2013年2月28日
天啓
極悪虐めっ子の低俗ジャイアン東京が、極悪陰険な品性下劣性悪関西、そして極悪エゴイスト殺戮侵略犯罪やくざの薩長土肥が、わるい独裁者レイシスト天皇の国から滅びさり、よい人間の尊い宗教が復活していく景色。
2013年2月27日
Philosophies
Something causes you
A someone thinks
Reason on our the case
It would be some philosophies
A someone thinks
Reason on our the case
It would be some philosophies
みち
おいてきた真実をてにいれようと
はばたいていた時のどの瞬間も
君がさがしていたどんな瞬間も
束の間の春夏秋冬にすぎなかった
あるきつづけていたみちは
どうせてにすることはないよりみち
あるきつづけるだけのちかみち
どうせたどりつくためのまわりみち
はばたいていた時のどの瞬間も
君がさがしていたどんな瞬間も
束の間の春夏秋冬にすぎなかった
あるきつづけていたみちは
どうせてにすることはないよりみち
あるきつづけるだけのちかみち
どうせたどりつくためのまわりみち
ごう
とおいばしょに
ほんとうのよいしゃかいがあって
ほんとうのただしいひとたちがいて
わるいひとたちはいないだろう
ちかいばしょに
ほんとうのすぐれたせかいがあって
ほんとうのただしいじゆうがあって
よりよいよにむかっているだろう
だれひとりそれにきづかなかった
ただひとりきみがきづいていた
ちかいみらいに
ほんとうのたしかなへいわがあって
ほんとうのただしいぶんめいがあって
ごうはあたりまえにめぐっていたろう
ほんとうのよいしゃかいがあって
ほんとうのただしいひとたちがいて
わるいひとたちはいないだろう
ちかいばしょに
ほんとうのすぐれたせかいがあって
ほんとうのただしいじゆうがあって
よりよいよにむかっているだろう
だれひとりそれにきづかなかった
ただひとりきみがきづいていた
ちかいみらいに
ほんとうのたしかなへいわがあって
ほんとうのただしいぶんめいがあって
ごうはあたりまえにめぐっていたろう
町
しゃんとして
うるわしい言葉をいえ
地上をのべていく
雲が真相を映すから
ちゃんとした
あたらしい自由をとれ
天空をとりしきる
星が真理を映すから
すぎさった時代はもう
もとにはもどらないだろう
きちんとした
すばらしい世をつくれ
この町をなおしていく
人が真実を映すから
うるわしい言葉をいえ
地上をのべていく
雲が真相を映すから
ちゃんとした
あたらしい自由をとれ
天空をとりしきる
星が真理を映すから
すぎさった時代はもう
もとにはもどらないだろう
きちんとした
すばらしい世をつくれ
この町をなおしていく
人が真実を映すから
問い
時は初秋の空気が清らなある夕暮れの午後。所は北茨城市磯原町の海辺の砂浜。人は素直な生まれ育ちの可愛らしい地元の少年であるこ、ななめにふりそそぐつめたいあめ、銀色のするどくすぎさっていくとき。
こ:なぜこんなに世界はわるく、つまらないところなの。
あめ:もっとさきまでみてご覧。もっととおくまで。
こ:どうして。
とき:どこまでいっても、そんな風に社会はとまっていない。
こ:このよはどうしてあるの。
あめ:とかく、きづけることはすべてきづいてご覧。どこにいっても、どこについても。
とき:まっている世界はいつもおなじ。
こ:じゃあ、どこまでいけばいいの。
少年は不思議でした。海鳴りがはてしなく、耳をひたしていきました。雲がどこまでも、どこまでも太平洋をいろとりどりにかわりつつわたっていきました。はてしなく地上をそめあげている夕暮れのなか、肌に心地よくつめたな秋雨がしとしと降りながら。水色のレインコートをきた少年はさしている小さな青い傘から、その向こうにどこまでも広がる海をみていました。やがて綺麗な星がいくつもいくつも、澄んだ空に輝きはじめるまで。
こ:なぜこんなに世界はわるく、つまらないところなの。
あめ:もっとさきまでみてご覧。もっととおくまで。
こ:どうして。
とき:どこまでいっても、そんな風に社会はとまっていない。
こ:このよはどうしてあるの。
あめ:とかく、きづけることはすべてきづいてご覧。どこにいっても、どこについても。
とき:まっている世界はいつもおなじ。
こ:じゃあ、どこまでいけばいいの。
少年は不思議でした。海鳴りがはてしなく、耳をひたしていきました。雲がどこまでも、どこまでも太平洋をいろとりどりにかわりつつわたっていきました。はてしなく地上をそめあげている夕暮れのなか、肌に心地よくつめたな秋雨がしとしと降りながら。水色のレインコートをきた少年はさしている小さな青い傘から、その向こうにどこまでも広がる海をみていました。やがて綺麗な星がいくつもいくつも、澄んだ空に輝きはじめるまで。
Old south Japan
Why we must stay here
Why we must study this the bad world
That old south Japan to make bad culture
Why we must communicate with them
Why we must study this the bad world
That old south Japan to make bad culture
Why we must communicate with them
南方の極悪
一体どうして
あんなに極悪で不徳の東京
あんなに邪悪で最悪の薩長土肥
あれほど品性下劣で救えない関西
そして罪業の歴史しかない天皇家
こんな救われない日本と呼ぶ地獄がある
完全に最低でしかない南日本社会
そこで次々繁殖していく極悪人連中
全く汚れきったこんな島国の南方に
次々ふえていく最低最悪のひとだね
アジア人からうらまれ憎悪されるのは当然だ
現実に日本の一関東人として生まれ育ち
古代からこの島に住んできた人類の一人として
これほど最悪でしかない南日本があるなんて
一度も想像だにした事がなかった
あんなに極悪で不徳の東京
あんなに邪悪で最悪の薩長土肥
あれほど品性下劣で救えない関西
そして罪業の歴史しかない天皇家
こんな救われない日本と呼ぶ地獄がある
完全に最低でしかない南日本社会
そこで次々繁殖していく極悪人連中
全く汚れきったこんな島国の南方に
次々ふえていく最低最悪のひとだね
アジア人からうらまれ憎悪されるのは当然だ
現実に日本の一関東人として生まれ育ち
古代からこの島に住んできた人類の一人として
これほど最悪でしかない南日本があるなんて
一度も想像だにした事がなかった
祈り
悪徳しかみいだされない汚い関西と東京、愛知の邪悪な連中。薩長土肥の極悪侵略人類。仙台や九州や中部の極悪発狂人たち。世界からあれほどの悪人が除去されずにいきているのが大いなる間違いだ。一体どうすればあれらの極悪人と永遠に縁をきれるのか。あれらの極悪人には救われ様がなく、どんな説得も説明も無駄だった。地上に神の力が及ぶなら、あれらの極悪人らができるだけ早く永遠に地上から除去される事が絶対に必要だ。
神様、どうかあれらの極悪人達を世界から滅ぼして下さい。そして人類に本来の善人をふやして下さい。
神様、どうかあれらの極悪人達を世界から滅ぼして下さい。そして人類に本来の善人をふやして下さい。
邪悪な南日本の悪友
汚い関西や東京や中部
悪い薩長土肥
二度と会いたくない連中
腐りきった南日本の邪悪な歴史と風俗
こんな連中が滅亡するなら
人類の公益はふえていくばかりだろう
どうしてそんな悪友らと
同じ国と呼ばれるだけ損害の悪友らと
なれあって過ごさねばならない
永遠に縁を切る事こそが必要だ
救われない関西や東京や中部の連中が
悪意しかない薩長土肥の悪徳連中が
まっさかさまに地獄におちる前に
悪い薩長土肥
二度と会いたくない連中
腐りきった南日本の邪悪な歴史と風俗
こんな連中が滅亡するなら
人類の公益はふえていくばかりだろう
どうしてそんな悪友らと
同じ国と呼ばれるだけ損害の悪友らと
なれあって過ごさねばならない
永遠に縁を切る事こそが必要だ
救われない関西や東京や中部の連中が
悪意しかない薩長土肥の悪徳連中が
まっさかさまに地獄におちる前に
政治論
徳なき天子は有害なり、故に徳なき東京と天皇一家は有害なり、関西及び薩長土肥の悪徳自民族中心主義者らは有害なり。
これらの悪徳有害者らが世襲人種差別で地方の善人をおとしめ、銭儲け金勘定による人口比によりかかって商業慣習の俗物根性において散々、地方の善男善女を侮辱罪し名誉毀損罪してきているのは最も害あり。而して東京と関西、薩長土肥の極悪我利亡者らは悪徳天皇一家諸とも徳高き君主にとってかわられるを得る。かくして尊き精神を囲つ茨城県人の日本統治は当然の権利にして、国政、国連、万生の安寧へ絶対の命題なり。
これらの悪徳有害者らが世襲人種差別で地方の善人をおとしめ、銭儲け金勘定による人口比によりかかって商業慣習の俗物根性において散々、地方の善男善女を侮辱罪し名誉毀損罪してきているのは最も害あり。而して東京と関西、薩長土肥の極悪我利亡者らは悪徳天皇一家諸とも徳高き君主にとってかわられるを得る。かくして尊き精神を囲つ茨城県人の日本統治は当然の権利にして、国政、国連、万生の安寧へ絶対の命題なり。
2013年2月26日
祈り
邪悪で救い様のない関西人や東京と横浜の人、南日本人、西日本人がその悪業の結果をとり地上から永久絶滅します様に。
おのれが侵略犯罪をおかした責任をおしつけてくる低俗かつ不徳、心底から邪悪で救われない関西人、他者を他者ともおもわない犯罪者集団である薩長土肥の極悪人、そして白痴の様な俗物集団である東京と神奈川のやくざ土人。貞操観念が崩壊している堕落しきった静岡や愛知、九州、新潟のまがまがしい土人。おろかなばかりか誤解でよわいものいじめばかりをおこない、堕落した姦淫映像をとり頒布罪をつづける腐敗しきったソドム文化に驕る石川県のゆがんだ土人。
一刻もはやくこれらの邪悪な種が地上から絶たれ、この国家に平和がもどります様。
おのれが侵略犯罪をおかした責任をおしつけてくる低俗かつ不徳、心底から邪悪で救われない関西人、他者を他者ともおもわない犯罪者集団である薩長土肥の極悪人、そして白痴の様な俗物集団である東京と神奈川のやくざ土人。貞操観念が崩壊している堕落しきった静岡や愛知、九州、新潟のまがまがしい土人。おろかなばかりか誤解でよわいものいじめばかりをおこない、堕落した姦淫映像をとり頒布罪をつづける腐敗しきったソドム文化に驕る石川県のゆがんだ土人。
一刻もはやくこれらの邪悪な種が地上から絶たれ、この国家に平和がもどります様。
祈り
善意で会話していたら突如発狂して侮辱してきた悪の新潟人が死滅し、大阪や東京の不正生活保護でくらしている下劣もろとも人間界で最悪の境涯を永久にさまよいます様。
福島から東京へ逃げ、悪事をほしいままにしながらありとあらゆる蛮行をしていた邪悪な人間が天罰をうけ、社会で虐げられます様。
邪悪でたちのわるい大阪人、仙台にきた性悪の神戸人に天罰がくだり、人間のすがたではなくなって海や山のもくずになります様。その親族すべても死亡します様。極悪仙台人が地上を失い、永遠の地獄をさまよいます様。京都、大阪、九州や愛知や東京からでてくる邪悪な人種らが地獄にいく様。
世界からああいった極悪人間がいなくなり、地上が平和でよい場所になります様。
福島から東京へ逃げ、悪事をほしいままにしながらありとあらゆる蛮行をしていた邪悪な人間が天罰をうけ、社会で虐げられます様。
邪悪でたちのわるい大阪人、仙台にきた性悪の神戸人に天罰がくだり、人間のすがたではなくなって海や山のもくずになります様。その親族すべても死亡します様。極悪仙台人が地上を失い、永遠の地獄をさまよいます様。京都、大阪、九州や愛知や東京からでてくる邪悪な人種らが地獄にいく様。
世界からああいった極悪人間がいなくなり、地上が平和でよい場所になります様。
祈り
他人へ害毒を与える悪事しかしなかった極悪人村上春樹や、綿矢りさ、石原慎太郎に甚だしい天罰があたり、地獄におちます様。それらの極悪人が地上を永久に去り地獄にいきつき、一切の血筋が地上から除去され世界が平和になります様に。
2013年2月25日
放射能物質を含む産業廃棄物の最終処分場は東京へ
極悪東横土人うみだした産廃を綺麗な自然を守る関東北部へ押し付ける。放射能物質を含む産業廃棄物はそれを生み出した東京電力株式会社の筆頭株主でありその電力消費者として責任者当人である極悪の東京都又は同じく大量電力消費をした神奈川県で原則処理すべきだ。さもなければ、すべてみずからがうみだしたゴミは他人へおしつけて己のみ肥え太る悪徳東京都とその浅ましいやくざ子分神奈川県は東日本圏に於いて、永遠に彼らの不徳に比べ出過ぎた越権の地位を失うべきである。
にわ
夕に住む光のありか、どこからどこへとうつりすんできた光なのか、さえ。だれにとってのそれ、なのかをしるべき人はしらない。
いつしか、できごとがまとまってしまったあとで、だれにそれをおいかけられたという。はるかに、昔から今までをのべていく、無数のかんざし。ささのそよめきにうごかされる風、どうしてそのにわのひとすみをふいたのかしるひともいなかった。訳は、徐々にきまったという。松、わかったとおりできごととして、ちかづいている。ちかづいてはさっていく。大まかに、きづいたとおりの社会の羅列をさぐってみればいい。もし万物があたりまえで、だれもがしりきったあるまちがい様のないさまをおしきっていた、として。第一、第二と事態は推進されていく。物事が夙 に、きりかわりつつめぐりかえった。
いつしか、できごとがまとまってしまったあとで、だれにそれをおいかけられたという。はるかに、昔から今までをのべていく、無数のかんざし。ささのそよめきにうごかされる風、どうしてそのにわのひとすみをふいたのかしるひともいなかった。訳は、徐々にきまったという。松、わかったとおりできごととして、ちかづいている。ちかづいてはさっていく。大まかに、きづいたとおりの社会の羅列をさぐってみればいい。もし万物があたりまえで、だれもがしりきったあるまちがい様のないさまをおしきっていた、として。第一、第二と事態は推進されていく。物事が
せかい
せかいがすこしずつ
すこしずつわるくされ
ごかいされ
わるいにんげんらによって
まちがったみちにさそわれている
ふうぜつやものがたりしょうせつによって
ゆがめられていくしんじつ
それにじょうじるおろかながいじんたち
そのめのまえでなにもできず
じっとたえしのびながら
かみさまにいのりをささげる
このあしきくににほんが
どうかこんていからくつがえり
いままでしはいをたくらんだ
あくじしてきたおろかもののいつわりがなくなり
あらゆるじゃあくなひとびとがきえうせ
しょこくからまことのあらためがおこり
あらゆるわるものが
あらゆるわるさをはたらくにんげんがうせ
ぼくのみていたほんとうのしぜんが
ほんとうのまちが
もとのとおりになることを
すこしずつわるくされ
ごかいされ
わるいにんげんらによって
まちがったみちにさそわれている
ふうぜつやものがたりしょうせつによって
ゆがめられていくしんじつ
それにじょうじるおろかながいじんたち
そのめのまえでなにもできず
じっとたえしのびながら
かみさまにいのりをささげる
このあしきくににほんが
どうかこんていからくつがえり
いままでしはいをたくらんだ
あくじしてきたおろかもののいつわりがなくなり
あらゆるじゃあくなひとびとがきえうせ
しょこくからまことのあらためがおこり
あらゆるわるものが
あらゆるわるさをはたらくにんげんがうせ
ぼくのみていたほんとうのしぜんが
ほんとうのまちが
もとのとおりになることを
2013年2月24日
祈り
風説流布罪によって悪い地域をほめ善い地域をおとしめ、何百万人以上の国民へ甚だしい害毒と勘違いを垂れ流すブランド総合研究所の代表取締役田中章雄、取締役の松田泰治と杉山邦子、社員約10名に天罰が下り、その子孫末裔まで二度と世間様に顔向けできなくなります様。又そうして垂れ流してきた害のある情報全てが完璧に覆る以上の責任がとられるまで、全世界人類が彼らの罪業を決して許しません様。
みずいろのくも
時は2012年10月。所は北茨城市磯原町の精華小学校から市民野球場へ向かう坂。人は短い髪の小学校低学年の女子であるみなみ、長い髪の小学校低学年の女子であるきた。
みなみ:はじめからきまってたんでしょ。
きた:そうだよ。
自動車がとおりすぎて、みちばたのすすきがゆれる。
みなみ:いつだっけ。
きた:しらないよ。
みなみ:くもがそよいで、きえてっちゃった。それもおなじで、きまってるの。
きた:そうなの。
みなみ:そうだよ。
きた:わかっちゃったんだ。だれでもそんなにカンタンに、わかっちゃえるなんておもわなかったでしょ。
みなみ:そうだよ!
きた:みて、うみ。
みなみ:わー、すごいね。みずいろだね。
きた:そらみたい。
みなみ:だれもいないよ。くもだもん。
きた:なにそれ、わかんない!
みなみ:イミとかないよ。
みなみ:はじめからきまってたんでしょ。
きた:そうだよ。
自動車がとおりすぎて、みちばたのすすきがゆれる。
みなみ:いつだっけ。
きた:しらないよ。
みなみ:くもがそよいで、きえてっちゃった。それもおなじで、きまってるの。
きた:そうなの。
みなみ:そうだよ。
きた:わかっちゃったんだ。だれでもそんなにカンタンに、わかっちゃえるなんておもわなかったでしょ。
みなみ:そうだよ!
きた:みて、うみ。
みなみ:わー、すごいね。みずいろだね。
きた:そらみたい。
みなみ:だれもいないよ。くもだもん。
きた:なにそれ、わかんない!
みなみ:イミとかないよ。
The earth
I guess ever other thing
But it would never get some arts
The earth may get it
But it will never come there
But it would never get some arts
The earth may get it
But it will never come there
2013年2月22日
理性
善を褒めず、悪を貶さない者は理性が何もないに等しい。
この判定が過っている人々はそれが正しい人々より悪いのである。社会に程度や質があるのはこの為だろう。よい質の社会では、趣味すら高貴たらざるをえない。そして俗物性が少ない分だけ、悪い人々から忌み嫌われたり、無視されたり、貶されたりしている。代わりに彼らは善い人々と聖者に好かれ、そういった人々のたまり場を作る。
人類界では万人とつきあう必要がないし事実上無理だから、国家と方言が分かれて行く訳はここにあるといえる。
善い理性が哲学にとって目指されてきたのは、そういった人々が栄える為に理がある。優れた利他性の境涯では、社会はより好ましい状態であるから、幸福の一般表徴と結果は一致するだろう。より劣った社会でくらすのは実に辛い経験なので、そこで不幸感が生まれてくるのは自然である。理性が一般知能の謂いなら、善い程度の状態はより知能の優れた仲間をもつ事になる。
この判定が過っている人々はそれが正しい人々より悪いのである。社会に程度や質があるのはこの為だろう。よい質の社会では、趣味すら高貴たらざるをえない。そして俗物性が少ない分だけ、悪い人々から忌み嫌われたり、無視されたり、貶されたりしている。代わりに彼らは善い人々と聖者に好かれ、そういった人々のたまり場を作る。
人類界では万人とつきあう必要がないし事実上無理だから、国家と方言が分かれて行く訳はここにあるといえる。
善い理性が哲学にとって目指されてきたのは、そういった人々が栄える為に理がある。優れた利他性の境涯では、社会はより好ましい状態であるから、幸福の一般表徴と結果は一致するだろう。より劣った社会でくらすのは実に辛い経験なので、そこで不幸感が生まれてくるのは自然である。理性が一般知能の謂いなら、善い程度の状態はより知能の優れた仲間をもつ事になる。
2013年2月21日
ひび
ひび
まつものは
とりたてて
のべられもしなかった
ちじょうのだいとし
よごれたとかい
いつなんなりと
あやまちにさとれ
おしまいまでを
かさねていく
おしまいまでを
くりかえしていく
おなじくもに
かさねていくひび
たすかるあてもなく
ひびわすぎさりつつ
しぜんのうちにねる
かずしれないさきゆきに
よばれたくもは
しっかりとまった
よばれたときは
ゆっくりとねて
じだいにおいていかれた
じゆうになりようもない
たしかさをねがいつつ
せかいにさきかげていた
はっきりさとった
いだいさをてにしつつ
まつものは
とりたてて
のべられもしなかった
ちじょうのだいとし
よごれたとかい
いつなんなりと
あやまちにさとれ
おしまいまでを
かさねていく
おしまいまでを
くりかえしていく
おなじくもに
かさねていくひび
たすかるあてもなく
ひびわすぎさりつつ
しぜんのうちにねる
かずしれないさきゆきに
よばれたくもは
しっかりとまった
よばれたときは
ゆっくりとねて
じだいにおいていかれた
じゆうになりようもない
たしかさをねがいつつ
せかいにさきかげていた
はっきりさとった
いだいさをてにしつつ
2013年2月20日
ふうけいが
ちいさくちぢこまり
てにはいりそうもない
じかんのすきまをみている
いつなくなるかしれずに
とつぜんなくなった
つみかさなる
いくえものしるしだけ
じだいのなかにねむっている
わかったことのなにもかも
いずれきえさってしまうだけの
おくゆきのないふうけいがだ
ごうけいしていくらかもにて
わかっていることのすべても
はらはらとまいちってきえていく
てにはいりそうもない
じかんのすきまをみている
いつなくなるかしれずに
とつぜんなくなった
つみかさなる
いくえものしるしだけ
じだいのなかにねむっている
わかったことのなにもかも
いずれきえさってしまうだけの
おくゆきのないふうけいがだ
ごうけいしていくらかもにて
わかっていることのすべても
はらはらとまいちってきえていく
2013年2月19日
きせつ
しずかに
たのんでいる
ゆっくりとした
できごとのられつ
どだいが
それはそれというわけ
いつしかきまったのは
ただしさのならび
くれないのはな
はかなさをまつ
いつでもひとしい
はなたれたつきあかり
まっているあいだ
すぎさりゆくきせつ
たのんでいる
ゆっくりとした
できごとのられつ
どだいが
それはそれというわけ
いつしかきまったのは
ただしさのならび
くれないのはな
はかなさをまつ
いつでもひとしい
はなたれたつきあかり
まっているあいだ
すぎさりゆくきせつ
とらいじんのやみのうち
おいかけられるよう
よこしまなとらいじんらから
さいなまれている
すくわれるひをまちながら
ほしかったもののすべてさえ
どこかにきえてしまった
もとめられていたのは
すくわれるひをまちながら
たずねている
どこかでなくしてしまった
たしかなむかしなじみのなかまは
どこかにいってしまった
まよなかにきく
ここはどこだ
いきつくあてもなくさまよう
はてしないやみのうちを
よこしまなとらいじんらから
さいなまれている
すくわれるひをまちながら
ほしかったもののすべてさえ
どこかにきえてしまった
もとめられていたのは
すくわれるひをまちながら
たずねている
どこかでなくしてしまった
たしかなむかしなじみのなかまは
どこかにいってしまった
まよなかにきく
ここはどこだ
いきつくあてもなくさまよう
はてしないやみのうちを
2013年2月18日
2013年2月17日
2013年2月16日
めぐり
やすらぎきってまっていた
どこかにおとしてしまった
てにはいりようもないまこと
よのなかはいれかわりつつ
もとのとおりになる
どこかになくしてしまった
てにはいるはずだったまこと
このよはしずかになみだをふく
おおつちがねがいをかさねつつ
てにしてみてさとったうそ
なんでもないほしのまたたき
あきらめずにまっていた
おしえてもらえたのはひとつだけ
なんでもないこのよのめぐり
どこかにおとしてしまった
てにはいりようもないまこと
よのなかはいれかわりつつ
もとのとおりになる
どこかになくしてしまった
てにはいるはずだったまこと
このよはしずかになみだをふく
おおつちがねがいをかさねつつ
てにしてみてさとったうそ
なんでもないほしのまたたき
あきらめずにまっていた
おしえてもらえたのはひとつだけ
なんでもないこのよのめぐり
2013年2月14日
ひたみち
なにもないせかいでしずかに
ねむりにつくあいまにいる
てにはいりようもなかった
なにもないせかいでしずかに
なにもなかったせかいでしずかに
なかったせかいでひたみちに
いだいななにかをみつめている
ありえたみらいをみつけながら
ねむりにつくあいまにいる
てにはいりようもなかった
なにもないせかいでしずかに
なにもなかったせかいでしずかに
なかったせかいでひたみちに
いだいななにかをみつめている
ありえたみらいをみつけながら
俗物
平凡ではいけない人生を
資本主義の地獄でみせられている
どちらにころんでもひどい
てにはいりようもない羨望の偶像を
なにもなかったことになれば
どんな悲惨な事態もおわりゆく
しかし社会で生息しているのは
なにもなかった様な俗物だけだ
苦しみの底でみあげた世の中は
楽しそうに卑俗な連中がのさばり
我先に自慢やおごりに耽っていた
一体そんな社会は俗物王の時代だ
どれ程酷い社会かさえ知らない振り
なにもみなかった振りで過ごしている
どれ丈悲惨な状況かさえしらない
単になにもかも醜い状態をくりかえしている
資本主義の地獄でみせられている
どちらにころんでもひどい
てにはいりようもない羨望の偶像を
なにもなかったことになれば
どんな悲惨な事態もおわりゆく
しかし社会で生息しているのは
なにもなかった様な俗物だけだ
苦しみの底でみあげた世の中は
楽しそうに卑俗な連中がのさばり
我先に自慢やおごりに耽っていた
一体そんな社会は俗物王の時代だ
どれ程酷い社会かさえ知らない振り
なにもみなかった振りで過ごしている
どれ丈悲惨な状況かさえしらない
単になにもかも醜い状態をくりかえしている
ひとくさり
さぐりたかったできごとはすでに
ひとくさりのてのひらのなかで
まちかまえるにちがいないうえに
よほどゆっくりとうごいてるから
さがしたかったまいにちはすでに
まいおちるよのめのまえにあって
よほどたのしかったのだろうから
ひとくさりのてのひらのなかで
よびとめられればそれでおわる
ひとくさりのやくそくのなかで
まいちるはおちばのささやきにあって
さがしもとめてたひとのすがたはなく
ただひたすらのこりつづけているみち
このみちのりをたどりつけば
ひとくさりのてのひらのなかで
まちかまえるにちがいないうえに
よほどゆっくりとうごいてるから
さがしたかったまいにちはすでに
まいおちるよのめのまえにあって
よほどたのしかったのだろうから
ひとくさりのてのひらのなかで
よびとめられればそれでおわる
ひとくさりのやくそくのなかで
まいちるはおちばのささやきにあって
さがしもとめてたひとのすがたはなく
ただひたすらのこりつづけているみち
このみちのりをたどりつけば
国奴制度の不幸
人類がいきながらえてきた根拠の内、同類のおろかさから身を退ける事の合理化が最重要課題だった故に、国民は別れ又民族や語族をもうけた。方言はことばが人類にあって共同化のはじめで、うまのあいかたに等しいとおしえる。
やまとは奈良の一地域名だから、やまと人のやり口がやがて島を覆う様になったのも一つの偶然によるのだろう。訓よみや、送り仮名や振り仮名での漢字の文字化をはじめとして万葉仮名の成立、そして平仮名と片仮名をもちいた仮名まじり文へと文章の規則を、天皇家が和歌集をもとにいれかえてきた。この和歌とかかれ、やまとうたともよばれるみじかいうたの57577という韻律さえ、皇帝というものがまとめたがった系譜にあるといえる。それ故方言としてのやまとことばはこれらの背景にある発音や、いいまわし、語彙を提供した。そして皇帝政治は、いわば支配語の確立により少数言語を改鋳していきながらえてきた。それは又少数語族や少数民族というものを国内から弾圧していく経過だった。
所で、日本列島というせまい適所にやってきた人々は、はじめ自由となる仲間達だったろう。彼らは新天地として無人の島にたどりつき、定着し、自然の中で身を立てていたのだろう。我らの学識では縄文時代迄がはっきりみえている。そして弥生人が朝鮮半島から渡来してきて事態がかわった。彼らは稲作の技術による蓄財の利で、支配と被支配の社会をもたらしてしまった。この精華として奈良の奥地に、ある富裕の家が生じた。この豪族は支配領域を広げて、自らは労働をしない選択肢をみいだした。皇帝の名義を遣使をやって中国語から借り、天皇とした。こうして日本列島の中にはびこる帝国主義の原型ができた。王と奴隷が別れた結果、天皇の定着地には甚だしい差別がうまれ、それは特に定着期間の長かった関西地方にのこる風習となり特定地域とそこにくらす人々となっている。この奴隷的な被差別部落の人間層は、王族としての天皇が搾取の風儀によって生み出した。もし平等化が目的なら、その人物は人間への支配を望まず、縄文時代の様に仲間への寄付をしただろう。
我らが弥生式の社会にいごこちがよくないのは、その渡来系の社会が朝鮮半島からきた異物であるばかりか、もともと極東にきた原因にも背いているからだ。いわば天皇は異物であり、弥生文化である関西地方も日本ではない。それらはもともと、日本といまはよばれる事になった島では、比較的新しい上に出自のしれない徒花の様なおごれる地勢とよこしまな人員にすぎない。本来の日本はそれらではないし、それらがのっとる事もできない。
既に冒頭説明された様、衆愚からの離脱は進化の第一義だった。それはおそらくあらゆる転居の理由だし、大移動か小さなひっこしかによるが人類を別のよい条件へ転地させていく原動力になる。つまり天皇や関西に関わらずとも人間はいきていく。そしてそれが本来の日本の姿だったのだ。
人間は幸福感を、不平等によって失う。要は、朝鮮半島からやってきた人種と民族とはおもに関西地方へ定着し、文化や世界観に於いても不幸をふやすばかりだった。その権化である天皇の原型は既に帝国主義により奴隷をつくる体制なので、単に関わる程不幸度がふえる様な実在なのである。それは商業慣習と化した蓄財の癖がしみわたった関西地方においても同じだ。東京は江戸として、1603年に関西近辺の不幸へ対比させられた商都をになった。そしてついに天皇が真の不幸をうえつけにやってきた。結局、運命は同じだろう。奴隷制度は裏をかえせば皇帝制度といえ、天皇制とは要は国奴制にすぎない。
やまとは奈良の一地域名だから、やまと人のやり口がやがて島を覆う様になったのも一つの偶然によるのだろう。訓よみや、送り仮名や振り仮名での漢字の文字化をはじめとして万葉仮名の成立、そして平仮名と片仮名をもちいた仮名まじり文へと文章の規則を、天皇家が和歌集をもとにいれかえてきた。この和歌とかかれ、やまとうたともよばれるみじかいうたの57577という韻律さえ、皇帝というものがまとめたがった系譜にあるといえる。それ故方言としてのやまとことばはこれらの背景にある発音や、いいまわし、語彙を提供した。そして皇帝政治は、いわば支配語の確立により少数言語を改鋳していきながらえてきた。それは又少数語族や少数民族というものを国内から弾圧していく経過だった。
所で、日本列島というせまい適所にやってきた人々は、はじめ自由となる仲間達だったろう。彼らは新天地として無人の島にたどりつき、定着し、自然の中で身を立てていたのだろう。我らの学識では縄文時代迄がはっきりみえている。そして弥生人が朝鮮半島から渡来してきて事態がかわった。彼らは稲作の技術による蓄財の利で、支配と被支配の社会をもたらしてしまった。この精華として奈良の奥地に、ある富裕の家が生じた。この豪族は支配領域を広げて、自らは労働をしない選択肢をみいだした。皇帝の名義を遣使をやって中国語から借り、天皇とした。こうして日本列島の中にはびこる帝国主義の原型ができた。王と奴隷が別れた結果、天皇の定着地には甚だしい差別がうまれ、それは特に定着期間の長かった関西地方にのこる風習となり特定地域とそこにくらす人々となっている。この奴隷的な被差別部落の人間層は、王族としての天皇が搾取の風儀によって生み出した。もし平等化が目的なら、その人物は人間への支配を望まず、縄文時代の様に仲間への寄付をしただろう。
我らが弥生式の社会にいごこちがよくないのは、その渡来系の社会が朝鮮半島からきた異物であるばかりか、もともと極東にきた原因にも背いているからだ。いわば天皇は異物であり、弥生文化である関西地方も日本ではない。それらはもともと、日本といまはよばれる事になった島では、比較的新しい上に出自のしれない徒花の様なおごれる地勢とよこしまな人員にすぎない。本来の日本はそれらではないし、それらがのっとる事もできない。
既に冒頭説明された様、衆愚からの離脱は進化の第一義だった。それはおそらくあらゆる転居の理由だし、大移動か小さなひっこしかによるが人類を別のよい条件へ転地させていく原動力になる。つまり天皇や関西に関わらずとも人間はいきていく。そしてそれが本来の日本の姿だったのだ。
人間は幸福感を、不平等によって失う。要は、朝鮮半島からやってきた人種と民族とはおもに関西地方へ定着し、文化や世界観に於いても不幸をふやすばかりだった。その権化である天皇の原型は既に帝国主義により奴隷をつくる体制なので、単に関わる程不幸度がふえる様な実在なのである。それは商業慣習と化した蓄財の癖がしみわたった関西地方においても同じだ。東京は江戸として、1603年に関西近辺の不幸へ対比させられた商都をになった。そしてついに天皇が真の不幸をうえつけにやってきた。結局、運命は同じだろう。奴隷制度は裏をかえせば皇帝制度といえ、天皇制とは要は国奴制にすぎない。
じゃあく
しあわせになりようもないしわざだ
うらぐちにまっている
どうせおなじしわざだろうから
はじめからきまっていたんだ
のこされたものといえばおわり
じつにくだらないよのなか
きづくまもなくそれでおしまい
せいかくのわるいじゃあくなむれ
がいどくしかない
それがまざったおろかな
くさりきっていてどうしようもなく
ただひたすらほろびをまつくさったむれ
だからだまってみていればいい
どうせおしまいまでじゃあくはつづく
しねばいい
しねばいい
くさりきったよのなか
はじめからおわればいい
かんぜんにしんだほうがいい
わるさしかしていない
たいきんとけんりょくをりょうてに
わるいにんげんをもりたててほめている
おちぶれきった
よごれきったみんしゅう
もうなんどとなくみせられてきた
もっとはやくちかづくなと
はっきりおしえておけばよかったろうに
もっとはやくじゃあくにちかよるなと
うらぐちにまっている
どうせおなじしわざだろうから
はじめからきまっていたんだ
のこされたものといえばおわり
じつにくだらないよのなか
きづくまもなくそれでおしまい
せいかくのわるいじゃあくなむれ
がいどくしかない
それがまざったおろかな
くさりきっていてどうしようもなく
ただひたすらほろびをまつくさったむれ
だからだまってみていればいい
どうせおしまいまでじゃあくはつづく
しねばいい
しねばいい
くさりきったよのなか
はじめからおわればいい
かんぜんにしんだほうがいい
わるさしかしていない
たいきんとけんりょくをりょうてに
わるいにんげんをもりたててほめている
おちぶれきった
よごれきったみんしゅう
もうなんどとなくみせられてきた
もっとはやくちかづくなと
はっきりおしえておけばよかったろうに
もっとはやくじゃあくにちかよるなと
商業化された南日本の退廃
地上で最も悪い社会、南日本。影響はうけない程よく、うければ全て悪くなる。
他人を害するという最悪の特徴しかみいだせない南日本人は、東京以西にたかってありとあらゆる悪事をたくましくしつづけているが、人類の知能があるかぎり、そういった亜種亜族である擬似日本人に将来性があるとはおもえず、遠からず絶滅するだろう。「よいところ」のみつけられないばかりか、悪さしかしてこない様な民族が東京より南西にすみかをもつ南日本人であり、かれらの生態と共存はほかのどの人類にも不可能だろうし、結局は迷惑で悪徳にみちた似て非なるアジアンとしてかれらは地上から除去されるだけだろう。他人へ害をくわえるのを習性にしているからどの世界へいこうと邪魔者、だれからも目の敵になるだろうし、かりにおろかものがかれらにしたしもうとそこからうけるのは甚だしい損害ばかりである。
他人を害するという最悪の特徴しかみいだせない南日本人は、東京以西にたかってありとあらゆる悪事をたくましくしつづけているが、人類の知能があるかぎり、そういった亜種亜族である擬似日本人に将来性があるとはおもえず、遠からず絶滅するだろう。「よいところ」のみつけられないばかりか、悪さしかしてこない様な民族が東京より南西にすみかをもつ南日本人であり、かれらの生態と共存はほかのどの人類にも不可能だろうし、結局は迷惑で悪徳にみちた似て非なるアジアンとしてかれらは地上から除去されるだけだろう。他人へ害をくわえるのを習性にしているからどの世界へいこうと邪魔者、だれからも目の敵になるだろうし、かりにおろかものがかれらにしたしもうとそこからうけるのは甚だしい損害ばかりである。
Sasayaki no ato
Nihon nante doudemo ii
Teniire takatta mono sae
Tenihaitta monono subete mo
Sorewa ochiteiku kazushirenai
Sasayaki no ato
Maiochiru dekigoto no ueni
Sadamerareta atarashii dekigoto
Teniire takatta mono sae
Wazuka demo hitoshiku
Maichiru dekigoto no nakani
Sadamerareta huruki dekigoto
Teniire takatta mono sae
Sorewa meguri nagara nemuru
Sasayaki no ato
Teniire takatta mono sae
Tenihaitta monono subete mo
Sorewa ochiteiku kazushirenai
Sasayaki no ato
Maiochiru dekigoto no ueni
Sadamerareta atarashii dekigoto
Teniire takatta mono sae
Wazuka demo hitoshiku
Maichiru dekigoto no nakani
Sadamerareta huruki dekigoto
Teniire takatta mono sae
Sorewa meguri nagara nemuru
Sasayaki no ato
Immoral mob
As immoral mob, mobocratic Kansai society, it would be called as commercialized company.
民俗学
近畿、という最悪の地域差別用語を平気でつかいつづける邪悪な関西の人々。一体何がその中華思想の根拠なのか、ただただ傲岸不遜で救えないあしき民族差別と人種差別の悪い慣習による。近畿という地域差別用語を公式に関西広域連合又は国政は使用禁止し、全て関西におきかえるべきだ。
2013年2月13日
2013年2月11日
歴史学
徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いを催すつもりはなくそれは会津と桑名の藩屏が反幕府的な勢力と勝手に起こした戦である事、尚且つ慶喜公は会津と桑名の猛反対にも関わらず御所周辺から退却した事、後世に禍根を残す不当な要求である事を見抜いていた越前と尾張の2候が説得して再び御所にもどらせたがったが、以前からの議会主義者として諸侯会議の卑劣な決定にも寧ろ驚くほど従順であって、ぬれぎぬをかけようとした会議の内容には部分的に応じ80万石を引き渡して天皇政府を樹立したがっていた事が、当時の情勢に通じた客観的な第三者であるイギリス外交官アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』二十六章に書かれている。
なお『昔夢会筆記』には、徳川慶喜本人が朝命によって御所へ上がろうとしたが、これに薩摩からの攻撃を加えられたので戦端が開いてしまった、なおこれらは半ば思案の内だったと徳川慶喜本人の弁がある。
これらはまだ封建領主制度の名残りを含みつつも議会政治的な近代思想をもつ大君としてまこと尊皇的な行動であり、特に御所付近でいきりたった会津や桑名の藩屏による勝手な戦闘がおこなわれるのを大君が憂慮しての二条城から大阪城への自主的な退却であったし、尚且つ「皇室へ恭順せよ」という水戸学に教育され事実上皇族が母でもある徳川慶喜にありえる命令に従いそうにもない、既に公然となった皇軍との戦闘を君側の奸臣を倒す目的であったとはいえ始めてしまっていた会津と桑名の藩屏による内乱行動を強制的に一刻も早くやめさせる意味で、御所に被害が及ぶ前に大君は江戸城へ退却せざるをえなかったのが理解できる。当時16歳である明治天皇の態度は、その配下にある総裁、議定、参与が実質的な責めを負うべきとはいえ、心から誠実な忠臣への裏切りを命令する錦旗を与えたという意味でまこと世界史上にも極めて罪業深く、西日本の諸藩とそのもとにある国民へ鹿を指して馬と為す悪意を持った権力濫用と不正な手立てを肯わせる歴史的な増長の役目を与えたという点で、わが国政の史実に於いて末代まで恥ずべき悪政の証拠であるといえるだろう。この時点で後の御前会議を通した軍部統帥権を一任されている天皇絶対主義による、判断を致命的にしかも繰り返し誤りながらそれが修正されないどころか、過ちが悪意を以て却って強化される様な、岩倉具視や大久保利通をはじめとした西日本人の諸藩が敷いた独裁政を建前としていわば奸臣が実権を握った実質的な寡頭政による明治政権内部の仕組みの時点から、天皇の命令によって起こされた慶喜追討令と称する忠臣迫害の1868年戊辰戦争からたった77年後政権の必然的な破局として、1945年無条件降伏に至る大敗戦は予告されていたのである。こうして忠臣を排除し迫害しながら権力欲のみで動く奸臣らを味方につけていけば、国風には不信が広がり勝てば官軍とばかり努めて上司や同僚を欺こうとするだろうし、政権内部へ最後には卑劣で不徳なマキャベリスト、いわば悪役の様な性格者しか残らないからだ。幼い明治天皇とその臣は、正にそういう人達だった。そして忠臣とその部下らをなぜか攻撃する錦旗を睦仁が新政府軍側に与える裏切りから現実にわずか63年後、1931年リットン調査団により枢軸国としてこの明治天皇により築かれた欺瞞の「大日本帝国」への見方は決定的になる。
因みに江戸城へ退却した際の徳川慶喜による、上官の命令を大人しく待って聴こうとしなかったか、無断で行動したがった協調性の欠けた不従順者への信賞必罰の態度は、藩からの命令を受けずに勝手な行動をとった地元出身の天狗党への厳格な対応で既往の彼にみられるものだった。但し、元々絶対主義の幕閣から尊攘派の報国心への無理解をかわしながらに天狗党の赦免に尽力すべく自ら鎮圧軍の総指揮官を願い出た英断や、或いは会津候や桑名候へ皇室への恭順の忠告をし、又は第二次長州征伐が弱いもの虐め状態だった為に将軍職就任直後に兵を切り上げさせた様に、慶喜公自身は武士の情け或いは慈悲の魂を持ち合わせていた。猶彼の父である徳川斉昭も、桜田門外の変を勝手に起こした脱藩者らへは同様の過酷ともいえる処罰を命じており、初代藩主の頼房に命じられた生瀬騒動に象徴されている様、信賞必罰性は水戸徳川家に於ける非協調的な者への武断的な家風であり、当時の警察組織の長として当初からの処世訓であったと思える。いいかえれば、水戸の風は命令へは従順でなければならないが政策へは柔軟でありえたといえる。この帝王学風の二面性は要地の封建領主として任された、君主政の資質とも関連しているだろう。
総じて、主要な諸侯を集めきらない少数者で行われた不完全な小御所会議による第一の公議からの過酷すぎる不当ともいうべき命令へも、当時日本を取り巻く国内外へ最大規模の権威と武力が両手にありながら驚くべき素直な態度に見られる通り、徳川慶喜は決して絶対主義なるものを信じていなかった。それはドナルド・キーン『明治天皇』等、武力絶対主義者の徳川宗家と公議政体主義者の水戸徳川家を取り違えている勉強不足による、のちの誤解と風評による間違いである。そもそも、実力や本分に関わらず直接参政権の263年間余り制限されていた御三家水戸は、『大日本史』編纂事業に見られるごく英邁だが幕閣での権力は限られている第2代水戸徳川家当主徳川光圀と、「生類哀れみの令」に見られる幕閣での権力は限られないが才能が乏しい第5代徳川宗家当主徳川綱吉の同時代に於ける著しい対照が現れた江戸時代初期から、この絶対主義の腐敗という歴史的事象を重々承知し易い立場にあった。そしてこの実力的にならざるを得なかった水戸と、形式的であらざるを得なかった江戸のそれぞれの優先順位の違いは、幕末持ち出された将軍継嗣問題での物の見方、乃ち対外的危機という急場に及んでは「実力のある人物を将軍や幕閣にすべし」とする実力優先論の一橋派と、そういった急場に及んでも「形式にのっとった人物を将軍や幕閣にすべし」とする血脈優先論の南紀派の違いにも現れている。こうした新旧の対照事例が数あるばかりか現に、水戸徳川家からの実質的な出身者の徳川慶喜はごく英明と評されていた通り、徳川にも薩長にも利害のないアーネスト・サトウが第三者として叙述している様、当時としても世界で最先端であった公議政体による漸進的な議会改良主義者でもあり、かつ78年のちにアメリカによって作られる象徴天皇を早くも構想していたのである。吉田松陰の一君万民論に影響を受けた長州を主力としたその後の明治新政府が企てた絶対君主による専制統治へは、絶対主義の欠陥を熟知していた水戸嫡出で先から諸侯による公議政体を主張した慶喜は明らかに反対だったのが分かる。これは有力な封建領主層をおもとした議会による政治の構想だから、いわば江戸時代末期にあって貴族院議会の確立を述べていたものといえるだろう。又彼は最後の将軍とはなったが当時の幕政にあっても第2次長州征伐での軍備不足という結果から導いた軍制近代化を、迫る諸外国の干渉や、既に朝敵となりつつ外国へ密偵(長州五傑)を送り込んだ長州藩と政府へ従順を装いつつその背後にいて同じく勝手に密偵(薩摩藩第一次英国留学生、薩摩藩第二次米国留学生)を送り込んでいた薩摩藩という反抗的な武装勢力の不穏な動きにより切迫した情勢の中で、1年間もかけて十分させていたのも事実である(慶応の改革)。つまり、徳川慶喜は幕末最大の近代化改良主義者であった。そして往年は明治天皇から直々に公爵へ叙され貴族院議員を務めた通り、尊皇的な議会主義者でもあったし、地位や領地を不条理に追われ奪われたとはいえ半ば彼の思い描いた通りとなった新政体へ参政したのだ。
これ故に、彼は寧ろ自由民権主義に近い土佐による建言を受けて公議政体を目指す大政奉還を甘んじて実行もしえた。又徳川宗家や当時でいう南紀派という血脈優先的な徳川絶対主義者なら当然した筈の政権奪還の為に日本を二分する第二の関が原の戦いも、尊皇攘夷という水戸学派が中国春秋時代の会盟の故事から引いた理念の通り、最大の内乱に乗じて当然あった筈の外国からの内政干渉を避け天皇親政を実現する目的で彼は敢えてしなかったのだ。
歴史を振り返ればこれらがはっきり見えてくるにも関わらず、明らかに有能で忠実な人物を犠牲に仕立てて(辞官納地)、偽書を用いてまで冤罪に陥れ(『倒幕の偽勅』)、そうでない人間と裏で密約をしていながら(薩長同盟)、まだ幼い為に施政が満足になしえない君主を偽って立ててまでも(小御所会議)、絶対的な帝国主義を完成させようとした新政府側についた人々の真意は明らかに不正でもあるし、この実力如何に関わらない血脈による人種差別崇拝的な業の数々は今日にあってさえ、国政にも他の様々な去就にも致命的な錯誤と失敗をもたらす真因であると思われる。
なお『昔夢会筆記』には、徳川慶喜本人が朝命によって御所へ上がろうとしたが、これに薩摩からの攻撃を加えられたので戦端が開いてしまった、なおこれらは半ば思案の内だったと徳川慶喜本人の弁がある。
これらはまだ封建領主制度の名残りを含みつつも議会政治的な近代思想をもつ大君としてまこと尊皇的な行動であり、特に御所付近でいきりたった会津や桑名の藩屏による勝手な戦闘がおこなわれるのを大君が憂慮しての二条城から大阪城への自主的な退却であったし、尚且つ「皇室へ恭順せよ」という水戸学に教育され事実上皇族が母でもある徳川慶喜にありえる命令に従いそうにもない、既に公然となった皇軍との戦闘を君側の奸臣を倒す目的であったとはいえ始めてしまっていた会津と桑名の藩屏による内乱行動を強制的に一刻も早くやめさせる意味で、御所に被害が及ぶ前に大君は江戸城へ退却せざるをえなかったのが理解できる。当時16歳である明治天皇の態度は、その配下にある総裁、議定、参与が実質的な責めを負うべきとはいえ、心から誠実な忠臣への裏切りを命令する錦旗を与えたという意味でまこと世界史上にも極めて罪業深く、西日本の諸藩とそのもとにある国民へ鹿を指して馬と為す悪意を持った権力濫用と不正な手立てを肯わせる歴史的な増長の役目を与えたという点で、わが国政の史実に於いて末代まで恥ずべき悪政の証拠であるといえるだろう。この時点で後の御前会議を通した軍部統帥権を一任されている天皇絶対主義による、判断を致命的にしかも繰り返し誤りながらそれが修正されないどころか、過ちが悪意を以て却って強化される様な、岩倉具視や大久保利通をはじめとした西日本人の諸藩が敷いた独裁政を建前としていわば奸臣が実権を握った実質的な寡頭政による明治政権内部の仕組みの時点から、天皇の命令によって起こされた慶喜追討令と称する忠臣迫害の1868年戊辰戦争からたった77年後政権の必然的な破局として、1945年無条件降伏に至る大敗戦は予告されていたのである。こうして忠臣を排除し迫害しながら権力欲のみで動く奸臣らを味方につけていけば、国風には不信が広がり勝てば官軍とばかり努めて上司や同僚を欺こうとするだろうし、政権内部へ最後には卑劣で不徳なマキャベリスト、いわば悪役の様な性格者しか残らないからだ。幼い明治天皇とその臣は、正にそういう人達だった。そして忠臣とその部下らをなぜか攻撃する錦旗を睦仁が新政府軍側に与える裏切りから現実にわずか63年後、1931年リットン調査団により枢軸国としてこの明治天皇により築かれた欺瞞の「大日本帝国」への見方は決定的になる。
因みに江戸城へ退却した際の徳川慶喜による、上官の命令を大人しく待って聴こうとしなかったか、無断で行動したがった協調性の欠けた不従順者への信賞必罰の態度は、藩からの命令を受けずに勝手な行動をとった地元出身の天狗党への厳格な対応で既往の彼にみられるものだった。但し、元々絶対主義の幕閣から尊攘派の報国心への無理解をかわしながらに天狗党の赦免に尽力すべく自ら鎮圧軍の総指揮官を願い出た英断や、或いは会津候や桑名候へ皇室への恭順の忠告をし、又は第二次長州征伐が弱いもの虐め状態だった為に将軍職就任直後に兵を切り上げさせた様に、慶喜公自身は武士の情け或いは慈悲の魂を持ち合わせていた。猶彼の父である徳川斉昭も、桜田門外の変を勝手に起こした脱藩者らへは同様の過酷ともいえる処罰を命じており、初代藩主の頼房に命じられた生瀬騒動に象徴されている様、信賞必罰性は水戸徳川家に於ける非協調的な者への武断的な家風であり、当時の警察組織の長として当初からの処世訓であったと思える。いいかえれば、水戸の風は命令へは従順でなければならないが政策へは柔軟でありえたといえる。この帝王学風の二面性は要地の封建領主として任された、君主政の資質とも関連しているだろう。
総じて、主要な諸侯を集めきらない少数者で行われた不完全な小御所会議による第一の公議からの過酷すぎる不当ともいうべき命令へも、当時日本を取り巻く国内外へ最大規模の権威と武力が両手にありながら驚くべき素直な態度に見られる通り、徳川慶喜は決して絶対主義なるものを信じていなかった。それはドナルド・キーン『明治天皇』等、武力絶対主義者の徳川宗家と公議政体主義者の水戸徳川家を取り違えている勉強不足による、のちの誤解と風評による間違いである。そもそも、実力や本分に関わらず直接参政権の263年間余り制限されていた御三家水戸は、『大日本史』編纂事業に見られるごく英邁だが幕閣での権力は限られている第2代水戸徳川家当主徳川光圀と、「生類哀れみの令」に見られる幕閣での権力は限られないが才能が乏しい第5代徳川宗家当主徳川綱吉の同時代に於ける著しい対照が現れた江戸時代初期から、この絶対主義の腐敗という歴史的事象を重々承知し易い立場にあった。そしてこの実力的にならざるを得なかった水戸と、形式的であらざるを得なかった江戸のそれぞれの優先順位の違いは、幕末持ち出された将軍継嗣問題での物の見方、乃ち対外的危機という急場に及んでは「実力のある人物を将軍や幕閣にすべし」とする実力優先論の一橋派と、そういった急場に及んでも「形式にのっとった人物を将軍や幕閣にすべし」とする血脈優先論の南紀派の違いにも現れている。こうした新旧の対照事例が数あるばかりか現に、水戸徳川家からの実質的な出身者の徳川慶喜はごく英明と評されていた通り、徳川にも薩長にも利害のないアーネスト・サトウが第三者として叙述している様、当時としても世界で最先端であった公議政体による漸進的な議会改良主義者でもあり、かつ78年のちにアメリカによって作られる象徴天皇を早くも構想していたのである。吉田松陰の一君万民論に影響を受けた長州を主力としたその後の明治新政府が企てた絶対君主による専制統治へは、絶対主義の欠陥を熟知していた水戸嫡出で先から諸侯による公議政体を主張した慶喜は明らかに反対だったのが分かる。これは有力な封建領主層をおもとした議会による政治の構想だから、いわば江戸時代末期にあって貴族院議会の確立を述べていたものといえるだろう。又彼は最後の将軍とはなったが当時の幕政にあっても第2次長州征伐での軍備不足という結果から導いた軍制近代化を、迫る諸外国の干渉や、既に朝敵となりつつ外国へ密偵(長州五傑)を送り込んだ長州藩と政府へ従順を装いつつその背後にいて同じく勝手に密偵(薩摩藩第一次英国留学生、薩摩藩第二次米国留学生)を送り込んでいた薩摩藩という反抗的な武装勢力の不穏な動きにより切迫した情勢の中で、1年間もかけて十分させていたのも事実である(慶応の改革)。つまり、徳川慶喜は幕末最大の近代化改良主義者であった。そして往年は明治天皇から直々に公爵へ叙され貴族院議員を務めた通り、尊皇的な議会主義者でもあったし、地位や領地を不条理に追われ奪われたとはいえ半ば彼の思い描いた通りとなった新政体へ参政したのだ。
これ故に、彼は寧ろ自由民権主義に近い土佐による建言を受けて公議政体を目指す大政奉還を甘んじて実行もしえた。又徳川宗家や当時でいう南紀派という血脈優先的な徳川絶対主義者なら当然した筈の政権奪還の為に日本を二分する第二の関が原の戦いも、尊皇攘夷という水戸学派が中国春秋時代の会盟の故事から引いた理念の通り、最大の内乱に乗じて当然あった筈の外国からの内政干渉を避け天皇親政を実現する目的で彼は敢えてしなかったのだ。
歴史を振り返ればこれらがはっきり見えてくるにも関わらず、明らかに有能で忠実な人物を犠牲に仕立てて(辞官納地)、偽書を用いてまで冤罪に陥れ(『倒幕の偽勅』)、そうでない人間と裏で密約をしていながら(薩長同盟)、まだ幼い為に施政が満足になしえない君主を偽って立ててまでも(小御所会議)、絶対的な帝国主義を完成させようとした新政府側についた人々の真意は明らかに不正でもあるし、この実力如何に関わらない血脈による人種差別崇拝的な業の数々は今日にあってさえ、国政にも他の様々な去就にも致命的な錯誤と失敗をもたらす真因であると思われる。
祈り
水戸と茨城の善良で正義感の高い人間を害する風説や、悪意ある暴言、誤解するばかりか名誉毀損の放映をおこなう東京、滋賀と彦根、関西、北海道の悪魔じみた人間にどうか天罰があたり、二度と悪業をたくましくしない様世界からその血の一切が除去されます様に。
2013年2月10日
NHK大河ドラマの批評
廷臣八十八卿列参事件に見られるとおり、水戸藩とは一切関わりない幕政及び井伊大老の弱腰外交に憤怒した孝明天皇により幕府を除いた皇族の嫁ぎ先と大名に下された、青天の霹靂である戊午の密勅を朝廷から直々に拝受し、それを幕府へ返納するかどうかという激しい藩内紛糾の末に不平等条約で売国の過ちを犯している幕臣を必死の思いで説得しようとした矢先、共に御三卿の家茂と慶喜の能力を比べてより将軍に向いた方を幕府の危機に立てようとした正直で公明正大な一橋派への猜疑心で凝り固まっており且つ融通の利かない官僚主義の慣例慣行を妄信して自ら賢明な忠臣をみな陰険に排除しようとした井伊直弼から疑わしきを罰する不正な安政の大獄という大量粛清の疑獄を受けてしまい進退窮まり、遂に最後の手段である諫死を志し各々自主的にその一命を犠牲にも桜田門外の変という賊臣征伐を決行した水戸脱藩義士17名と薩摩脱藩義士1名をさも反乱者であるかの如く悪意を持って誤解し、或いはその『斬奸趣意書』に於ける報国心の真意を理解できずに平成の御代になっても風説の流布で死者に鞭打つ扱いでかの名誉を毀損するのみならず、第一の尊皇にして徳川幕府御三家の水戸へ冤罪をかけた討伐という名の濡れ衣の内容を放映させたNHK『八重の桜』作者の因業。
2013年2月9日
まっしろのそら
ぼくらはゆめみたいに
よいしゃかいをめにみていた
あるひそれはあんてんした
すこしずつよのなかはくらくなり
やがてさいあくのありさまになった
どうしてこんなにわるいのか
わからないほどひどいにんげんしゃかい
こどくのそこでおいつめられ
つねにしいたげてくるごくあくにんとあらそう
にほんとなづけられたよのなかは
ほかならずそんなせかいだった
いったいそんなしゃかいにどんな
ほんとうのじんせいがまっていたのかしるよしもない
だれでもこんなふうになるとはおもわなかった
はなれて
とじてしまった
しっかりしんじる
たしかだったもの
なにもない
まっしろのそら
のこっているつき
だれのためでもない
もうしるよしもない
わかっていることば
われらがのぞんでいた
まぎれないまこと
それでいいか
しるよしもない
よいしゃかいをめにみていた
あるひそれはあんてんした
すこしずつよのなかはくらくなり
やがてさいあくのありさまになった
どうしてこんなにわるいのか
わからないほどひどいにんげんしゃかい
こどくのそこでおいつめられ
つねにしいたげてくるごくあくにんとあらそう
にほんとなづけられたよのなかは
ほかならずそんなせかいだった
いったいそんなしゃかいにどんな
ほんとうのじんせいがまっていたのかしるよしもない
だれでもこんなふうになるとはおもわなかった
はなれて
とじてしまった
しっかりしんじる
たしかだったもの
なにもない
まっしろのそら
のこっているつき
だれのためでもない
もうしるよしもない
わかっていることば
われらがのぞんでいた
まぎれないまこと
それでいいか
しるよしもない
歴史学
井伊直弼が開国論者であるかの様な吹聴が彦根などによる陰謀な証拠は、幕末に生きた福沢諭吉による『福翁自伝』の「王政維新」に次の井伊直弼批判の記述がある事で分かる。
「或いは後年に至って大老井伊掃部頭は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとかいうようなことを、世間で吹聴する人もあれば書に著した者もあるが、開国主義なんて大嘘の皮、何が開国論なものか、存じ掛けもない話だ。(中略)井伊大老は真実間違いもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至っては、真闇な攘夷家と言うより外に評論はない。ただその徳川が開国であると言うのは、外国交際の衝に当たっているから余儀なくしぶしぶ開国論に従っていただけの話で、一幕捲って正味の楽屋を見たらば大変な攘夷藩だ。」
つまり、井伊直弼は当時から佐幕攘夷派であって、開国的であったかの如くの吹聴は明治維新後に悪意をもって創作された後世の風説であるといえる。
水戸藩並びに一足遅れて徳川幕府へ1858年9月14日(安政5年8月8日)に孝明天皇より下された『戊午の密勅』と同質の『戊午南呂初五密勅』という書状が1858年9月(安政5年8月)つまり同年同月に長州藩へ、かつ写しは関白以外の摂家を通じ朝廷から各大名にも下されている事から、井伊直弼の無勅許条約への批判が孝明天皇本人の憤りに発したものである、又は、その真意が武家相互への同士討ち誘発での政権奪取という日本史上お決まりの朝廷風の画策によるものである、と史学上に証明できよう。廷臣八十八卿列参事件を参考にすれば、そもそも尊皇水戸の意図如何に関わらず、孝明天皇側は幕府の日米修好通商条約締結へ断固反対の立場だったのである。そして水戸藩内では勅書返納問題つまり勅書を幕府へ返納するかどうかで紛糾が起きている通り、それは青天の霹靂であり何ら工作によるものではなかった。
対して井伊直弼は明らかに、尊皇水戸の藩主とその嫡子によって真に皇室を奉る意図から行われた征夷大将軍の職分にあった幕府の道に関する正直な抗議、諫言忠告を理解できず、井伊直弼譴責の書といえる戊午の密勅は現実には孝明天皇から直接複数、外様大名である長州藩をはじめとして関白以外の摂家を通じて各大名に下っているのに、さも水戸藩単独の朝廷工作による特別な下賜物であるという冤罪をかけていたのだ。所が、朝廷に足を向けて眠らない程天皇尊崇の念の厚かった為、孝明天皇に畏れ多くも意見などしようはずもない徳川斉昭は、幕政のみならず一国の危機とあっては慣例を省みず実力を元に継嗣を決めるべしと信じ公明正大に言行していたに過ぎなかった。官僚主義的な形式に凝り固まっていた上、心の狭く縮こまった井伊直弼はそれがさも外乱に乗じて慣例を破る政権のっとりかの様に勘ぐった。しかし、この時の井伊直弼による陰険な人間不信とまだ大老に突如就任して1年も経たない超初心者である幕政に於ける致命的な勘違いは、冤罪による死刑で多くの尊い忠君報国の志士の命を奪った。井伊直弼により永蟄居させられはしたが名下に虚士なく名君として智恵の高かった老公水戸斉昭が、御三家として約263年幕閣最上段の一角から見てきた政治におき当然その悲劇的な死の直前憂慮した予想の通りになった、虚礼将軍政権の見るに堪えない弱体化を、当時の初歩大老井伊直弼は全く予見できなかったのである。後にこの井伊直弼が単に慣例で立てた南紀派徳川家茂がたった20歳で、重大な内乱と外交問題の迫る最中に早世したのに対して、一橋派の徳川慶喜は幕末に於いて将軍後見職として数々の功績の後、慶応の改革で軍制を近代化した上、大政奉還の大業を成し遂げ江戸城無血開城により和を貴び、やがて明治天皇から貴族院議員として公爵に叙され徳川歴代将軍の中でも最長命の77歳まで生きながらえた。要するに、水戸尊皇派の宿願は叶い、外国による植民地化の脅威は諸侯により退けられて皇統が立てられ、現実に憂国の情のもとに徳川斉昭をはじめとした一橋派の予見した通り、年長で英明な上、外国からの内政干渉を避けるという程度に攘夷でありつつ新たに優れた近代文化を取り入れる知性をもった中庸的開国派の徳川慶喜が30歳で征夷の職責を奉還後、55歳で新たな政権へ参与する様政治は展開した。
一方で井伊直弼の次男直憲 は彦根藩で井伊家の家督を継ぎ、結局幕府を裏切り、幕府軍先鋒を勤めていたにも関わらず鳥羽伏見の戦いでは初発の大砲を幕府軍へ撃ち込んだ。つまり、井伊家の心魂は決して佐幕ではなかったのだ。歴史の中で原理的な機軸なく、譜代大名の強権を濫用して江戸幕府に於ける上位者である御三家の政権簒奪を企て、独裁者と化した大老井伊直弼の大弾圧がもたらした幕政内部の粛清と武士、侍への大迫害、そして後にその息子井伊直憲が率先して幕府を裏切った二度の逆賊の因業こそ、幕府倒壊の真因だったといえよう。この井伊家に於ける二重の裏切り、つまり先ず幕政の上座部への有無をいわさぬ独裁政による弾圧と部下らへの甚だしい粛清劇、次に幕府軍の最要職にあてられていながらあまつさえ自らの味方を迎撃するというあからさまな大逆は彦根藩井伊家が、幕末にあって決定的な謀反の系譜にある事をはっきり証左しているといえよう。
これら正反対の系譜、つまり徹底して忠義な常陸国(茨城県)水戸藩水戸徳川家並びに武蔵国(東京都)一橋徳川家、駿河国(静岡県)徳川慶喜家に対して、二度も大逆を犯している近江国(滋賀県)彦根藩井伊家が現存している事は歴史上に記録の価値がある。歴史家の眼は、因果の調べとして彼らの末路を見ていく必要があるだろう。大老井伊直弼の独断により無勅許条約で結ばれた各地開港に於ける拙速な関税の不平等問題は後々まで尾を引き、最終的改正は1911年(明治44)第2次桂内閣外務大臣小村壽太郎による関税自主権の完全回復までもちこされたが、井伊家が犯した歴史問題としての二度までの幕府の要職とその構成員への裏切りについては何ら解決されていないと見える。
かくして、大局観のない目先の暴政に於いて権力濫用の凄まじい弊害を示した安政の大獄は明らかに、徳なき暴君である大老井伊直弼がいわば幕政を崩壊させる第一歩として行った甚だしい疑獄による大量粛清事件だったと考えられる。
1858年3月19日(安政5年2月5日)老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るために上洛。
1858年4月25日(安政5年3月12日)廷臣八十八卿列参事件。
1858年5月3日(安政5年3月20日) 孝明天皇条約勅許を拒否。
1858年6月4日(安政5年4月23日)井伊直弼が大老就任。
1858年7月29日(安政5年6月19日)日米修好通商条約調印。
1858年8月2日(安政5年6月23日)堀田正睦、井伊直弼により老中を罷免される。徳川慶喜が井伊直弼に猛抗議。
1858年8月3日(安政5年6月24日)一橋派が一斉に不時登城で抗議。
1858年8月13日(安政5年7月5日)井伊直弼による一橋派への弾圧。
1858年9月14日(安政5年8月8日)戊午の密勅。
1858年10月11日(安政5年9月5日)安政の大獄。
1860年3月24日(安政7年3月3日)桜田門外の変。
孝明天皇による『戊午の密勅』と、桜田義士による『斬奸趣意書』をあわせれば、桜田門外の変は朝命を奉る御三家水戸に加えて尾張をあげての尊皇の説得に応じないばかりか疑獄での大量粛清、大冤罪事件を行った大老井伊直弼へ、正直な諫死を志した水戸藩義士17名と薩摩藩義士1名が脱藩して起こす事と相成った、朝命へ最終的に応える征伐事件である、といえる。
彦根はその後もこの明白な朝命とその配下から征伐を受けた史実の本質を理解せず、さも尊皇的な報国主義者の諫言を頑迷かの様に風説し、水戸と薩摩の脱藩士による諫死行動を、井伊直弼本人がおこなった弱腰外交のscapegoatにしていたわけだ。
或いは又、実際に1863年8月18日の政変は朝命であったにも関わらず、当時皇軍配下にあった京都守護職である会津藩を長州勢は朝敵と呼びつけ、scapegoatに仕立てている。実際にはこの時、孝明天皇を含む皇族や公卿、薩摩藩、京都所司代にあった京の淀藩など皇軍直属の京都守護職としての会津藩を入れて、幕府配下の諸藩が政変に参加しているにも関わらず、である。
この後、禁門の変により長州勢は薩賊会奸と述べ一層、責任転嫁が亢進する。所が、1863年8月18日の政変と禁門の変はどちらも孝明天皇の朝命の元忠実に行われたものなので、長州排除の最終責任者は必ずや急進派としての長州を疎んでいた孝明天皇なのである。
事前につくられた偽書『倒幕の偽勅』のシナリオにそった王政復古のクーデターによって、甚だしい冤罪と偽造の過酷処罰、つまりは疑獄にかけられた将軍徳川慶喜の無実を晴らす為、会津藩ほかが率先して戦った戊辰戦争、とりわけ会津戦争での薩摩藩や長州藩、土佐藩、肥前藩、芸州藩に加えて京の公卿などを主力とした新政府軍による悲惨で一方的な総攻撃による会津藩への賊軍扱いは、この朝命と配下を悪意をもって取り違えたおもとして長州勢による責任転嫁の産物であって、結局長州勢は孝明天皇に翻弄された仕返しをなぜか当時の最も尊皇的な忠臣へ苛烈なまでに加えてきているのである。或いはこの戊辰戦争の際、長州勢がのちに同盟を組む薩摩藩を除外し、鳥羽伏見の戦いに立った桑名藩をも賊軍とそう呼ぶ所を見て取れば、この新政府側の戊辰戦争観というものは倒幕論に傾いた武士らによる卑劣な責任転嫁の産物であり、本来の朝命に従った限りの行動をしている幕府へもなお忠誠的であった尊皇佐幕派が、なぜかその最大の標的になっているのである。いいかえれば、孝明天皇から下された勅命での長州征伐と攘夷褒勅というdouble bind状態に置かれた長州勢が、この複合観念を合理化する為に大君である尊皇将軍徳川慶喜や京都守護職の会津藩といった尊皇佐幕派というべきもともと最も忠臣とされ易く皇室から嘉されて当然な相手に矛先をむけかえたのが、長州藩をはじめとした新政府軍の嫉妬からくる反動形成であり且つ明治簒奪という謀略の内情なのだ。そしておそらく終局の目的が政権奪還だった孝明天皇と明治天皇に於けるそれぞれの年齢又は個性によるのだろう全くの態度の相違はなお武家を同士討ちさせて懐柔するという朝廷お決まりの方略には一貫しており、孝明天皇の不可解な夭逝とまだ15歳だった明治天皇の御前会議による忠臣懲罰決議という深刻で信じがたい錯誤と残虐によってさえ、やがて絶対君主として成った天皇睦仁の帝国主義の世界、明治時代を用意したのである。
この2つの日本史上、幕末に起きたscapegoat事件は井伊直弼と長州藩による深刻な読み違えであり、大量の死者含む犠牲を出した真に悲惨な冤罪事件なので、創作のない正史、確実な史実、まっとうな歴史学として明々白々に記録の価値がある。そしてどちらの濡れ衣にあたっても、表舞台の裏側には早く後白河法皇の時代に源義経を源頼朝へ討たせた史実がある通り、やまと朝廷が伝統的にもっている絶対主義統治の為の、朝命による同士討ち策謀があるのに注意が要る。日本の上にくりかえされたいわゆる源氏と平氏が表舞台に立った源平合戦のすべても、場合によっては初の大規模国外戦争の帰結として日本とアメリカが表舞台に立った太平洋戦争も、ここに含まれると考えていいだろう。桜田門外の変にあたっては水戸と彦根が表舞台に立ち、戊辰戦争にあたっては長州と会津が表舞台に立った。このどの場合にも、天皇は自らに嫌疑がかからない様に曖昧な態度を維持しながら取り巻く武人らをいわば駒として用いて裏から操り、相互に疑心暗鬼を生じさせるばかりか積極的に勅命を下して同士討ちさせており、総じて「夷を以て夷を伐つ」『後漢書』鄧寇列傳または王安石の「夷を以て夷を攻むる」『翰林侍讀學士知許州軍州事梅公神道碑』に示された様な、絶対主義的覇道を辿っているのである。そして形式的にか実質的にかに関わらずこの絶対主義統治のもとである限り、scapegoatとしての犠牲は賊軍とみなされ、天皇という覇道を重んじる人物の周辺者によって無実の者が謀議にかけられいわれのない攻撃を討伐という名義の元に受けるのだ。東京裁判に於いて天皇が持っていた軍部統帥権の責任をなすりつけられた東條英機が、あるいは現代に於いては法律とは関わりない単なる慣習としての宮内庁ルールを日本国憲法第7条国事行為の項目に基づいて公正に内閣の意向として一度例外化しようとしたばかりに疑獄にかけられそうになった小沢一郎氏がこれに該当するかもしれない。こうして隠された絶対主義としての天皇制は、現実的な日本社会に於ける権力の中にいまだに有効である事がみちびかれる。これら天皇制の悲劇と呼べる構造は、日本史の裏にある天皇原理主義的なscapegoat構造、いわば国家規模での餓鬼大将、いじめっ子、bullyである天皇とその周辺者による虐めの仕組みといえるであろう。
「或いは後年に至って大老井伊掃部頭は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとかいうようなことを、世間で吹聴する人もあれば書に著した者もあるが、開国主義なんて大嘘の皮、何が開国論なものか、存じ掛けもない話だ。(中略)井伊大老は真実間違いもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至っては、真闇な攘夷家と言うより外に評論はない。ただその徳川が開国であると言うのは、外国交際の衝に当たっているから余儀なくしぶしぶ開国論に従っていただけの話で、一幕捲って正味の楽屋を見たらば大変な攘夷藩だ。」
つまり、井伊直弼は当時から佐幕攘夷派であって、開国的であったかの如くの吹聴は明治維新後に悪意をもって創作された後世の風説であるといえる。
水戸藩並びに一足遅れて徳川幕府へ1858年9月14日(安政5年8月8日)に孝明天皇より下された『戊午の密勅』と同質の『戊午南呂初五密勅』という書状が1858年9月(安政5年8月)つまり同年同月に長州藩へ、かつ写しは関白以外の摂家を通じ朝廷から各大名にも下されている事から、井伊直弼の無勅許条約への批判が孝明天皇本人の憤りに発したものである、又は、その真意が武家相互への同士討ち誘発での政権奪取という日本史上お決まりの朝廷風の画策によるものである、と史学上に証明できよう。廷臣八十八卿列参事件を参考にすれば、そもそも尊皇水戸の意図如何に関わらず、孝明天皇側は幕府の日米修好通商条約締結へ断固反対の立場だったのである。そして水戸藩内では勅書返納問題つまり勅書を幕府へ返納するかどうかで紛糾が起きている通り、それは青天の霹靂であり何ら工作によるものではなかった。
対して井伊直弼は明らかに、尊皇水戸の藩主とその嫡子によって真に皇室を奉る意図から行われた征夷大将軍の職分にあった幕府の道に関する正直な抗議、諫言忠告を理解できず、井伊直弼譴責の書といえる戊午の密勅は現実には孝明天皇から直接複数、外様大名である長州藩をはじめとして関白以外の摂家を通じて各大名に下っているのに、さも水戸藩単独の朝廷工作による特別な下賜物であるという冤罪をかけていたのだ。所が、朝廷に足を向けて眠らない程天皇尊崇の念の厚かった為、孝明天皇に畏れ多くも意見などしようはずもない徳川斉昭は、幕政のみならず一国の危機とあっては慣例を省みず実力を元に継嗣を決めるべしと信じ公明正大に言行していたに過ぎなかった。官僚主義的な形式に凝り固まっていた上、心の狭く縮こまった井伊直弼はそれがさも外乱に乗じて慣例を破る政権のっとりかの様に勘ぐった。しかし、この時の井伊直弼による陰険な人間不信とまだ大老に突如就任して1年も経たない超初心者である幕政に於ける致命的な勘違いは、冤罪による死刑で多くの尊い忠君報国の志士の命を奪った。井伊直弼により永蟄居させられはしたが名下に虚士なく名君として智恵の高かった老公水戸斉昭が、御三家として約263年幕閣最上段の一角から見てきた政治におき当然その悲劇的な死の直前憂慮した予想の通りになった、虚礼将軍政権の見るに堪えない弱体化を、当時の初歩大老井伊直弼は全く予見できなかったのである。後にこの井伊直弼が単に慣例で立てた南紀派徳川家茂がたった20歳で、重大な内乱と外交問題の迫る最中に早世したのに対して、一橋派の徳川慶喜は幕末に於いて将軍後見職として数々の功績の後、慶応の改革で軍制を近代化した上、大政奉還の大業を成し遂げ江戸城無血開城により和を貴び、やがて明治天皇から貴族院議員として公爵に叙され徳川歴代将軍の中でも最長命の77歳まで生きながらえた。要するに、水戸尊皇派の宿願は叶い、外国による植民地化の脅威は諸侯により退けられて皇統が立てられ、現実に憂国の情のもとに徳川斉昭をはじめとした一橋派の予見した通り、年長で英明な上、外国からの内政干渉を避けるという程度に攘夷でありつつ新たに優れた近代文化を取り入れる知性をもった中庸的開国派の徳川慶喜が30歳で征夷の職責を奉還後、55歳で新たな政権へ参与する様政治は展開した。
一方で井伊直弼の次男
これら正反対の系譜、つまり徹底して忠義な常陸国(茨城県)水戸藩水戸徳川家並びに武蔵国(東京都)一橋徳川家、駿河国(静岡県)徳川慶喜家に対して、二度も大逆を犯している近江国(滋賀県)彦根藩井伊家が現存している事は歴史上に記録の価値がある。歴史家の眼は、因果の調べとして彼らの末路を見ていく必要があるだろう。大老井伊直弼の独断により無勅許条約で結ばれた各地開港に於ける拙速な関税の不平等問題は後々まで尾を引き、最終的改正は1911年(明治44)第2次桂内閣外務大臣小村壽太郎による関税自主権の完全回復までもちこされたが、井伊家が犯した歴史問題としての二度までの幕府の要職とその構成員への裏切りについては何ら解決されていないと見える。
かくして、大局観のない目先の暴政に於いて権力濫用の凄まじい弊害を示した安政の大獄は明らかに、徳なき暴君である大老井伊直弼がいわば幕政を崩壊させる第一歩として行った甚だしい疑獄による大量粛清事件だったと考えられる。
1858年3月19日(安政5年2月5日)老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るために上洛。
1858年4月25日(安政5年3月12日)廷臣八十八卿列参事件。
1858年5月3日(安政5年3月20日) 孝明天皇条約勅許を拒否。
1858年6月4日(安政5年4月23日)井伊直弼が大老就任。
1858年7月29日(安政5年6月19日)日米修好通商条約調印。
1858年8月2日(安政5年6月23日)堀田正睦、井伊直弼により老中を罷免される。徳川慶喜が井伊直弼に猛抗議。
1858年8月3日(安政5年6月24日)一橋派が一斉に不時登城で抗議。
1858年8月13日(安政5年7月5日)井伊直弼による一橋派への弾圧。
1858年9月14日(安政5年8月8日)戊午の密勅。
1858年10月11日(安政5年9月5日)安政の大獄。
1860年3月24日(安政7年3月3日)桜田門外の変。
孝明天皇による『戊午の密勅』と、桜田義士による『斬奸趣意書』をあわせれば、桜田門外の変は朝命を奉る御三家水戸に加えて尾張をあげての尊皇の説得に応じないばかりか疑獄での大量粛清、大冤罪事件を行った大老井伊直弼へ、正直な諫死を志した水戸藩義士17名と薩摩藩義士1名が脱藩して起こす事と相成った、朝命へ最終的に応える征伐事件である、といえる。
彦根はその後もこの明白な朝命とその配下から征伐を受けた史実の本質を理解せず、さも尊皇的な報国主義者の諫言を頑迷かの様に風説し、水戸と薩摩の脱藩士による諫死行動を、井伊直弼本人がおこなった弱腰外交のscapegoatにしていたわけだ。
或いは又、実際に1863年8月18日の政変は朝命であったにも関わらず、当時皇軍配下にあった京都守護職である会津藩を長州勢は朝敵と呼びつけ、scapegoatに仕立てている。実際にはこの時、孝明天皇を含む皇族や公卿、薩摩藩、京都所司代にあった京の淀藩など皇軍直属の京都守護職としての会津藩を入れて、幕府配下の諸藩が政変に参加しているにも関わらず、である。
この後、禁門の変により長州勢は薩賊会奸と述べ一層、責任転嫁が亢進する。所が、1863年8月18日の政変と禁門の変はどちらも孝明天皇の朝命の元忠実に行われたものなので、長州排除の最終責任者は必ずや急進派としての長州を疎んでいた孝明天皇なのである。
事前につくられた偽書『倒幕の偽勅』のシナリオにそった王政復古のクーデターによって、甚だしい冤罪と偽造の過酷処罰、つまりは疑獄にかけられた将軍徳川慶喜の無実を晴らす為、会津藩ほかが率先して戦った戊辰戦争、とりわけ会津戦争での薩摩藩や長州藩、土佐藩、肥前藩、芸州藩に加えて京の公卿などを主力とした新政府軍による悲惨で一方的な総攻撃による会津藩への賊軍扱いは、この朝命と配下を悪意をもって取り違えたおもとして長州勢による責任転嫁の産物であって、結局長州勢は孝明天皇に翻弄された仕返しをなぜか当時の最も尊皇的な忠臣へ苛烈なまでに加えてきているのである。或いはこの戊辰戦争の際、長州勢がのちに同盟を組む薩摩藩を除外し、鳥羽伏見の戦いに立った桑名藩をも賊軍とそう呼ぶ所を見て取れば、この新政府側の戊辰戦争観というものは倒幕論に傾いた武士らによる卑劣な責任転嫁の産物であり、本来の朝命に従った限りの行動をしている幕府へもなお忠誠的であった尊皇佐幕派が、なぜかその最大の標的になっているのである。いいかえれば、孝明天皇から下された勅命での長州征伐と攘夷褒勅というdouble bind状態に置かれた長州勢が、この複合観念を合理化する為に大君である尊皇将軍徳川慶喜や京都守護職の会津藩といった尊皇佐幕派というべきもともと最も忠臣とされ易く皇室から嘉されて当然な相手に矛先をむけかえたのが、長州藩をはじめとした新政府軍の嫉妬からくる反動形成であり且つ明治簒奪という謀略の内情なのだ。そしておそらく終局の目的が政権奪還だった孝明天皇と明治天皇に於けるそれぞれの年齢又は個性によるのだろう全くの態度の相違はなお武家を同士討ちさせて懐柔するという朝廷お決まりの方略には一貫しており、孝明天皇の不可解な夭逝とまだ15歳だった明治天皇の御前会議による忠臣懲罰決議という深刻で信じがたい錯誤と残虐によってさえ、やがて絶対君主として成った天皇睦仁の帝国主義の世界、明治時代を用意したのである。
この2つの日本史上、幕末に起きたscapegoat事件は井伊直弼と長州藩による深刻な読み違えであり、大量の死者含む犠牲を出した真に悲惨な冤罪事件なので、創作のない正史、確実な史実、まっとうな歴史学として明々白々に記録の価値がある。そしてどちらの濡れ衣にあたっても、表舞台の裏側には早く後白河法皇の時代に源義経を源頼朝へ討たせた史実がある通り、やまと朝廷が伝統的にもっている絶対主義統治の為の、朝命による同士討ち策謀があるのに注意が要る。日本の上にくりかえされたいわゆる源氏と平氏が表舞台に立った源平合戦のすべても、場合によっては初の大規模国外戦争の帰結として日本とアメリカが表舞台に立った太平洋戦争も、ここに含まれると考えていいだろう。桜田門外の変にあたっては水戸と彦根が表舞台に立ち、戊辰戦争にあたっては長州と会津が表舞台に立った。このどの場合にも、天皇は自らに嫌疑がかからない様に曖昧な態度を維持しながら取り巻く武人らをいわば駒として用いて裏から操り、相互に疑心暗鬼を生じさせるばかりか積極的に勅命を下して同士討ちさせており、総じて「夷を以て夷を伐つ」『後漢書』鄧寇列傳または王安石の「夷を以て夷を攻むる」『翰林侍讀學士知許州軍州事梅公神道碑』に示された様な、絶対主義的覇道を辿っているのである。そして形式的にか実質的にかに関わらずこの絶対主義統治のもとである限り、scapegoatとしての犠牲は賊軍とみなされ、天皇という覇道を重んじる人物の周辺者によって無実の者が謀議にかけられいわれのない攻撃を討伐という名義の元に受けるのだ。東京裁判に於いて天皇が持っていた軍部統帥権の責任をなすりつけられた東條英機が、あるいは現代に於いては法律とは関わりない単なる慣習としての宮内庁ルールを日本国憲法第7条国事行為の項目に基づいて公正に内閣の意向として一度例外化しようとしたばかりに疑獄にかけられそうになった小沢一郎氏がこれに該当するかもしれない。こうして隠された絶対主義としての天皇制は、現実的な日本社会に於ける権力の中にいまだに有効である事がみちびかれる。これら天皇制の悲劇と呼べる構造は、日本史の裏にある天皇原理主義的なscapegoat構造、いわば国家規模での餓鬼大将、いじめっ子、bullyである天皇とその周辺者による虐めの仕組みといえるであろう。
Humans and their sign
Human made their rules for their thinking way, to make signs. This is why we know our the thought to tell others. Word is sign for telling.
But, we thought that we are wonder over the world, what for existing. The intelligence or reasoning habit called word puzzle. Almost misleading by others we know as bad, or good moral ties on philosophy is made by creative permutation of language sign.
Regional understanding which in others did to be came historical war to mask someone, otherwise which be in different thoughts to use signs for themselves. This truth can become soul that is a religion on a regional understanding above the police.
We can realize that why we make nations, so we used to make another habits for communication, which is called philosophy. It is sign accident to change with once permutation by side of another metaphysics. A probability which shows learning skeleton, in simply skill, has known as science on the category. Systematic permutation ways are named science, but we are able to note that this is a regional religion bystander of learning sect at the philosophy. To change universe to change probability on a nature, it will had been seen as positivism on someone's university of philosophy. Because we would never do free something not to others we joined, as the one of human being. If it is not we are perfectly isolated being as social member.
Custom was made for this philosophical notification process. Of making national ways to communicate on their signs. Wide of ways is fundamental thesis under the country government. To know on word, this mission hold understanding difference, but to we are sank practice differance, all reading includes our the understanding custom. So we called this as hermeneutics. This is customization our the reading cost on its word meaning. To learn on sign was tremendous cost activity if it is not in philosophical habit as know as common sense. And this sense is dialect for philosophy, as like programming cord on sign computing.
To watch we are archive from architecture had to be made by national culture. So we will never unite. Because we change its habit of understanding, to talk or to perceive literally information always.
But, we thought that we are wonder over the world, what for existing. The intelligence or reasoning habit called word puzzle. Almost misleading by others we know as bad, or good moral ties on philosophy is made by creative permutation of language sign.
Regional understanding which in others did to be came historical war to mask someone, otherwise which be in different thoughts to use signs for themselves. This truth can become soul that is a religion on a regional understanding above the police.
We can realize that why we make nations, so we used to make another habits for communication, which is called philosophy. It is sign accident to change with once permutation by side of another metaphysics. A probability which shows learning skeleton, in simply skill, has known as science on the category. Systematic permutation ways are named science, but we are able to note that this is a regional religion bystander of learning sect at the philosophy. To change universe to change probability on a nature, it will had been seen as positivism on someone's university of philosophy. Because we would never do free something not to others we joined, as the one of human being. If it is not we are perfectly isolated being as social member.
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2013年2月8日
平山洋氏による歴史的冤罪について
『時事新報』発兌之趣旨
「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福沢小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば、大方の君子も此新聞を見て、果して我輩の持論如何を明知して、時としては高評を賜はることもあらん」
『続福沢全集』第5巻737頁
「私は明治十八年時事新報社に入り暫くの間は外国電報の翻訳等に従事してゐたが、同二十年頃から先生の指導の下に専ら社説を草することになつた。当時「時事新報」の社説は先生が自ら筆を執られ、或は時々記者に口授して起草せしめらるゝこともあつたが、其草稿は一々厳密なる修正添削を施された上、紙上に掲載せしめられた」
福沢諭吉の弟子をscapegoatにしようとする陰謀論者・平山洋氏には誤解のみならず、あきらかに責任転嫁をめざそうという悪意と謀略、ある思想家とその仕事にかかわる歴史的評価への偶像化的な不誠実がある。福沢は、岩倉使節団に付き添う世界旅行を経て早くも『学問のすすめ』無題遺稿(内に忍ぶ可の外は忍ぶ可らず)において既に旧套を脱するという意図での脱亜入欧に類した思想、乃ち対外的国権思想としての程度のつよいnationalismをもっている。かつ福沢自身の口述筆記を福沢が添削した『福翁自伝』において朝鮮人・中国人へ蔑視発言をし、日清戦争への歓喜もはっきり示している。なお福沢諭吉は『痩我慢の説』に見られる通り、平和主義者ではなく主戦論者だったのだ。これらをみれば、福沢諭吉が今日の意味でのhumanismに単純化できる平和主義的なmoralistではなかった事はあきらかだろう。同時代人としての岡倉天心『茶の本』での明白な反侵略主義の主張、はっきりした平和愛好の態度、強い人間主義的人権主張を対比させれば、この思想家としての全くの態度相違は如何としても否定しえない歴史上の事実とみるほかない。
福沢諭吉自身も自らの側近をscapegoat化しようとした可能性は全く考えられなくはない。危険な内容に変名や筆名も用いた福沢自身が『時事新報』上の匿名による発表を企図したとして致し方ない点、記名による責任なる近代の個人としての距離を保てなかったという当時の言論弾圧や讒謗律を含む社会情勢の両方をみても、師の身辺に関する忠実な記述者或いは伝道者として立つ石河幹明の思想的責任はみいだされない。平山洋氏の難癖は思想の主客を混同する暴論に等しいのであり、ある考えをもち新聞社をつくっていた主の責任をそこに長年従事し忠実に伝記しようと務めた客に転嫁する、全くお門違いの謬説というほかない。そもそも『福澤全集』と『続福澤全集』そして『福澤諭吉伝』の編纂事業は慶應義塾評議委員会からの信任のもと直接の依頼をうけた石河がおこなった以上は公然のものであって、何度も周囲からの公正な批評があったろうから事実に相反したいい加減な物を残し得ないばかりか、『時事新報』の各記事に至っては新聞社の主催としての福沢本人からの厚い信頼のもと委嘱を受け福沢自身を含み石河に限らない各記者が行っている限り、それらは新聞社とその出版関連事業一切の経営者でもある福沢諭吉のclient、主人としての責任なのだ(福沢工房説、福沢アトリエ説)。士分の端くれとしての根をもつ福沢諭吉自身が晩年に政府主導の国権論に偏り、民間人主導による民権論を時期尚早とみなし抑圧していったのも思想的展開としてみいだされてくる以上、福沢諭吉という一思想家の考え方には欧米思想の翻訳輸入者としてのある典型的な伝統アジア文明、とりわけ身分制度を伴った儒教社会への批判の念があるのは誰の目にも明らかなのである。この福沢の父を門閥制度に閉じ込め続けた親の仇(『福翁自伝』)を、いまだにまとい続けていた中国と朝鮮、そしてそこで旧態依然とくらす人への福沢諭吉による蔑視的な言動は、つまりここからうまれてきているのだ。
平山洋氏は慶応義塾にかかわった多少あれ学閥者として、事実上アジア蔑視論者として現実にあった福沢諭吉像を周囲の人物へ責任転嫁して、初代塾長の偶像性を高めようとしているに過ぎないと考えられる。そしてもし通らない道理によってそれ自体が目的な論争を繰り返す事での売名が目的ではないなら、その主張に関して全くのぬれぎぬをきせられた無実かつ先生と仰ぐ福沢諭吉へ生涯忠実な第一級の人士、石河幹明への名誉回復措置を、平山洋氏自身が生前に行うのが人間として当然の義務といわなければならない。平山洋氏が以前の説を漸く撤回するか、さもなければなんら故なき風説であり全くの陰謀であったと明々白々と学会や民間を問わない研究者諸氏、謬説から悪影響や誤解をうけた世間にもその悪疫が及ばぬ内に周知され、当の名誉毀損を招く誤った内容の書かれた風説書籍が自主的に差し止められあるいは市場から淘汰されるまでこの義理は免れないと思われる。
もし江戸時代から明治時代の思想上の流れをかえりみれば、寧ろ今日の平和主義に通じる専守防衛主義的だったのは、金甌無欠つまり一度も侵略を蒙らなかった日本国を神格化させる正当防衛論として水戸学の思潮を組む徳川御三家水戸藩出身者であったと次の事実から理解できよう。天狗党の蜂起が攘夷決行の促し乃ち今日でいう正当防衛行為を目的として出発している事、徳川家康以来、その鎖国経営による限定的で和平的な外交が大方針であった事。そしてこの源氏長者としての仕事は、秀吉の朝鮮出兵が失敗に終わった歴史を反例とした、光圀と朝鮮通信使の心のこもった往復書簡で有名な親善外交確立から一貫している事。李氏朝鮮国においても、なぜ日本の明治新政府からの使節が拒否にあったかは、この伝統的な徳川の和平外交とは異なる態度と形式でやってきた新参者で、なお且つ信用の置けないクーデターを起こして政権簒奪直後の外様社会を汲む、いわば徳や教養の低い暴威を含む薩長土肥京芸側の志士であったからなのだ。ふりかえれば当たり前かもしれないが、朝鮮半島の王朝とその人民からさえ、かれらのideologueとしての吉田松陰が晩年主張した東アジア殖民地主義の欺瞞が、明治政府の朝鮮外交においてもはじめから見抜かれていたのである。
この李氏朝鮮方の懸念は真実だった。征韓論を主張したのは薩摩の西郷隆盛と土佐の板垣退助、それを実行に移したのは薩長土肥京芸の明治政変において最終的実行支配者の地位に上り詰めた長州の伊藤博文だったからだ。こうして初代朝鮮総督府の初代総監伊藤博文が安重根によって、「長州藩の起こした一連の政変で、孝明天皇を弑逆した長州人の首魁」とみたてられ、大逆の名義で暗殺された。そしてこれが尊皇攘夷派の変節により、侵略を辞さない帝国主義者と化した長州閥がその外交関係の第一歩でまさに致命的な失政をしている紛れない史実なのだ。
当の儒教圏へ冷酷な福沢諭吉にとってさえ徳川将軍へあてられた直筆の建白として、攘夷行動への総合的批判は長州方の無政府主義に求められているのがその証拠になるだろう。
『福沢諭吉全集』20巻より福沢諭吉筆『長州再征に関する建白書』1866年
「諸侯の内、第一着に事を始め反賊の名を取り候者は長州にて、弥以て此の度御征罰相成り候儀は千古の一快事、此の一挙を以て恐れ乍ら御家の御中興も日を期し天下の為不幸の大幸、求めても得難き好機会に御座候。何卒、此の上は大英断の上にも御英断遊ばされ、唯一挙動にて御征服相成り、其の御威勢の余を以て他諸大名をも一時に御制圧遊ばされ、京師をも御取鎮に相成り、外国交際の事抔に就ては全日本国中の者、片言も口出し致さざる様仕り度き義に存じ奉り候」
『福翁自伝』の「攘夷論」(緒方先生の急病村田蔵六の変態の項)に、江戸時代当時の福沢による長州勢への侮辱的な表現での評がみられるとおり、長州内に吉田松陰によって作られた反政府的な東アジア殖民地侵略主義イデオロギーが長州勢に与えた暴挙に告ぐ暴挙という行動原則への反映を、福沢は無政府主義的な排外行動として否定的にみていたのがわかる。ここで攘夷という言葉は、天狗党に於ける指導理念の時代にそうだった様な元来の中国春秋時代の諸侯による共同防衛策からの引用としての水戸学の穏健な意味からはなれて、宇都宮黙霖からいざなわれた覇道批判の倒幕論が加わって吉田松陰の中で変質し、倒幕を前提にした尊皇論である絶対主義的な一君万民論となり当時に於ける急進的な無政府主義に近いものとして長州勢に使われていたのが分かる。福沢が『長州再征に関する建白書』では「反賊」や『福翁自伝』では「気違い共」と辛辣な言い方で長州を非難しているのは実は攘夷という言葉の持つ二重の意味の内長州版のもの、つまり元来の水戸版のもっていた母国防衛という素朴な意味とそれが吉田松陰によって事実上無政府原理化された長州版の侵略主義という二重性の内、長州版のそれに隠されていた長州勢の一時ならず持っていたこの無政府主義的な態度へであり、それが1864年禁門の変に於ける、御所周辺での戦争行為並びに御所への発砲事件となって結実した直後だったのである。
8月18日の政変で京都から排除された長州藩総出による矛先を京都守護職周辺へ向けかえた復讐を大義名分とした運動、長州藩主への処罰を朝議し承認した孝明天皇への雪冤征伐ともとれる暴力行動の理論的背景には、安政の大獄で既に死罪になっている吉田松陰のもちだした1つの無政府主義思想が浸透していた事が関係しているだろう。要するに、『幽収録』にみられる吉田松陰によって長州勢を鼓舞する事になった殖民地侵略的な無政府主義の意図少なくともその西洋文明へも構わない排外的な態度は、福沢諭吉『福翁自伝』の見解では「あきれ返った話(「王政維新」より)」であった。松陰の『留魂録』にも水戸の郷士堀江克之助や藩士鮎沢伊太夫の厚情へ感謝の念があらわされており、水戸の能文に期待し石河幹明含む記者候補を維新後選抜させた福沢諭吉のみならず長州勢にとってさえ、いわゆる水戸学派が育んだ原型的な報国主義、patriotismの世界観は決して対立するものではなかった。いわば水戸は当時の政治行動にあっても最も保守的で穏健主義の立場にあった事から、江戸幕府と明治新政府のどちらへも報国心の啓蒙者として精神的支柱を提供し続けていたといえるだろう。幕末当時、『福翁自伝』「攘夷論」(剣術の全盛)に家康公と水戸の老公が始終召していたとされる黄平と漆紋の羽織が、御家人旗本のみならず武家社会一面に間に流行していた、とある通りごく信頼は厚かった。
対して長州は下関戦争での敗戦後、1863年4月藩士5名をイギリスへ密航させる事で松陰の意図から反れて、専守防衛的な水戸版の攘夷論という統制原理を失い、福沢が江戸の緒方宅で見た通り村田蔵六(大村益次郎)が1863年7月(『福翁自伝』の述懐では6月)に呈していた様な不安定な無政府主義に陥り、膨張政策的かつ内戦的になる。1863年8月18日にはこういった急進的で乱暴な態度が響いたのだろう長州勢は朝命により京都から追放され、1864年11月には報復の意で禁門の変を起こし、朝命により幕府からの長州征伐が決定された。1864年第一次長州征伐が実行され、長州藩からの恭順の意が伝わり総督徳川慶勝により撤兵令が出される12月まで続く。所が、無政府的な状態になった長門に挙兵された奇兵隊らが長州藩の正規軍を倒し排除したのは同じ12月だった。1865年この現地の暴動を見て、前年の制裁で十分に鎮圧されなかったと見た幕府により第二次長州征伐が決定される。福沢が1866年『長州再征に関する建白書』を将軍へ示したのはこの長州勢の再三に渡る無政府主義的行動の背景があってであり、再征は1866年6月に決行される。尊皇論と公議主義を汲む徳川慶喜に交代された将軍職は1866年の9月に再征中止を決定。1866年12月に岩倉具視や伊藤博文による暗殺説が囁かれる様に、突如として孝明天皇が急死する。それにめげない将軍は1867年9月まで軍制改革を行い日本最大の西洋式軍事組織に近代化された軍備を持ち、暁の1867年10月、諸侯会議による政体を目指して大政奉還を行う。それを隙と見た岩倉具視と薩摩は1867年12月8日午後から9日の明け方にかけて王政復古のクーデターを起こす。岩倉具視や大久保利通らは1867年12月9日18時の小御所会議により徳川家の辞官納地を画策。こうして朝敵として孝明天皇の下では排斥されていた長州勢は薩長同盟という陰謀のもと息を吹き返し、吉田松陰直伝の東アジア殖民地侵略主義を旗印に、新政府軍に喜び勇んで参加。1868年1月の戊辰戦争へ、やがて琉球と北海道の割譲を含め朝鮮侵略へと進んでいくのである。過激な攘夷実行から極端な開国侵略へ、という急激な方針転換は政府による統制の意を解せず勝手に薩英戦争と下関戦争を起こしほぼ同様の路線を辿った薩摩藩と長州藩という、幕末の急進派の地方とその人々に起きた現象である。
これら1863年の下関戦争から1868年の戊辰戦争のあいだ数年で急速に起きた政変を見ても、急進派・過激派の薩摩と長州に比べ、保守派・穏健派である水戸が何ら積極的に関わっていない事がはっきりしている。つまり、水戸に於いては国内秩序の維持がその政治の目的だったのだ。これら御所周辺での政変での間、1864年5月に藩内の報国主義的な尊攘理念を幕府と朝廷へ伝える目的の自主組織から決起された天狗党が無断の武力組織と幕府にみなされて1865年3月に鎮圧処刑されるが、これさえ単に幕府への説得が目的だったので、素直に水戸出身者である徳川慶喜率いる幕府軍へ投降している。こういった性質差が背景にあって、当時の世相にあっても尊皇攘夷論や大義名分論をはじめ皇室並びに幕府補佐が明らかに意図された保守言論の発信地でもあったにも関わらず、伝統を通じて文を好み学者気質的な水戸社会や、その出身者に福沢諭吉はむしろ好感やある敬意をもって現に接していたのだろう。『福翁自伝』に水戸斉昭を老公として天下第一の人物と思っていたと述べられている事(「幼少の時」)、その水戸出身者である最後の将軍へ旧幕臣として親しみを込めているのだろう「慶喜さん」と呼んでいる事(「王政維新」)が読み取れる。又創刊を企図していた『時事新報』に能文者を嘱望し記者の素質を期待してわざわざ呼び寄せた水戸出身の塾生をのち主筆に冠し、彼らの一員の任意退社に際して福沢は復帰を熱望しているのからも事情が知れる(慶応義塾大学出版会のウェブでしか読めないオリジナル連載(2007年1月31日掲載)『時事新報史』第12回:水戸出身記者の入社、都倉武之(慶應義塾大学専任講師)より)。
平山洋氏のもっている水戸学派への根本的な謀反は、以上の論拠をもとに福沢諭吉からその愛弟子である水戸出身石河幹明へのscapegoting、責任転嫁を目当てとした現代の風説流布が目的であり、何ら江戸時代末期から明治時代に渡る第一級の志士を含んだ人々の意見の反映でないばかりか、福沢諭吉自身は中津藩士や旗本の職にある幕臣として寧ろ長州版の無政府主義否定論者であって、かつ福沢の持つ能力遺伝論から学者の遺伝子poolである地を買って水戸から石河幹明ら若い学生を慶応義塾へ招かせた様に吉田松陰と変わらず親水戸派であったと分かる。この吉田と福沢という幕末に存在したごく有名な思想家に共通して見られるのは、水戸の好学・好文的な文化とその徳を尊重する態度である。平山洋氏が犠牲に仕立てようとしている当の石河幹明が長らく『時事新報』の主筆になり、詳細かつ大著でもあって誠意と情熱がなければ到底なしえない伝記や全集を含む福沢関連文献を高齢の辛苦をおして物した通り、この福沢と松陰が水戸藩の人へ共にみている能、2代藩主徳川光圀や9代藩主徳川斉昭と藩校弘道館により藩内に擁立された哲学の語源にある益友の内容としての友情、いわゆるphiliaの質は確かだった。そして逆に、悪友とみなされた朝鮮と中国及びその人民へ向けての東アジア蔑視や欧米への親和が記されている懸案の『脱亜論』については、1885年(明治18年)5月から時事新報社に勤務した当時26歳の慶応義塾生石河幹明が、1885年(明治18年)3月16日『時事新報』上の社説に掲載された『脱亜論』に関われる筈がない事から、石河幹明が関与しておらず或いは仕様もなく、明らかに当時50歳の福沢諭吉本人か、又は石河幹明がその約2か月後に入る前の福沢アトリエによるものであると理解できる。ここから、水戸学のもっている報国主義と、吉田松陰が江戸の獄中から郷里へ送った『幽囚録』に影響を受けた長州勢の持つ事になった東アジア殖民地侵略主義をとりちがえて、前者を後者の論拠で誤って攻撃、しかも間接的な風説流布と死者への冤罪というまこと卑劣千万な手段で名誉毀損しているのが平山洋氏という勘違い甚だしい一著者であるのが証明された事になるであろう。
平山洋氏は吉田松陰とも福沢諭吉とも違って、江戸時代から幕末にかけて報国主義、patriotismを主張した水戸学派への勘違いか悪意をもって、卑怯にも福沢諭吉の愛弟子へ福沢諭吉の著述に於ける現状とそぐわなくなった汚点ともいえる側面をおしつけようとするscapegoat論者、風説流布者、物言わぬ死者に鞭打つ卑劣で陰険な名誉毀損者であるのが分かる。平山洋氏はかくして、謬説により貶めた石河幹明の御霊への深く徹底した謝罪のみがその冤罪行為の業を雪ぐ唯一の道になるのである。塾生を重んじた福沢諭吉先生の真意を歪め、彼の大事な愛弟子へ福沢自身の犯した罪の責任を押し付けるという事は、福沢諭吉自身の霊が第一に恥とする所なのは彼の信じた独立自尊の精神から明らかである。『脱亜論』、いわゆる脱亜入欧を述べて今日からみれば東アジアにある日本、中国、韓国という三国の中で日本の孤立主義を指導する主張と読めるこの文章に於いて、福沢諭吉筆になる又は彼の新聞社許可になる各論に万が一にも朝鮮や中国への失礼や誤解があったなら、それを書ける筈もない愛弟子がかばったり誰か心無い後世の人の風説によって第三者がかばわせられるのではなく、独立自尊を信じ蔭弁慶の筆を憎んだ福沢諭吉の魂、その精神自身が遠からず責めを負う筈なのである。
「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福沢小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば、大方の君子も此新聞を見て、果して我輩の持論如何を明知して、時としては高評を賜はることもあらん」
『続福沢全集』第5巻737頁
「私は明治十八年時事新報社に入り暫くの間は外国電報の翻訳等に従事してゐたが、同二十年頃から先生の指導の下に専ら社説を草することになつた。当時「時事新報」の社説は先生が自ら筆を執られ、或は時々記者に口授して起草せしめらるゝこともあつたが、其草稿は一々厳密なる修正添削を施された上、紙上に掲載せしめられた」
福沢諭吉の弟子をscapegoatにしようとする陰謀論者・平山洋氏には誤解のみならず、あきらかに責任転嫁をめざそうという悪意と謀略、ある思想家とその仕事にかかわる歴史的評価への偶像化的な不誠実がある。福沢は、岩倉使節団に付き添う世界旅行を経て早くも『学問のすすめ』無題遺稿(内に忍ぶ可の外は忍ぶ可らず)において既に旧套を脱するという意図での脱亜入欧に類した思想、乃ち対外的国権思想としての程度のつよいnationalismをもっている。かつ福沢自身の口述筆記を福沢が添削した『福翁自伝』において朝鮮人・中国人へ蔑視発言をし、日清戦争への歓喜もはっきり示している。なお福沢諭吉は『痩我慢の説』に見られる通り、平和主義者ではなく主戦論者だったのだ。これらをみれば、福沢諭吉が今日の意味でのhumanismに単純化できる平和主義的なmoralistではなかった事はあきらかだろう。同時代人としての岡倉天心『茶の本』での明白な反侵略主義の主張、はっきりした平和愛好の態度、強い人間主義的人権主張を対比させれば、この思想家としての全くの態度相違は如何としても否定しえない歴史上の事実とみるほかない。
福沢諭吉自身も自らの側近をscapegoat化しようとした可能性は全く考えられなくはない。危険な内容に変名や筆名も用いた福沢自身が『時事新報』上の匿名による発表を企図したとして致し方ない点、記名による責任なる近代の個人としての距離を保てなかったという当時の言論弾圧や讒謗律を含む社会情勢の両方をみても、師の身辺に関する忠実な記述者或いは伝道者として立つ石河幹明の思想的責任はみいだされない。平山洋氏の難癖は思想の主客を混同する暴論に等しいのであり、ある考えをもち新聞社をつくっていた主の責任をそこに長年従事し忠実に伝記しようと務めた客に転嫁する、全くお門違いの謬説というほかない。そもそも『福澤全集』と『続福澤全集』そして『福澤諭吉伝』の編纂事業は慶應義塾評議委員会からの信任のもと直接の依頼をうけた石河がおこなった以上は公然のものであって、何度も周囲からの公正な批評があったろうから事実に相反したいい加減な物を残し得ないばかりか、『時事新報』の各記事に至っては新聞社の主催としての福沢本人からの厚い信頼のもと委嘱を受け福沢自身を含み石河に限らない各記者が行っている限り、それらは新聞社とその出版関連事業一切の経営者でもある福沢諭吉のclient、主人としての責任なのだ(福沢工房説、福沢アトリエ説)。士分の端くれとしての根をもつ福沢諭吉自身が晩年に政府主導の国権論に偏り、民間人主導による民権論を時期尚早とみなし抑圧していったのも思想的展開としてみいだされてくる以上、福沢諭吉という一思想家の考え方には欧米思想の翻訳輸入者としてのある典型的な伝統アジア文明、とりわけ身分制度を伴った儒教社会への批判の念があるのは誰の目にも明らかなのである。この福沢の父を門閥制度に閉じ込め続けた親の仇(『福翁自伝』)を、いまだにまとい続けていた中国と朝鮮、そしてそこで旧態依然とくらす人への福沢諭吉による蔑視的な言動は、つまりここからうまれてきているのだ。
平山洋氏は慶応義塾にかかわった多少あれ学閥者として、事実上アジア蔑視論者として現実にあった福沢諭吉像を周囲の人物へ責任転嫁して、初代塾長の偶像性を高めようとしているに過ぎないと考えられる。そしてもし通らない道理によってそれ自体が目的な論争を繰り返す事での売名が目的ではないなら、その主張に関して全くのぬれぎぬをきせられた無実かつ先生と仰ぐ福沢諭吉へ生涯忠実な第一級の人士、石河幹明への名誉回復措置を、平山洋氏自身が生前に行うのが人間として当然の義務といわなければならない。平山洋氏が以前の説を漸く撤回するか、さもなければなんら故なき風説であり全くの陰謀であったと明々白々と学会や民間を問わない研究者諸氏、謬説から悪影響や誤解をうけた世間にもその悪疫が及ばぬ内に周知され、当の名誉毀損を招く誤った内容の書かれた風説書籍が自主的に差し止められあるいは市場から淘汰されるまでこの義理は免れないと思われる。
もし江戸時代から明治時代の思想上の流れをかえりみれば、寧ろ今日の平和主義に通じる専守防衛主義的だったのは、金甌無欠つまり一度も侵略を蒙らなかった日本国を神格化させる正当防衛論として水戸学の思潮を組む徳川御三家水戸藩出身者であったと次の事実から理解できよう。天狗党の蜂起が攘夷決行の促し乃ち今日でいう正当防衛行為を目的として出発している事、徳川家康以来、その鎖国経営による限定的で和平的な外交が大方針であった事。そしてこの源氏長者としての仕事は、秀吉の朝鮮出兵が失敗に終わった歴史を反例とした、光圀と朝鮮通信使の心のこもった往復書簡で有名な親善外交確立から一貫している事。李氏朝鮮国においても、なぜ日本の明治新政府からの使節が拒否にあったかは、この伝統的な徳川の和平外交とは異なる態度と形式でやってきた新参者で、なお且つ信用の置けないクーデターを起こして政権簒奪直後の外様社会を汲む、いわば徳や教養の低い暴威を含む薩長土肥京芸側の志士であったからなのだ。ふりかえれば当たり前かもしれないが、朝鮮半島の王朝とその人民からさえ、かれらのideologueとしての吉田松陰が晩年主張した東アジア殖民地主義の欺瞞が、明治政府の朝鮮外交においてもはじめから見抜かれていたのである。
この李氏朝鮮方の懸念は真実だった。征韓論を主張したのは薩摩の西郷隆盛と土佐の板垣退助、それを実行に移したのは薩長土肥京芸の明治政変において最終的実行支配者の地位に上り詰めた長州の伊藤博文だったからだ。こうして初代朝鮮総督府の初代総監伊藤博文が安重根によって、「長州藩の起こした一連の政変で、孝明天皇を弑逆した長州人の首魁」とみたてられ、大逆の名義で暗殺された。そしてこれが尊皇攘夷派の変節により、侵略を辞さない帝国主義者と化した長州閥がその外交関係の第一歩でまさに致命的な失政をしている紛れない史実なのだ。
当の儒教圏へ冷酷な福沢諭吉にとってさえ徳川将軍へあてられた直筆の建白として、攘夷行動への総合的批判は長州方の無政府主義に求められているのがその証拠になるだろう。
『福沢諭吉全集』20巻より福沢諭吉筆『長州再征に関する建白書』1866年
「諸侯の内、第一着に事を始め反賊の名を取り候者は長州にて、弥以て此の度御征罰相成り候儀は千古の一快事、此の一挙を以て恐れ乍ら御家の御中興も日を期し天下の為不幸の大幸、求めても得難き好機会に御座候。何卒、此の上は大英断の上にも御英断遊ばされ、唯一挙動にて御征服相成り、其の御威勢の余を以て他諸大名をも一時に御制圧遊ばされ、京師をも御取鎮に相成り、外国交際の事抔に就ては全日本国中の者、片言も口出し致さざる様仕り度き義に存じ奉り候」
『福翁自伝』の「攘夷論」(緒方先生の急病村田蔵六の変態の項)に、江戸時代当時の福沢による長州勢への侮辱的な表現での評がみられるとおり、長州内に吉田松陰によって作られた反政府的な東アジア殖民地侵略主義イデオロギーが長州勢に与えた暴挙に告ぐ暴挙という行動原則への反映を、福沢は無政府主義的な排外行動として否定的にみていたのがわかる。ここで攘夷という言葉は、天狗党に於ける指導理念の時代にそうだった様な元来の中国春秋時代の諸侯による共同防衛策からの引用としての水戸学の穏健な意味からはなれて、宇都宮黙霖からいざなわれた覇道批判の倒幕論が加わって吉田松陰の中で変質し、倒幕を前提にした尊皇論である絶対主義的な一君万民論となり当時に於ける急進的な無政府主義に近いものとして長州勢に使われていたのが分かる。福沢が『長州再征に関する建白書』では「反賊」や『福翁自伝』では「気違い共」と辛辣な言い方で長州を非難しているのは実は攘夷という言葉の持つ二重の意味の内長州版のもの、つまり元来の水戸版のもっていた母国防衛という素朴な意味とそれが吉田松陰によって事実上無政府原理化された長州版の侵略主義という二重性の内、長州版のそれに隠されていた長州勢の一時ならず持っていたこの無政府主義的な態度へであり、それが1864年禁門の変に於ける、御所周辺での戦争行為並びに御所への発砲事件となって結実した直後だったのである。
8月18日の政変で京都から排除された長州藩総出による矛先を京都守護職周辺へ向けかえた復讐を大義名分とした運動、長州藩主への処罰を朝議し承認した孝明天皇への雪冤征伐ともとれる暴力行動の理論的背景には、安政の大獄で既に死罪になっている吉田松陰のもちだした1つの無政府主義思想が浸透していた事が関係しているだろう。要するに、『幽収録』にみられる吉田松陰によって長州勢を鼓舞する事になった殖民地侵略的な無政府主義の意図少なくともその西洋文明へも構わない排外的な態度は、福沢諭吉『福翁自伝』の見解では「あきれ返った話(「王政維新」より)」であった。松陰の『留魂録』にも水戸の郷士堀江克之助や藩士鮎沢伊太夫の厚情へ感謝の念があらわされており、水戸の能文に期待し石河幹明含む記者候補を維新後選抜させた福沢諭吉のみならず長州勢にとってさえ、いわゆる水戸学派が育んだ原型的な報国主義、patriotismの世界観は決して対立するものではなかった。いわば水戸は当時の政治行動にあっても最も保守的で穏健主義の立場にあった事から、江戸幕府と明治新政府のどちらへも報国心の啓蒙者として精神的支柱を提供し続けていたといえるだろう。幕末当時、『福翁自伝』「攘夷論」(剣術の全盛)に家康公と水戸の老公が始終召していたとされる黄平と漆紋の羽織が、御家人旗本のみならず武家社会一面に間に流行していた、とある通りごく信頼は厚かった。
対して長州は下関戦争での敗戦後、1863年4月藩士5名をイギリスへ密航させる事で松陰の意図から反れて、専守防衛的な水戸版の攘夷論という統制原理を失い、福沢が江戸の緒方宅で見た通り村田蔵六(大村益次郎)が1863年7月(『福翁自伝』の述懐では6月)に呈していた様な不安定な無政府主義に陥り、膨張政策的かつ内戦的になる。1863年8月18日にはこういった急進的で乱暴な態度が響いたのだろう長州勢は朝命により京都から追放され、1864年11月には報復の意で禁門の変を起こし、朝命により幕府からの長州征伐が決定された。1864年第一次長州征伐が実行され、長州藩からの恭順の意が伝わり総督徳川慶勝により撤兵令が出される12月まで続く。所が、無政府的な状態になった長門に挙兵された奇兵隊らが長州藩の正規軍を倒し排除したのは同じ12月だった。1865年この現地の暴動を見て、前年の制裁で十分に鎮圧されなかったと見た幕府により第二次長州征伐が決定される。福沢が1866年『長州再征に関する建白書』を将軍へ示したのはこの長州勢の再三に渡る無政府主義的行動の背景があってであり、再征は1866年6月に決行される。尊皇論と公議主義を汲む徳川慶喜に交代された将軍職は1866年の9月に再征中止を決定。1866年12月に岩倉具視や伊藤博文による暗殺説が囁かれる様に、突如として孝明天皇が急死する。それにめげない将軍は1867年9月まで軍制改革を行い日本最大の西洋式軍事組織に近代化された軍備を持ち、暁の1867年10月、諸侯会議による政体を目指して大政奉還を行う。それを隙と見た岩倉具視と薩摩は1867年12月8日午後から9日の明け方にかけて王政復古のクーデターを起こす。岩倉具視や大久保利通らは1867年12月9日18時の小御所会議により徳川家の辞官納地を画策。こうして朝敵として孝明天皇の下では排斥されていた長州勢は薩長同盟という陰謀のもと息を吹き返し、吉田松陰直伝の東アジア殖民地侵略主義を旗印に、新政府軍に喜び勇んで参加。1868年1月の戊辰戦争へ、やがて琉球と北海道の割譲を含め朝鮮侵略へと進んでいくのである。過激な攘夷実行から極端な開国侵略へ、という急激な方針転換は政府による統制の意を解せず勝手に薩英戦争と下関戦争を起こしほぼ同様の路線を辿った薩摩藩と長州藩という、幕末の急進派の地方とその人々に起きた現象である。
これら1863年の下関戦争から1868年の戊辰戦争のあいだ数年で急速に起きた政変を見ても、急進派・過激派の薩摩と長州に比べ、保守派・穏健派である水戸が何ら積極的に関わっていない事がはっきりしている。つまり、水戸に於いては国内秩序の維持がその政治の目的だったのだ。これら御所周辺での政変での間、1864年5月に藩内の報国主義的な尊攘理念を幕府と朝廷へ伝える目的の自主組織から決起された天狗党が無断の武力組織と幕府にみなされて1865年3月に鎮圧処刑されるが、これさえ単に幕府への説得が目的だったので、素直に水戸出身者である徳川慶喜率いる幕府軍へ投降している。こういった性質差が背景にあって、当時の世相にあっても尊皇攘夷論や大義名分論をはじめ皇室並びに幕府補佐が明らかに意図された保守言論の発信地でもあったにも関わらず、伝統を通じて文を好み学者気質的な水戸社会や、その出身者に福沢諭吉はむしろ好感やある敬意をもって現に接していたのだろう。『福翁自伝』に水戸斉昭を老公として天下第一の人物と思っていたと述べられている事(「幼少の時」)、その水戸出身者である最後の将軍へ旧幕臣として親しみを込めているのだろう「慶喜さん」と呼んでいる事(「王政維新」)が読み取れる。又創刊を企図していた『時事新報』に能文者を嘱望し記者の素質を期待してわざわざ呼び寄せた水戸出身の塾生をのち主筆に冠し、彼らの一員の任意退社に際して福沢は復帰を熱望しているのからも事情が知れる(慶応義塾大学出版会のウェブでしか読めないオリジナル連載(2007年1月31日掲載)『時事新報史』第12回:水戸出身記者の入社、都倉武之(慶應義塾大学専任講師)より)。
平山洋氏のもっている水戸学派への根本的な謀反は、以上の論拠をもとに福沢諭吉からその愛弟子である水戸出身石河幹明へのscapegoting、責任転嫁を目当てとした現代の風説流布が目的であり、何ら江戸時代末期から明治時代に渡る第一級の志士を含んだ人々の意見の反映でないばかりか、福沢諭吉自身は中津藩士や旗本の職にある幕臣として寧ろ長州版の無政府主義否定論者であって、かつ福沢の持つ能力遺伝論から学者の遺伝子poolである地を買って水戸から石河幹明ら若い学生を慶応義塾へ招かせた様に吉田松陰と変わらず親水戸派であったと分かる。この吉田と福沢という幕末に存在したごく有名な思想家に共通して見られるのは、水戸の好学・好文的な文化とその徳を尊重する態度である。平山洋氏が犠牲に仕立てようとしている当の石河幹明が長らく『時事新報』の主筆になり、詳細かつ大著でもあって誠意と情熱がなければ到底なしえない伝記や全集を含む福沢関連文献を高齢の辛苦をおして物した通り、この福沢と松陰が水戸藩の人へ共にみている能、2代藩主徳川光圀や9代藩主徳川斉昭と藩校弘道館により藩内に擁立された哲学の語源にある益友の内容としての友情、いわゆるphiliaの質は確かだった。そして逆に、悪友とみなされた朝鮮と中国及びその人民へ向けての東アジア蔑視や欧米への親和が記されている懸案の『脱亜論』については、1885年(明治18年)5月から時事新報社に勤務した当時26歳の慶応義塾生石河幹明が、1885年(明治18年)3月16日『時事新報』上の社説に掲載された『脱亜論』に関われる筈がない事から、石河幹明が関与しておらず或いは仕様もなく、明らかに当時50歳の福沢諭吉本人か、又は石河幹明がその約2か月後に入る前の福沢アトリエによるものであると理解できる。ここから、水戸学のもっている報国主義と、吉田松陰が江戸の獄中から郷里へ送った『幽囚録』に影響を受けた長州勢の持つ事になった東アジア殖民地侵略主義をとりちがえて、前者を後者の論拠で誤って攻撃、しかも間接的な風説流布と死者への冤罪というまこと卑劣千万な手段で名誉毀損しているのが平山洋氏という勘違い甚だしい一著者であるのが証明された事になるであろう。
平山洋氏は吉田松陰とも福沢諭吉とも違って、江戸時代から幕末にかけて報国主義、patriotismを主張した水戸学派への勘違いか悪意をもって、卑怯にも福沢諭吉の愛弟子へ福沢諭吉の著述に於ける現状とそぐわなくなった汚点ともいえる側面をおしつけようとするscapegoat論者、風説流布者、物言わぬ死者に鞭打つ卑劣で陰険な名誉毀損者であるのが分かる。平山洋氏はかくして、謬説により貶めた石河幹明の御霊への深く徹底した謝罪のみがその冤罪行為の業を雪ぐ唯一の道になるのである。塾生を重んじた福沢諭吉先生の真意を歪め、彼の大事な愛弟子へ福沢自身の犯した罪の責任を押し付けるという事は、福沢諭吉自身の霊が第一に恥とする所なのは彼の信じた独立自尊の精神から明らかである。『脱亜論』、いわゆる脱亜入欧を述べて今日からみれば東アジアにある日本、中国、韓国という三国の中で日本の孤立主義を指導する主張と読めるこの文章に於いて、福沢諭吉筆になる又は彼の新聞社許可になる各論に万が一にも朝鮮や中国への失礼や誤解があったなら、それを書ける筈もない愛弟子がかばったり誰か心無い後世の人の風説によって第三者がかばわせられるのではなく、独立自尊を信じ蔭弁慶の筆を憎んだ福沢諭吉の魂、その精神自身が遠からず責めを負う筈なのである。
2013年2月7日
商業文明の全体性
反商業主義は確実に、個人主義の第一歩になるだろう。商業は利益bulgeへ全て民衆を群衆化に結びたがる。この思想は総じて、ベンサムを起源とした快楽計算的な量的最適社会構想を否定する所から始まる。中産集団の中にも商業的群衆化を是とする価値判断の原理が生じ易い以上、中流的な消極さが最も誤り難いという民衆政の公理も否定される。
原理主義が反商業主義の中に入っている事で、それが商業集団に不都合とみなされているとすれば正にこれこそが宗教のはじまりだった。宗教は反商業的な調整の役に寄与し易く、多くの政治行為にとって理論背景を提供してきた。商業文明は全て、中産集団の功利主義によって群衆化をもたらす悪い体制。こういった集団から離れて、本来の社会性をとりもどすにはベンサムの快楽計算から外に出る必要がある。
計量できる快苦という考えは、金銭で代替される資本に価値を一元化させてしまい、人々を統一した趣味に染めてしまう。趣味は自体が道徳だから、結局快楽計算は全体主義のはじまりだった。
原理主義が反商業主義の中に入っている事で、それが商業集団に不都合とみなされているとすれば正にこれこそが宗教のはじまりだった。宗教は反商業的な調整の役に寄与し易く、多くの政治行為にとって理論背景を提供してきた。商業文明は全て、中産集団の功利主義によって群衆化をもたらす悪い体制。こういった集団から離れて、本来の社会性をとりもどすにはベンサムの快楽計算から外に出る必要がある。
計量できる快苦という考えは、金銭で代替される資本に価値を一元化させてしまい、人々を統一した趣味に染めてしまう。趣味は自体が道徳だから、結局快楽計算は全体主義のはじまりだった。
群衆化の商業社会
日本人の悪質さは、彼らが群衆による行いを正義や公正より優先させているという全体主義にある。この悪質な群れは特に、大阪や東京をはじめとする大商業地の共同体文化で生じやすい。こういった群れは群衆化が彼らの利益になりえるという条件をより所に、暴走してできている。
人々はこの群衆化から悪い結果を常にうけている。かれら群衆がいう「空気を読め」、という命令は束を単にそれだけの為つくりたがる群衆化を意味していて、少数派を弾圧する。且つ、不法行為や犯罪すら群衆による事で正当化したがる。メディアスクラムによるいじめ、匿名掲示板やソーシャルネットワークサービスでのなりすましや名誉毀損等は彼らが善悪をかえりみない群衆化の一員と示す。
我らはこの群衆化の運動から身を退ける智恵を必要としている。そしてそれができなければ日本人は全体主義の軍国時代より一歩も進歩できなかった証拠であり、結末は日本人全員という単位での甚だしく、致命的な失敗になるだろう。
人々はこの群衆化から悪い結果を常にうけている。かれら群衆がいう「空気を読め」、という命令は束を単にそれだけの為つくりたがる群衆化を意味していて、少数派を弾圧する。且つ、不法行為や犯罪すら群衆による事で正当化したがる。メディアスクラムによるいじめ、匿名掲示板やソーシャルネットワークサービスでのなりすましや名誉毀損等は彼らが善悪をかえりみない群衆化の一員と示す。
我らはこの群衆化の運動から身を退ける智恵を必要としている。そしてそれができなければ日本人は全体主義の軍国時代より一歩も進歩できなかった証拠であり、結末は日本人全員という単位での甚だしく、致命的な失敗になるだろう。
Mobocratic Japanese media scrum
People of Kansai, Tokyo do false accusation. They damaged me too, on web masquerade at 2ch BBS. And they never do introspection to apologize, people like them, is criminal multitude.
For example, famous efficient politician Ichiro Ozawa was made false accusation by mass media. This bully way's media cartel may be called a thing as Kisha-club which is exclusive journalist's group-capital.
This coward crowd makes bad reputation day by day on the Japanese media culture, but I never know as one of common sensible Japanese that why they do it for themselves as miserable character.
For example, famous efficient politician Ichiro Ozawa was made false accusation by mass media. This bully way's media cartel may be called a thing as Kisha-club which is exclusive journalist's group-capital.
This coward crowd makes bad reputation day by day on the Japanese media culture, but I never know as one of common sensible Japanese that why they do it for themselves as miserable character.
2013年2月6日
社会学
搾取という取引差額の差引きは、一つの人類が持つ事になった悪癖であり、それはありとあらゆる害他的悪習の起源にもなっている。この仕業は、故事に壟断の語がある通り品物の偏りを利用したある取引業者らによって始まり、やがて商いと呼ばれ取引慣行一般に広まった。この風習から徴税役人が市場間の富の偏りを調整する為生じ、やがて支配的な政権を持ち、巨大な場合は帝国となった。
ところがこの帝国は慣習により、徴税からの利権、権益の独占を愛し、領土拡大の意思をもった。世界は幾度となく帝国拡大の役により、悲惨な戦争をくりかえした。搾取の業はこうして生産量の起源が異なる技術水準に及ぶ土地と労働力の関係からうまれてくる限り、それぞれの市場を結ぶ交易の上に商業者を、のち彼らの後駆りから政治集団を呼び込んでいく。人類が嘗て経て、現在から未来に渡るある仕業として行っている全ての文明社会の法則はこうして、巨大な政治集団に回収されていく各仕事の内にあり、我らがその構図に気づいた時には既に彼らの隊列のどこかに属している。
ところがこの帝国は慣習により、徴税からの利権、権益の独占を愛し、領土拡大の意思をもった。世界は幾度となく帝国拡大の役により、悲惨な戦争をくりかえした。搾取の業はこうして生産量の起源が異なる技術水準に及ぶ土地と労働力の関係からうまれてくる限り、それぞれの市場を結ぶ交易の上に商業者を、のち彼らの後駆りから政治集団を呼び込んでいく。人類が嘗て経て、現在から未来に渡るある仕業として行っている全ての文明社会の法則はこうして、巨大な政治集団に回収されていく各仕事の内にあり、我らがその構図に気づいた時には既に彼らの隊列のどこかに属している。
政治の悪疫
私達が求めてきて、今も手に入れられなかったのは平穏な暮らしだ。あらゆる権力、全ての政治はこの点で危険だった。そして人類が政治社会を忌避してみても、所詮この悪徳集団は武器を手に追いかけてきて、人類を奴隷化しようとする。
今日、人類が資本主義という名称で理解しているのは正にこの人類奴隷化の為の政治集団による口実でしかない。我々はこの欺きに悟り、再びもとの暮らしにもどれる様に出発し直さなければいけない。
今日、人類が資本主義という名称で理解しているのは正にこの人類奴隷化の為の政治集団による口実でしかない。我々はこの欺きに悟り、再びもとの暮らしにもどれる様に出発し直さなければいけない。
衆愚の皇族日本
邪悪でくさりきった日本国
殆ど善とよべる存在がない
世襲権力者が独占する国
その欺きと偽善に騙される民
腐敗しきった商業大都市
インターネットにも現実にも
溢れかえる衆愚だらけ
冤罪にあざ笑い弱者を虐げる
悪を好み善を嫌う愚劣な民衆
人間と呼べる姿ですらなく
何者かに変化した悪質な社会だ
皇族は正にそんな腐敗を愛し
堕落と頽廃に住み込んできた
それがこの島で起きてきた全て
殆ど善とよべる存在がない
世襲権力者が独占する国
その欺きと偽善に騙される民
腐敗しきった商業大都市
インターネットにも現実にも
溢れかえる衆愚だらけ
冤罪にあざ笑い弱者を虐げる
悪を好み善を嫌う愚劣な民衆
人間と呼べる姿ですらなく
何者かに変化した悪質な社会だ
皇族は正にそんな腐敗を愛し
堕落と頽廃に住み込んできた
それがこの島で起きてきた全て
日本の邪悪についての観察
あたまがわるいうえに邪悪で、性的に退廃している東京や東海道、関西、薩長土肥、アジアンハイウェイ、西日本の人間集団にはふれあう価値もないし、近隣諸国がその末裔へつよい恨みをもちつづけるとしてもまこと理の当然であると確信する。それは他ならずかれら南日本人が衆愚であり、悪徳的であるからなのだ。
日本本土に数万年より生存してきた人間の目にさえそう映るのだから、一体、渡来してきた集団がどれほど邪悪に染まった過去をもっていたのかはかりしれない。少なくとも、こういった集団、いわば神道集団が及ぼす途轍もない錯誤と邪宗のもたらす災厄をかえりみると、たとえ日本列島が地理的にどれほどのあいだ維持されていたとしても、諸外国人は必ずその内部を実見していくはてに絶望もし、失望するだろう。どうしてこの極東の小さな島がこれほど、観察するかぎり朝鮮半島から渡来してきたある集団の域で社会風土的に悪化してしまい、たてなおし様もない程におちぶれてしまったのか理解に苦しむ。一般に日本人集団の中では、人種差別や地域差別という用語の援用で社会観察についての表現は弾圧されるきらいがあるが、後世ではそういった固陋な枠組みもなくなるだろうから、私の意見にもある真相があったと理解されるはずだ。
こういった南日本の地方にまずはびこり、徐々に周辺をおかしているのは商業主義の慣習で、それは利己と害他を排除の論理で続ける様なある行動類型にむすんでいる。その慣習が浸透した社会の頂点に君臨するのがそこから税という徴収をうける天皇家であり、日本国と現在よばれている諸地域はこの搾取されていく巨大な人種差別と奴隷化の体系なのだ。この構造はいわゆる神道という信仰体系、ある土着宗教にひめられている。そして商業主義が及ぼすあらゆる悪疫と悪い風俗は、この教えと税収増大という点で適合しているのだ。
日本が悪の体系なわけはその全体が国家神道という皇族と側近並びに税収をもたらす者への人種差別と商業での搾取による民衆奴隷化の社会だからだ。とりわけ、南日本は明治政府という復古政治の発進源になってきたうえ、そのもとで関西や東京と神奈川という膨大な市場をつくったので、この邪悪な全体社会が一層はっきりした姿をとっている。このため住んでいる民衆は知らぬ間にその慣習にそまり、無意識のうちに天皇を頂点とした所得での人種差別にのみこまれるうえ、つねに搾取の業に参加しなければいけなくなる以上、他人を他人ともおもわなくなってしまう。
日本本土に数万年より生存してきた人間の目にさえそう映るのだから、一体、渡来してきた集団がどれほど邪悪に染まった過去をもっていたのかはかりしれない。少なくとも、こういった集団、いわば神道集団が及ぼす途轍もない錯誤と邪宗のもたらす災厄をかえりみると、たとえ日本列島が地理的にどれほどのあいだ維持されていたとしても、諸外国人は必ずその内部を実見していくはてに絶望もし、失望するだろう。どうしてこの極東の小さな島がこれほど、観察するかぎり朝鮮半島から渡来してきたある集団の域で社会風土的に悪化してしまい、たてなおし様もない程におちぶれてしまったのか理解に苦しむ。一般に日本人集団の中では、人種差別や地域差別という用語の援用で社会観察についての表現は弾圧されるきらいがあるが、後世ではそういった固陋な枠組みもなくなるだろうから、私の意見にもある真相があったと理解されるはずだ。
こういった南日本の地方にまずはびこり、徐々に周辺をおかしているのは商業主義の慣習で、それは利己と害他を排除の論理で続ける様なある行動類型にむすんでいる。その慣習が浸透した社会の頂点に君臨するのがそこから税という徴収をうける天皇家であり、日本国と現在よばれている諸地域はこの搾取されていく巨大な人種差別と奴隷化の体系なのだ。この構造はいわゆる神道という信仰体系、ある土着宗教にひめられている。そして商業主義が及ぼすあらゆる悪疫と悪い風俗は、この教えと税収増大という点で適合しているのだ。
日本が悪の体系なわけはその全体が国家神道という皇族と側近並びに税収をもたらす者への人種差別と商業での搾取による民衆奴隷化の社会だからだ。とりわけ、南日本は明治政府という復古政治の発進源になってきたうえ、そのもとで関西や東京と神奈川という膨大な市場をつくったので、この邪悪な全体社会が一層はっきりした姿をとっている。このため住んでいる民衆は知らぬ間にその慣習にそまり、無意識のうちに天皇を頂点とした所得での人種差別にのみこまれるうえ、つねに搾取の業に参加しなければいけなくなる以上、他人を他人ともおもわなくなってしまう。
2013年2月4日
善行の社会性
人類が善行でなしえるのは、言動や思考も当然その類型に入るが、ある守られた社会づくりだろう。この社会は共有規則を維持し、人類とみて類型にあう者を選別していく。全ての生物も、このよき世界に叶う限りに最大限淘汰される。
ある教養体系が自らの規律に科す事はまとめられた物分かりによるから、善意の程度はこの背景にされた様々な知識量にも依存する。
こういった過程は社会に非自然な行いを推奨させる筈で、道徳が反動物的であり、本能を抑える命令な場合が多いのはそれが社会の規則で自然のではないから。
この類型が時代に応えてかわる事例は、又彼らの背景とされる知識量に変化があった印だろう。
最善者の社会で要求される知識量は、当然そうでない自然状態より更に多いだろう。教育がどこまでこの増大に追随できるか不明だが、最低でも学習という行動が生得的な道徳性を補う主要な側面なのは明らかで、それは最善者にとってもやはり理性の補完を司る機能だろう。
同時代のある地域単位で道徳に偏差があるのは、仲間が共有している背景知識に大幅な差がある時真で、全くそれがなければ単に過去の選択された生得形質の向きによっている。
生得的なかしこさは知能の遺伝による。つまり、誘因とみた社会性はその規則自体の度合いの為に業を意図されている。こうして生まれが出現するのであり、習慣化に依拠している善意はいわば彼らの属した共同体の常識そのもの。この共有集団にとって、利己的な侵入者ははっきり質が悪いとみなされる。いいかえれば悪徳とは、その属した集団の相互に利他的な共有性を乱す情報源だから、文明が乃ちこの社会にとって第一の防波堤。
属した集団の質が文明度に差を設ける。こうして、人類はよりすぐれた集団に属したがっており、実際にそれができる時幸福を覚える。既に常識となった善意の中に同一の道徳性のもといる人は退屈で、それに及ばない人は反社会的な資質の乱雑さ故に不自由で被罰的だろう。自らがその集団の道徳より高い時は、誤解された中傷でなければ尊敬すべき孤独になるだろう。啓蒙家の役目は常に孤立した独善、結果は集団道徳への編入だろう。これらの集団性は単位として最小の時二人、最大の時全人類といえる。そして全ての人は彼らの属した集団に遠からず回収されており、この集団への貢献性に応じて行為している。
道徳がある共有集団の常識で、そういった仲間との共通した行動原則をやりとりしていく経過が哲学の担う仕事。この質は高い程よく、高い程属した集団の利他性から高い恩恵をうける。そしてそういった集団は、単に利己的な本能を多数の同一規則が共有できる群れに相互報酬として定義できるだけ賢明でもあり、単独では不可能な多くの営みから得をえる。
ある教養体系が自らの規律に科す事はまとめられた物分かりによるから、善意の程度はこの背景にされた様々な知識量にも依存する。
こういった過程は社会に非自然な行いを推奨させる筈で、道徳が反動物的であり、本能を抑える命令な場合が多いのはそれが社会の規則で自然のではないから。
この類型が時代に応えてかわる事例は、又彼らの背景とされる知識量に変化があった印だろう。
最善者の社会で要求される知識量は、当然そうでない自然状態より更に多いだろう。教育がどこまでこの増大に追随できるか不明だが、最低でも学習という行動が生得的な道徳性を補う主要な側面なのは明らかで、それは最善者にとってもやはり理性の補完を司る機能だろう。
同時代のある地域単位で道徳に偏差があるのは、仲間が共有している背景知識に大幅な差がある時真で、全くそれがなければ単に過去の選択された生得形質の向きによっている。
生得的なかしこさは知能の遺伝による。つまり、誘因とみた社会性はその規則自体の度合いの為に業を意図されている。こうして生まれが出現するのであり、習慣化に依拠している善意はいわば彼らの属した共同体の常識そのもの。この共有集団にとって、利己的な侵入者ははっきり質が悪いとみなされる。いいかえれば悪徳とは、その属した集団の相互に利他的な共有性を乱す情報源だから、文明が乃ちこの社会にとって第一の防波堤。
属した集団の質が文明度に差を設ける。こうして、人類はよりすぐれた集団に属したがっており、実際にそれができる時幸福を覚える。既に常識となった善意の中に同一の道徳性のもといる人は退屈で、それに及ばない人は反社会的な資質の乱雑さ故に不自由で被罰的だろう。自らがその集団の道徳より高い時は、誤解された中傷でなければ尊敬すべき孤独になるだろう。啓蒙家の役目は常に孤立した独善、結果は集団道徳への編入だろう。これらの集団性は単位として最小の時二人、最大の時全人類といえる。そして全ての人は彼らの属した集団に遠からず回収されており、この集団への貢献性に応じて行為している。
道徳がある共有集団の常識で、そういった仲間との共通した行動原則をやりとりしていく経過が哲学の担う仕事。この質は高い程よく、高い程属した集団の利他性から高い恩恵をうける。そしてそういった集団は、単に利己的な本能を多数の同一規則が共有できる群れに相互報酬として定義できるだけ賢明でもあり、単独では不可能な多くの営みから得をえる。
On the him
An international error that we are
The safety position for making our
The party of thinking a new fact on
You be tidy for your duty going on
A traditional ceremony that we are
The safety version for pleasure our
The party of listening an old rain on
I am tidy to my arts going on
Soul by side with joke will know
Main color on the King wants their nobility
But a methodological thing that we are
The safety suspension for playing our
The party of theoring a marginal sky on
They are tidy too mean to go on the him
The safety position for making our
The party of thinking a new fact on
You be tidy for your duty going on
A traditional ceremony that we are
The safety version for pleasure our
The party of listening an old rain on
I am tidy to my arts going on
Soul by side with joke will know
Main color on the King wants their nobility
But a methodological thing that we are
The safety suspension for playing our
The party of theoring a marginal sky on
They are tidy too mean to go on the him
外様社会
邪悪で歪んだ薩長土肥京が
日本を破滅に追い込んでいった
驕りながら蹂躙した正義と公正
残ったのは政商と成金の外様社会
遥かな時代は何を映した
救い様のない過ちと残酷な悲惨
南西日本の蛮族達は社会を汚くし
あげ句に反省もなく人道を侮辱した
悪質で助かり様もない下賎の群れが
大波を打って日本を侵害していった
天皇権力は全ての悪を利用しようと
下心で近づく薩長の罪業に加担した
そうして母国を弱肉強食の地獄と化し
己一人のみ頂点に立つ独裁国民に仕立てた
日本を破滅に追い込んでいった
驕りながら蹂躙した正義と公正
残ったのは政商と成金の外様社会
遥かな時代は何を映した
救い様のない過ちと残酷な悲惨
南西日本の蛮族達は社会を汚くし
あげ句に反省もなく人道を侮辱した
悪質で助かり様もない下賎の群れが
大波を打って日本を侵害していった
天皇権力は全ての悪を利用しようと
下心で近づく薩長の罪業に加担した
そうして母国を弱肉強食の地獄と化し
己一人のみ頂点に立つ独裁国民に仕立てた
2013年2月3日
Tongue
Our the safe will use tongue
But it will never get the truth
It will come from the trust
And it will never get some arts
But it will never get the truth
It will come from the trust
And it will never get some arts
こまゆき
どんなにおおむかしかもしれず
よのなかはひろがりつつめぐる
だれにとってのおくゆきかさえ
しるよしもなくものごとはまつ
どんなにはてしなくかもしれず
よのなかはちぢまりつつめぐる
だれにとってのこまゆきかさえ
しるよしもなくできごとはまつ
わかっているのはなにもかもが
きづいているあいまにちりさる
どんなにいつくしくかもしれず
よのなかはかなしみつつめぐる
だれにとってのふゆのひかさえ
しるよしもなくあけぼのをまつ
よのなかはひろがりつつめぐる
だれにとってのおくゆきかさえ
しるよしもなくものごとはまつ
どんなにはてしなくかもしれず
よのなかはちぢまりつつめぐる
だれにとってのこまゆきかさえ
しるよしもなくできごとはまつ
わかっているのはなにもかもが
きづいているあいまにちりさる
どんなにいつくしくかもしれず
よのなかはかなしみつつめぐる
だれにとってのふゆのひかさえ
しるよしもなくあけぼのをまつ
調べ
ゆっくりと目をひらき
よをみわたせ
このよは何の為にある
よのなかはどうして回る
はてしない矛盾
かぎりない過ち
あった事をのべたてるなら
それで全てになるだろう
ありとあらゆる昔に
ねがったとおり宇宙はできて
やがてついえゆく
ひたすら続きゆく川の流れに
まちうけている時代はみな
業の調べを巡らせているのに
よをみわたせ
このよは何の為にある
よのなかはどうして回る
はてしない矛盾
かぎりない過ち
あった事をのべたてるなら
それで全てになるだろう
ありとあらゆる昔に
ねがったとおり宇宙はできて
やがてついえゆく
ひたすら続きゆく川の流れに
まちうけている時代はみな
業の調べを巡らせているのに
あきのゆうぐれ
このよがはじまってからおわりまで
つづけられてきたあらゆるものごと
ひたすらにまいちるおもいでと
すこしずつかわりゆくまちのかおり
すべてがいりぐちにたってでむかえる
ひびきわたっているあらゆるできごと
さめてしまうふりしきるあきさめと
わずかでもつみかさなっていくいのり
おもいだしてみればそこにもあった
たしかなおもいでにかさなっている
このつちにきざまれていったいまさえ
かたちづくられてきたあらゆるかなしみ
よくかんがえているめのまえに
さきほこるはなばなしいあきのゆうぐれ
つづけられてきたあらゆるものごと
ひたすらにまいちるおもいでと
すこしずつかわりゆくまちのかおり
すべてがいりぐちにたってでむかえる
ひびきわたっているあらゆるできごと
さめてしまうふりしきるあきさめと
わずかでもつみかさなっていくいのり
おもいだしてみればそこにもあった
たしかなおもいでにかさなっている
このつちにきざまれていったいまさえ
かたちづくられてきたあらゆるかなしみ
よくかんがえているめのまえに
さきほこるはなばなしいあきのゆうぐれ