徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いを催すつもりはなくそれは会津と桑名の藩屏が反幕府的な勢力と勝手に起こした戦である事、尚且つ慶喜公は会津と桑名の猛反対にも関わらず御所周辺から退却した事、後世に禍根を残す不当な要求である事を見抜いていた越前と尾張の2候が説得して再び御所にもどらせたがったが、以前からの議会主義者として諸侯会議の卑劣な決定にも寧ろ驚くほど従順であって、ぬれぎぬをかけようとした会議の内容には部分的に応じ80万石を引き渡して天皇政府を樹立したがっていた事が、当時の情勢に通じた客観的な第三者であるイギリス外交官アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』二十六章に書かれている。
なお『昔夢会筆記』には、徳川慶喜本人が朝命によって御所へ上がろうとしたが、これに薩摩からの攻撃を加えられたので戦端が開いてしまった、なおこれらは半ば思案の内だったと徳川慶喜本人の弁がある。
これらはまだ封建領主制度の名残りを含みつつも議会政治的な近代思想をもつ大君としてまこと尊皇的な行動であり、特に御所付近でいきりたった会津や桑名の藩屏による勝手な戦闘がおこなわれるのを大君が憂慮しての二条城から大阪城への自主的な退却であったし、尚且つ「皇室へ恭順せよ」という水戸学に教育され事実上皇族が母でもある徳川慶喜にありえる命令に従いそうにもない、既に公然となった皇軍との戦闘を君側の奸臣を倒す目的であったとはいえ始めてしまっていた会津と桑名の藩屏による内乱行動を強制的に一刻も早くやめさせる意味で、御所に被害が及ぶ前に大君は江戸城へ退却せざるをえなかったのが理解できる。当時16歳である明治天皇の態度は、その配下にある総裁、議定、参与が実質的な責めを負うべきとはいえ、心から誠実な忠臣への裏切りを命令する錦旗を与えたという意味でまこと世界史上にも極めて罪業深く、西日本の諸藩とそのもとにある国民へ鹿を指して馬と為す悪意を持った権力濫用と不正な手立てを肯わせる歴史的な増長の役目を与えたという点で、わが国政の史実に於いて末代まで恥ずべき悪政の証拠であるといえるだろう。この時点で後の御前会議を通した軍部統帥権を一任されている天皇絶対主義による、判断を致命的にしかも繰り返し誤りながらそれが修正されないどころか、過ちが悪意を以て却って強化される様な、岩倉具視や大久保利通をはじめとした西日本人の諸藩が敷いた独裁政を建前としていわば奸臣が実権を握った実質的な寡頭政による明治政権内部の仕組みの時点から、天皇の命令によって起こされた慶喜追討令と称する忠臣迫害の1868年戊辰戦争からたった77年後政権の必然的な破局として、1945年無条件降伏に至る大敗戦は予告されていたのである。こうして忠臣を排除し迫害しながら権力欲のみで動く奸臣らを味方につけていけば、国風には不信が広がり勝てば官軍とばかり努めて上司や同僚を欺こうとするだろうし、政権内部へ最後には卑劣で不徳なマキャベリスト、いわば悪役の様な性格者しか残らないからだ。幼い明治天皇とその臣は、正にそういう人達だった。そして忠臣とその部下らをなぜか攻撃する錦旗を睦仁が新政府軍側に与える裏切りから現実にわずか63年後、1931年リットン調査団により枢軸国としてこの明治天皇により築かれた欺瞞の「大日本帝国」への見方は決定的になる。
因みに江戸城へ退却した際の徳川慶喜による、上官の命令を大人しく待って聴こうとしなかったか、無断で行動したがった協調性の欠けた不従順者への信賞必罰の態度は、藩からの命令を受けずに勝手な行動をとった地元出身の天狗党への厳格な対応で既往の彼にみられるものだった。但し、元々絶対主義の幕閣から尊攘派の報国心への無理解をかわしながらに天狗党の赦免に尽力すべく自ら鎮圧軍の総指揮官を願い出た英断や、或いは会津候や桑名候へ皇室への恭順の忠告をし、又は第二次長州征伐が弱いもの虐め状態だった為に将軍職就任直後に兵を切り上げさせた様に、慶喜公自身は武士の情け或いは慈悲の魂を持ち合わせていた。猶彼の父である徳川斉昭も、桜田門外の変を勝手に起こした脱藩者らへは同様の過酷ともいえる処罰を命じており、初代藩主の頼房に命じられた生瀬騒動に象徴されている様、信賞必罰性は水戸徳川家に於ける非協調的な者への武断的な家風であり、当時の警察組織の長として当初からの処世訓であったと思える。いいかえれば、水戸の風は命令へは従順でなければならないが政策へは柔軟でありえたといえる。この帝王学風の二面性は要地の封建領主として任された、君主政の資質とも関連しているだろう。
総じて、主要な諸侯を集めきらない少数者で行われた不完全な小御所会議による第一の公議からの過酷すぎる不当ともいうべき命令へも、当時日本を取り巻く国内外へ最大規模の権威と武力が両手にありながら驚くべき素直な態度に見られる通り、徳川慶喜は決して絶対主義なるものを信じていなかった。それはドナルド・キーン『明治天皇』等、武力絶対主義者の徳川宗家と公議政体主義者の水戸徳川家を取り違えている勉強不足による、のちの誤解と風評による間違いである。そもそも、実力や本分に関わらず直接参政権の263年間余り制限されていた御三家水戸は、『大日本史』編纂事業に見られるごく英邁だが幕閣での権力は限られている第2代水戸徳川家当主徳川光圀と、「生類哀れみの令」に見られる幕閣での権力は限られないが才能が乏しい第5代徳川宗家当主徳川綱吉の同時代に於ける著しい対照が現れた江戸時代初期から、この絶対主義の腐敗という歴史的事象を重々承知し易い立場にあった。そしてこの実力的にならざるを得なかった水戸と、形式的であらざるを得なかった江戸のそれぞれの優先順位の違いは、幕末持ち出された将軍継嗣問題での物の見方、乃ち対外的危機という急場に及んでは「実力のある人物を将軍や幕閣にすべし」とする実力優先論の一橋派と、そういった急場に及んでも「形式にのっとった人物を将軍や幕閣にすべし」とする血脈優先論の南紀派の違いにも現れている。こうした新旧の対照事例が数あるばかりか現に、水戸徳川家からの実質的な出身者の徳川慶喜はごく英明と評されていた通り、徳川にも薩長にも利害のないアーネスト・サトウが第三者として叙述している様、当時としても世界で最先端であった公議政体による漸進的な議会改良主義者でもあり、かつ78年のちにアメリカによって作られる象徴天皇を早くも構想していたのである。吉田松陰の一君万民論に影響を受けた長州を主力としたその後の明治新政府が企てた絶対君主による専制統治へは、絶対主義の欠陥を熟知していた水戸嫡出で先から諸侯による公議政体を主張した慶喜は明らかに反対だったのが分かる。これは有力な封建領主層をおもとした議会による政治の構想だから、いわば江戸時代末期にあって貴族院議会の確立を述べていたものといえるだろう。又彼は最後の将軍とはなったが当時の幕政にあっても第2次長州征伐での軍備不足という結果から導いた軍制近代化を、迫る諸外国の干渉や、既に朝敵となりつつ外国へ密偵(長州五傑)を送り込んだ長州藩と政府へ従順を装いつつその背後にいて同じく勝手に密偵(薩摩藩第一次英国留学生、薩摩藩第二次米国留学生)を送り込んでいた薩摩藩という反抗的な武装勢力の不穏な動きにより切迫した情勢の中で、1年間もかけて十分させていたのも事実である(慶応の改革)。つまり、徳川慶喜は幕末最大の近代化改良主義者であった。そして往年は明治天皇から直々に公爵へ叙され貴族院議員を務めた通り、尊皇的な議会主義者でもあったし、地位や領地を不条理に追われ奪われたとはいえ半ば彼の思い描いた通りとなった新政体へ参政したのだ。
これ故に、彼は寧ろ自由民権主義に近い土佐による建言を受けて公議政体を目指す大政奉還を甘んじて実行もしえた。又徳川宗家や当時でいう南紀派という血脈優先的な徳川絶対主義者なら当然した筈の政権奪還の為に日本を二分する第二の関が原の戦いも、尊皇攘夷という水戸学派が中国春秋時代の会盟の故事から引いた理念の通り、最大の内乱に乗じて当然あった筈の外国からの内政干渉を避け天皇親政を実現する目的で彼は敢えてしなかったのだ。
歴史を振り返ればこれらがはっきり見えてくるにも関わらず、明らかに有能で忠実な人物を犠牲に仕立てて(辞官納地)、偽書を用いてまで冤罪に陥れ(『倒幕の偽勅』)、そうでない人間と裏で密約をしていながら(薩長同盟)、まだ幼い為に施政が満足になしえない君主を偽って立ててまでも(小御所会議)、絶対的な帝国主義を完成させようとした新政府側についた人々の真意は明らかに不正でもあるし、この実力如何に関わらない血脈による人種差別崇拝的な業の数々は今日にあってさえ、国政にも他の様々な去就にも致命的な錯誤と失敗をもたらす真因であると思われる。