絵の予備校1年でやめたのはまさにそれで、芸大卒講師に並の議論ふっかけたら発狂されたと勘違いされたので、すぐやめた。

 芸大界隈に詳しくない人にはわからないかもしれないけど、東京芸大って学力については事実上、無試験である。だからIQに関しては恐ろしく低い人が、偶然絵を教授がイイネ! といってしまって卒業している。そうすっと、話通じづらいみたいな次元超えて、そもそも知的障害ボーダーみたいのが沢山いる。
 僕は最初、芸大美大ってそういう環境なんだってのをしらなくて、そういや学力試験がテキトーな時点で怪しいなとは薄々感じていたが、そこまでガチで異常な社会だとはしらなかったため、同じ高校からきた親友らと話す以外では、まるで無口になって周りを観察していた。そもそも知的な議論とか生じない。
 で、ある日、もうめんどくせえから話してみっか、と思って講師に親友へやってるくらいの普通の議論をふっかけてみたら、僕を無口人間だと思っていたのが急にこんな感じでガチ芸術論をしてくるので気が狂ったと判定された。これでもうダメだなこのアホ世界と見限って、芸大美大いくのをすっぱりやめた。

 上記したが僕は高校の時、知的障害者施設の福祉ボランティアいってなるほどこの人らもただの人なんだと悟って障害への偏見が解除された。それで今つきあってるのも自閉症かつ知的障害ボーダーと判定されてる女性なんだけれども、むしろTHE普通の人より性格面も気に入っている。低IQが悪いのではない(後述)。
 これから芸大美大へ行きたいと思っている人に参考になるし、そうでなくとも芸大美大は偉いんだと思ってる人達に興味深い情報だから書くのだけれども、はっきりいって、知性の程度は凄く低い集団である。だから僕はまじりたくなかった。無理やり独創モドキをあおられてるだけでむしろあわれだった。
 どういうことかというと、美術系の予備校だと、個性を伸ばせ! との指導法をするのまではいいんだけども、最初からそんな独特の個性なんてない人達を無理やり個性派っぽくみせかけるために、講師がなにやるかというと奇抜なふりをさせる。しかも人が描いた絵をわざとグチャグチャに汚しこうやれとか。
 人の描いた絵をみてこの個性はいいね! というならわかるんだけど、講師がアホなので、だって芸大美大卒の人らばっかだからIQなどからみてもほぼダメ人間ばっかなのだが、当人らが気に入るものになるまで無理やり相手の個性をねじまげようとしてくる。意味わからないだろうが、要は趣味をおしつけてくる。

 ここにはもう少し複雑な事情があり、実は石膏デッサンという僕も相当やった基礎というのが昔はフランスのボザールなる芸大まねてあったんだけど、今はない。じゃあなにをしてるかというと上述のよう、芸大教授(これまた低IQである)好みの旧エセモダンアートもどきを作らせようと必死になっている。
 その芸大教授が絶対権力を握っていて、自分が気に入らないとみたら侮辱しまくる徒弟制が芸大の実態だが、そもそも正解がないアートは教育できないよとカントが230年前に言っていたのに何も学んでいない。悪趣味でクソダサい上にアホと最悪級の後衛教授がいばりにいばって生徒を虐めてる場なのだ。

 では建築はどうか。こっちは半分美術なんだが半分建設業という中間分野に近い性質をもっている。一応ファインアートの1つだけど、それを成立させるのが建設業者だから実務のほうは工学に基づいているし、かなりお堅い学問入ってる。趣味論みたく曖昧なものが乱用されて講師は相変わらず馬鹿だけれど。
 日本だと、芸大が権威な美術と違って建築のほうは丹下研究室以来、東大工学部建築学科がいばりちらしている。まあ確かにこっちは芸大よりは基礎学力が高いだけましなんだけど、飽くまで美術に片足つっこんでる分野だけに、所詮は美意識や感覚論に還元される点で天才に勝てない。それで不満が溜まるしくみである。
 僕は相当初期からこのしくみを、調べてわかっていた。それで東大入ろうとするのではなくものすげー迂回し一番才能ある人へ直接弟子入りしようと考えた。僕が建築学び始めた19くらいの頃だ。で1年以内くらいにせじま和世さんの建物を日立にみつけ、天才で間違いないと認め専門入って弟子入りにいった。

 結局この項でいいたかったのは、上記4種類の学校組織を経験したかぎりで、「誰でも入れる」環境は必ずしも望ましくないということ。確かに大人も自費でいたから勤勉ではあったが。
 だが同じく誰でも入れても通信制大学だとなぜか多様性が高い。それは学部のとりあつかってる学野が広いからと思う。

 自分は、途中で書いたが、「クレイジー」「キチガイ」の様な飛び抜けた個性を一般に好む。それは知的好奇心が満たされるからと思う。まあ性格悪いほうの変異、つまりサイコパスみたいなのはすきでもないというか邪悪だから、色々接したかぎり嫌いになったが。つまり多様性が高い環境のほうがよかった。
 したがって、自分にあっていたのは

1.年齢・職業などの多様性が高い環境(大学)
2.IQが高い人だけを集める環境(高)
3.誰でも入れる環境(専門)
4.同年代だけ無差別に集めた環境(幼小中)

の順だった。なぜか高IQ集団のほうが誰でも入れる環境より多様性が実感として高くて変人がいた。

 僕は地獄と感じた幼小中を終える15才まで、幼稚園いれられる3才までを除き、正真正銘の拷問でしかなく、なぜ神がそんな試練与えたか今でも明治以後日本政府へ呪いに近い感情をもっているが、その後は、できるだけ多様性が高い環境に身を置こうとしていた。
 今後もそうするが、悪環境は脱出すべきだ。

 一言でいうと明治政府を作っていた連中は薩長土肥の蛮族であり、欧米の猿真似するだけで明治維新全体、特に小御所会議以後の戊辰戦争観察したらいいが構成員が本当にサルより野蛮だったので適当に劣悪な制度を作り、同年代無差別集団教育なる地獄を全国民へおしつけた。そんな悪制度従うべきでない。
 ユタボンの自由教育軍ラッパについていけば成功する。これは僕的には断言してもいいくらいだ。だって結局は自分で勉強し続けるのが生涯教育なのに、義務教育はそれを就職手形を手に入れる手段にしているのである。なんと稚拙な制度だろう。明治元勲は本物の外道だったのである。外様だったけども。
 うまれつきIQなんて大幅に違うんだから何年かけて学んでもいいし、よくできる子供はがんがん飛び級してビルゲイツになったらいいのに、無理やり凡愚にあわせようと足引っ張りまくる組織に未来なんてあるわけがないではないか? 江戸時代の寺子屋のほうがどれだけ優れた教育を与えられていたものか。

 特にもう制度として残ってないけれども、水戸の弘道館だって卒業という概念がなかった。研究機関かねていたのだ。あのまま存続できていたら、恐らく世界一等の大学になっていたであろう。生涯教育が当たり前の考え方であって、烈公も含め水戸のお侍さんは蛮族明治元勲より何億倍かましだった様に思う。
 大体、なんで和人が洋服きなきゃならないのか。これも全く納得できないままである。僕が想像するに、あの薩長蛮族さえ暴れこんでこなければ、今も威風堂々と水戸の弘道館で和服きたお侍さんたちが宇宙物理学を学び、筑波のKEKでどうだの大洗のJ-PARCがどうだの立派な議論を活発にしていたに違いない。
 いまや和服きてらっしゃるのは、僕の嫌いな京都市(差別してくるからね、文化とか色んな差別を、初対面で)、の長の門川さんくらいである。しかしその点はよい意味で古風でよろしい。だってそうでしょ。なんで日本人なのに薩長の馬鹿はイギリス服きせようとしてんだ。馬鹿か。さっさとうせろ。終わり。

続き
 大体IQが同じくらいのでつるむ結果になる、しかも同年齢でそうなりやすいのは精神年齢が近いという意味でそうなりがちなんだろうけど、じゃあ僕が知的障害ボーダーの人となんで恋愛関係みたいになってるの? だけれどもこれは自分が童謡教育受けたのと関係あるはず。
 僕の小学校は童謡詩人の野口雨情が出た。それでかれは童心芸術で子供の素直な心をはぐくめば、成長後も赤子の心を維持でき天性の善を生かす事につながるという思想をもっていた。
 僕は雨情の偲ぶ会という合唱会で「しゃらしゃーらぁ、しゃんしゃーん鈴つぅうけぇたあー」との独唱パートあったくらいで、実際この教育実験の成長後といえるが、確かに雨情の説には一理も二理もあったと思う。彼は早稲田大いってた気がするが、そこで堕落した町人崩れをみて、ウチの地元は素朴でいいのに酷いなと思ったはずだ。

 で、子供をなんとか健全に育てたければ幼児の時点で、もう善なる心をしつけておくに越したことはないと考えたはずで、確かに彼の信じるこどもらしい善性を歌った童謡(『七つの子』とか『しゃぼん玉』とか)をそらんじれる自分からみると、彼の言うことは正しかった。僕も都内にいたが東京の低俗な風紀に染まらなかった。
 そんで自分からみると、知的障害ボーダーの人って、精神年齢が子供っぽくみえるわけで、特に善性があるとそれは僕が子供の頃の感じに近いので、気が合う。
 しかし僕のほうがその女性より遥かに勉強はできるだろう。
 ということは、IQが類似でつきあいがちって一般論で普遍的ではないわけだ。