『時事新報』発兌之趣旨
「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福沢小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば、大方の君子も此新聞を見て、果して我輩の持論如何を明知して、時としては高評を賜はることもあらん」
『続福沢全集』第5巻737頁
「私は明治十八年時事新報社に入り暫くの間は外国電報の翻訳等に従事してゐたが、同二十年頃から先生の指導の下に専ら社説を草することになつた。当時「時事新報」の社説は先生が自ら筆を執られ、或は時々記者に口授して起草せしめらるゝこともあつたが、其草稿は一々厳密なる修正添削を施された上、紙上に掲載せしめられた」
福沢諭吉の弟子をscapegoatにしようとする陰謀論者・平山洋氏には誤解のみならず、あきらかに責任転嫁をめざそうという悪意と謀略、ある思想家とその仕事にかかわる歴史的評価への偶像化的な不誠実がある。福沢は、岩倉使節団に付き添う世界旅行を経て早くも『学問のすすめ』無題遺稿(内に忍ぶ可の外は忍ぶ可らず)において既に旧套を脱するという意図での脱亜入欧に類した思想、乃ち対外的国権思想としての程度のつよいnationalismをもっている。かつ福沢自身の口述筆記を福沢が添削した『福翁自伝』において朝鮮人・中国人へ蔑視発言をし、日清戦争への歓喜もはっきり示している。なお福沢諭吉は『痩我慢の説』に見られる通り、平和主義者ではなく主戦論者だったのだ。これらをみれば、福沢諭吉が今日の意味でのhumanismに単純化できる平和主義的なmoralistではなかった事はあきらかだろう。同時代人としての岡倉天心『茶の本』での明白な反侵略主義の主張、はっきりした平和愛好の態度、強い人間主義的人権主張を対比させれば、この思想家としての全くの態度相違は如何としても否定しえない歴史上の事実とみるほかない。
福沢諭吉自身も自らの側近をscapegoat化しようとした可能性は全く考えられなくはない。危険な内容に変名や筆名も用いた福沢自身が『時事新報』上の匿名による発表を企図したとして致し方ない点、記名による責任なる近代の個人としての距離を保てなかったという当時の言論弾圧や讒謗律を含む社会情勢の両方をみても、師の身辺に関する忠実な記述者或いは伝道者として立つ石河幹明の思想的責任はみいだされない。平山洋氏の難癖は思想の主客を混同する暴論に等しいのであり、ある考えをもち新聞社をつくっていた主の責任をそこに長年従事し忠実に伝記しようと務めた客に転嫁する、全くお門違いの謬説というほかない。そもそも『福澤全集』と『続福澤全集』そして『福澤諭吉伝』の編纂事業は慶應義塾評議委員会からの信任のもと直接の依頼をうけた石河がおこなった以上は公然のものであって、何度も周囲からの公正な批評があったろうから事実に相反したいい加減な物を残し得ないばかりか、『時事新報』の各記事に至っては新聞社の主催としての福沢本人からの厚い信頼のもと委嘱を受け福沢自身を含み石河に限らない各記者が行っている限り、それらは新聞社とその出版関連事業一切の経営者でもある福沢諭吉のclient、主人としての責任なのだ(福沢工房説、福沢アトリエ説)。士分の端くれとしての根をもつ福沢諭吉自身が晩年に政府主導の国権論に偏り、民間人主導による民権論を時期尚早とみなし抑圧していったのも思想的展開としてみいだされてくる以上、福沢諭吉という一思想家の考え方には欧米思想の翻訳輸入者としてのある典型的な伝統アジア文明、とりわけ身分制度を伴った儒教社会への批判の念があるのは誰の目にも明らかなのである。この福沢の父を門閥制度に閉じ込め続けた親の仇(『福翁自伝』)を、いまだにまとい続けていた中国と朝鮮、そしてそこで旧態依然とくらす人への福沢諭吉による蔑視的な言動は、つまりここからうまれてきているのだ。
平山洋氏は慶応義塾にかかわった多少あれ学閥者として、事実上アジア蔑視論者として現実にあった福沢諭吉像を周囲の人物へ責任転嫁して、初代塾長の偶像性を高めようとしているに過ぎないと考えられる。そしてもし通らない道理によってそれ自体が目的な論争を繰り返す事での売名が目的ではないなら、その主張に関して全くのぬれぎぬをきせられた無実かつ先生と仰ぐ福沢諭吉へ生涯忠実な第一級の人士、石河幹明への名誉回復措置を、平山洋氏自身が生前に行うのが人間として当然の義務といわなければならない。平山洋氏が以前の説を漸く撤回するか、さもなければなんら故なき風説であり全くの陰謀であったと明々白々と学会や民間を問わない研究者諸氏、謬説から悪影響や誤解をうけた世間にもその悪疫が及ばぬ内に周知され、当の名誉毀損を招く誤った内容の書かれた風説書籍が自主的に差し止められあるいは市場から淘汰されるまでこの義理は免れないと思われる。
もし江戸時代から明治時代の思想上の流れをかえりみれば、寧ろ今日の平和主義に通じる専守防衛主義的だったのは、金甌無欠つまり一度も侵略を蒙らなかった日本国を神格化させる正当防衛論として水戸学の思潮を組む徳川御三家水戸藩出身者であったと次の事実から理解できよう。天狗党の蜂起が攘夷決行の促し乃ち今日でいう正当防衛行為を目的として出発している事、徳川家康以来、その鎖国経営による限定的で和平的な外交が大方針であった事。そしてこの源氏長者としての仕事は、秀吉の朝鮮出兵が失敗に終わった歴史を反例とした、光圀と朝鮮通信使の心のこもった往復書簡で有名な親善外交確立から一貫している事。李氏朝鮮国においても、なぜ日本の明治新政府からの使節が拒否にあったかは、この伝統的な徳川の和平外交とは異なる態度と形式でやってきた新参者で、なお且つ信用の置けないクーデターを起こして政権簒奪直後の外様社会を汲む、いわば徳や教養の低い暴威を含む薩長土肥京芸側の志士であったからなのだ。ふりかえれば当たり前かもしれないが、朝鮮半島の王朝とその人民からさえ、かれらのideologueとしての吉田松陰が晩年主張した東アジア殖民地主義の欺瞞が、明治政府の朝鮮外交においてもはじめから見抜かれていたのである。
この李氏朝鮮方の懸念は真実だった。征韓論を主張したのは薩摩の西郷隆盛と土佐の板垣退助、それを実行に移したのは薩長土肥京芸の明治政変において最終的実行支配者の地位に上り詰めた長州の伊藤博文だったからだ。こうして初代朝鮮総督府の初代総監伊藤博文が安重根によって、「長州藩の起こした一連の政変で、孝明天皇を弑逆した長州人の首魁」とみたてられ、大逆の名義で暗殺された。そしてこれが尊皇攘夷派の変節により、侵略を辞さない帝国主義者と化した長州閥がその外交関係の第一歩でまさに致命的な失政をしている紛れない史実なのだ。
当の儒教圏へ冷酷な福沢諭吉にとってさえ徳川将軍へあてられた直筆の建白として、攘夷行動への総合的批判は長州方の無政府主義に求められているのがその証拠になるだろう。
『福沢諭吉全集』20巻より福沢諭吉筆『長州再征に関する建白書』1866年
「諸侯の内、第一着に事を始め反賊の名を取り候者は長州にて、弥以て此の度御征罰相成り候儀は千古の一快事、此の一挙を以て恐れ乍ら御家の御中興も日を期し天下の為不幸の大幸、求めても得難き好機会に御座候。何卒、此の上は大英断の上にも御英断遊ばされ、唯一挙動にて御征服相成り、其の御威勢の余を以て他諸大名をも一時に御制圧遊ばされ、京師をも御取鎮に相成り、外国交際の事抔に就ては全日本国中の者、片言も口出し致さざる様仕り度き義に存じ奉り候」
『福翁自伝』の「攘夷論」(緒方先生の急病村田蔵六の変態の項)に、江戸時代当時の福沢による長州勢への侮辱的な表現での評がみられるとおり、長州内に吉田松陰によって作られた反政府的な東アジア殖民地侵略主義イデオロギーが長州勢に与えた暴挙に告ぐ暴挙という行動原則への反映を、福沢は無政府主義的な排外行動として否定的にみていたのがわかる。ここで攘夷という言葉は、天狗党に於ける指導理念の時代にそうだった様な元来の中国春秋時代の諸侯による共同防衛策からの引用としての水戸学の穏健な意味からはなれて、宇都宮黙霖からいざなわれた覇道批判の倒幕論が加わって吉田松陰の中で変質し、倒幕を前提にした尊皇論である絶対主義的な一君万民論となり当時に於ける急進的な無政府主義に近いものとして長州勢に使われていたのが分かる。福沢が『長州再征に関する建白書』では「反賊」や『福翁自伝』では「気違い共」と辛辣な言い方で長州を非難しているのは実は攘夷という言葉の持つ二重の意味の内長州版のもの、つまり元来の水戸版のもっていた母国防衛という素朴な意味とそれが吉田松陰によって事実上無政府原理化された長州版の侵略主義という二重性の内、長州版のそれに隠されていた長州勢の一時ならず持っていたこの無政府主義的な態度へであり、それが1864年禁門の変に於ける、御所周辺での戦争行為並びに御所への発砲事件となって結実した直後だったのである。
8月18日の政変で京都から排除された長州藩総出による矛先を京都守護職周辺へ向けかえた復讐を大義名分とした運動、長州藩主への処罰を朝議し承認した孝明天皇への雪冤征伐ともとれる暴力行動の理論的背景には、安政の大獄で既に死罪になっている吉田松陰のもちだした1つの無政府主義思想が浸透していた事が関係しているだろう。要するに、『幽収録』にみられる吉田松陰によって長州勢を鼓舞する事になった殖民地侵略的な無政府主義の意図少なくともその西洋文明へも構わない排外的な態度は、福沢諭吉『福翁自伝』の見解では「あきれ返った話(「王政維新」より)」であった。松陰の『留魂録』にも水戸の郷士堀江克之助や藩士鮎沢伊太夫の厚情へ感謝の念があらわされており、水戸の能文に期待し石河幹明含む記者候補を維新後選抜させた福沢諭吉のみならず長州勢にとってさえ、いわゆる水戸学派が育んだ原型的な報国主義、patriotismの世界観は決して対立するものではなかった。いわば水戸は当時の政治行動にあっても最も保守的で穏健主義の立場にあった事から、江戸幕府と明治新政府のどちらへも報国心の啓蒙者として精神的支柱を提供し続けていたといえるだろう。幕末当時、『福翁自伝』「攘夷論」(剣術の全盛)に家康公と水戸の老公が始終召していたとされる黄平と漆紋の羽織が、御家人旗本のみならず武家社会一面に間に流行していた、とある通りごく信頼は厚かった。
対して長州は下関戦争での敗戦後、1863年4月藩士5名をイギリスへ密航させる事で松陰の意図から反れて、専守防衛的な水戸版の攘夷論という統制原理を失い、福沢が江戸の緒方宅で見た通り村田蔵六(大村益次郎)が1863年7月(『福翁自伝』の述懐では6月)に呈していた様な不安定な無政府主義に陥り、膨張政策的かつ内戦的になる。1863年8月18日にはこういった急進的で乱暴な態度が響いたのだろう長州勢は朝命により京都から追放され、1864年11月には報復の意で禁門の変を起こし、朝命により幕府からの長州征伐が決定された。1864年第一次長州征伐が実行され、長州藩からの恭順の意が伝わり総督徳川慶勝により撤兵令が出される12月まで続く。所が、無政府的な状態になった長門に挙兵された奇兵隊らが長州藩の正規軍を倒し排除したのは同じ12月だった。1865年この現地の暴動を見て、前年の制裁で十分に鎮圧されなかったと見た幕府により第二次長州征伐が決定される。福沢が1866年『長州再征に関する建白書』を将軍へ示したのはこの長州勢の再三に渡る無政府主義的行動の背景があってであり、再征は1866年6月に決行される。尊皇論と公議主義を汲む徳川慶喜に交代された将軍職は1866年の9月に再征中止を決定。1866年12月に岩倉具視や伊藤博文による暗殺説が囁かれる様に、突如として孝明天皇が急死する。それにめげない将軍は1867年9月まで軍制改革を行い日本最大の西洋式軍事組織に近代化された軍備を持ち、暁の1867年10月、諸侯会議による政体を目指して大政奉還を行う。それを隙と見た岩倉具視と薩摩は1867年12月8日午後から9日の明け方にかけて王政復古のクーデターを起こす。岩倉具視や大久保利通らは1867年12月9日18時の小御所会議により徳川家の辞官納地を画策。こうして朝敵として孝明天皇の下では排斥されていた長州勢は薩長同盟という陰謀のもと息を吹き返し、吉田松陰直伝の東アジア殖民地侵略主義を旗印に、新政府軍に喜び勇んで参加。1868年1月の戊辰戦争へ、やがて琉球と北海道の割譲を含め朝鮮侵略へと進んでいくのである。過激な攘夷実行から極端な開国侵略へ、という急激な方針転換は政府による統制の意を解せず勝手に薩英戦争と下関戦争を起こしほぼ同様の路線を辿った薩摩藩と長州藩という、幕末の急進派の地方とその人々に起きた現象である。
これら1863年の下関戦争から1868年の戊辰戦争のあいだ数年で急速に起きた政変を見ても、急進派・過激派の薩摩と長州に比べ、保守派・穏健派である水戸が何ら積極的に関わっていない事がはっきりしている。つまり、水戸に於いては国内秩序の維持がその政治の目的だったのだ。これら御所周辺での政変での間、1864年5月に藩内の報国主義的な尊攘理念を幕府と朝廷へ伝える目的の自主組織から決起された天狗党が無断の武力組織と幕府にみなされて1865年3月に鎮圧処刑されるが、これさえ単に幕府への説得が目的だったので、素直に水戸出身者である徳川慶喜率いる幕府軍へ投降している。こういった性質差が背景にあって、当時の世相にあっても尊皇攘夷論や大義名分論をはじめ皇室並びに幕府補佐が明らかに意図された保守言論の発信地でもあったにも関わらず、伝統を通じて文を好み学者気質的な水戸社会や、その出身者に福沢諭吉はむしろ好感やある敬意をもって現に接していたのだろう。『福翁自伝』に水戸斉昭を老公として天下第一の人物と思っていたと述べられている事(「幼少の時」)、その水戸出身者である最後の将軍へ旧幕臣として親しみを込めているのだろう「慶喜さん」と呼んでいる事(「王政維新」)が読み取れる。又創刊を企図していた『時事新報』に能文者を嘱望し記者の素質を期待してわざわざ呼び寄せた水戸出身の塾生をのち主筆に冠し、彼らの一員の任意退社に際して福沢は復帰を熱望しているのからも事情が知れる(慶応義塾大学出版会のウェブでしか読めないオリジナル連載(2007年1月31日掲載)『時事新報史』第12回:水戸出身記者の入社、都倉武之(慶應義塾大学専任講師)より)。
平山洋氏のもっている水戸学派への根本的な謀反は、以上の論拠をもとに福沢諭吉からその愛弟子である水戸出身石河幹明へのscapegoting、責任転嫁を目当てとした現代の風説流布が目的であり、何ら江戸時代末期から明治時代に渡る第一級の志士を含んだ人々の意見の反映でないばかりか、福沢諭吉自身は中津藩士や旗本の職にある幕臣として寧ろ長州版の無政府主義否定論者であって、かつ福沢の持つ能力遺伝論から学者の遺伝子poolである地を買って水戸から石河幹明ら若い学生を慶応義塾へ招かせた様に吉田松陰と変わらず親水戸派であったと分かる。この吉田と福沢という幕末に存在したごく有名な思想家に共通して見られるのは、水戸の好学・好文的な文化とその徳を尊重する態度である。平山洋氏が犠牲に仕立てようとしている当の石河幹明が長らく『時事新報』の主筆になり、詳細かつ大著でもあって誠意と情熱がなければ到底なしえない伝記や全集を含む福沢関連文献を高齢の辛苦をおして物した通り、この福沢と松陰が水戸藩の人へ共にみている能、2代藩主徳川光圀や9代藩主徳川斉昭と藩校弘道館により藩内に擁立された哲学の語源にある益友の内容としての友情、いわゆるphiliaの質は確かだった。そして逆に、悪友とみなされた朝鮮と中国及びその人民へ向けての東アジア蔑視や欧米への親和が記されている懸案の『脱亜論』については、1885年(明治18年)5月から時事新報社に勤務した当時26歳の慶応義塾生石河幹明が、1885年(明治18年)3月16日『時事新報』上の社説に掲載された『脱亜論』に関われる筈がない事から、石河幹明が関与しておらず或いは仕様もなく、明らかに当時50歳の福沢諭吉本人か、又は石河幹明がその約2か月後に入る前の福沢アトリエによるものであると理解できる。ここから、水戸学のもっている報国主義と、吉田松陰が江戸の獄中から郷里へ送った『幽囚録』に影響を受けた長州勢の持つ事になった東アジア殖民地侵略主義をとりちがえて、前者を後者の論拠で誤って攻撃、しかも間接的な風説流布と死者への冤罪というまこと卑劣千万な手段で名誉毀損しているのが平山洋氏という勘違い甚だしい一著者であるのが証明された事になるであろう。
平山洋氏は吉田松陰とも福沢諭吉とも違って、江戸時代から幕末にかけて報国主義、patriotismを主張した水戸学派への勘違いか悪意をもって、卑怯にも福沢諭吉の愛弟子へ福沢諭吉の著述に於ける現状とそぐわなくなった汚点ともいえる側面をおしつけようとするscapegoat論者、風説流布者、物言わぬ死者に鞭打つ卑劣で陰険な名誉毀損者であるのが分かる。平山洋氏はかくして、謬説により貶めた石河幹明の御霊への深く徹底した謝罪のみがその冤罪行為の業を雪ぐ唯一の道になるのである。塾生を重んじた福沢諭吉先生の真意を歪め、彼の大事な愛弟子へ福沢自身の犯した罪の責任を押し付けるという事は、福沢諭吉自身の霊が第一に恥とする所なのは彼の信じた独立自尊の精神から明らかである。『脱亜論』、いわゆる脱亜入欧を述べて今日からみれば東アジアにある日本、中国、韓国という三国の中で日本の孤立主義を指導する主張と読めるこの文章に於いて、福沢諭吉筆になる又は彼の新聞社許可になる各論に万が一にも朝鮮や中国への失礼や誤解があったなら、それを書ける筈もない愛弟子がかばったり誰か心無い後世の人の風説によって第三者がかばわせられるのではなく、独立自尊を信じ蔭弁慶の筆を憎んだ福沢諭吉の魂、その精神自身が遠からず責めを負う筈なのである。