2013年2月9日

歴史学

井伊直弼が開国論者であるかの様な吹聴が彦根などによる陰謀な証拠は、幕末に生きた福沢諭吉による『福翁自伝』の「王政維新」に次の井伊直弼批判の記述がある事で分かる。
「或いは後年に至って大老井伊掃部頭は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとかいうようなことを、世間で吹聴する人もあれば書に著した者もあるが、開国主義なんて大嘘の皮、何が開国論なものか、存じ掛けもない話だ。(中略)井伊大老は真実間違いもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至っては、真闇な攘夷家と言うより外に評論はない。ただその徳川が開国であると言うのは、外国交際の衝に当たっているから余儀なくしぶしぶ開国論に従っていただけの話で、一幕捲って正味の楽屋を見たらば大変な攘夷藩だ。」
 つまり、井伊直弼は当時から佐幕攘夷派であって、開国的であったかの如くの吹聴は明治維新後に悪意をもって創作された後世の風説であるといえる。
 水戸藩並びに一足遅れて徳川幕府へ1858年9月14日(安政5年8月8日)に孝明天皇より下された『戊午の密勅』と同質の『戊午南呂初五密勅』という書状が1858年9月(安政5年8月)つまり同年同月に長州藩へ、かつ写しは関白以外の摂家を通じ朝廷から各大名にも下されている事から、井伊直弼の無勅許条約への批判が孝明天皇本人の憤りに発したものである、又は、その真意が武家相互への同士討ち誘発での政権奪取という日本史上お決まりの朝廷風の画策によるものである、と史学上に証明できよう。廷臣八十八卿列参事件を参考にすれば、そもそも尊皇水戸の意図如何に関わらず、孝明天皇側は幕府の日米修好通商条約締結へ断固反対の立場だったのである。そして水戸藩内では勅書返納問題つまり勅書を幕府へ返納するかどうかで紛糾が起きている通り、それは青天の霹靂であり何ら工作によるものではなかった。
 対して井伊直弼は明らかに、尊皇水戸の藩主とその嫡子によって真に皇室を奉る意図から行われた征夷大将軍の職分にあった幕府の道に関する正直な抗議、諫言忠告を理解できず、井伊直弼譴責の書といえる戊午の密勅は現実には孝明天皇から直接複数、外様大名である長州藩をはじめとして関白以外の摂家を通じて各大名に下っているのに、さも水戸藩単独の朝廷工作による特別な下賜物であるという冤罪をかけていたのだ。所が、朝廷に足を向けて眠らない程天皇尊崇の念の厚かった為、孝明天皇に畏れ多くも意見などしようはずもない徳川斉昭は、幕政のみならず一国の危機とあっては慣例を省みず実力を元に継嗣を決めるべしと信じ公明正大に言行していたに過ぎなかった。官僚主義的な形式に凝り固まっていた上、心の狭く縮こまった井伊直弼はそれがさも外乱に乗じて慣例を破る政権のっとりかの様に勘ぐった。しかし、この時の井伊直弼による陰険な人間不信とまだ大老に突如就任して1年も経たない超初心者である幕政に於ける致命的な勘違いは、冤罪による死刑で多くの尊い忠君報国の志士の命を奪った。井伊直弼により永蟄居させられはしたが名下に虚士なく名君として智恵の高かった老公水戸斉昭が、御三家として約263年幕閣最上段の一角から見てきた政治におき当然その悲劇的な死の直前憂慮した予想の通りになった、虚礼将軍政権の見るに堪えない弱体化を、当時の初歩大老井伊直弼は全く予見できなかったのである。後にこの井伊直弼が単に慣例で立てた南紀派徳川家茂がたった20歳で、重大な内乱と外交問題の迫る最中に早世したのに対して、一橋派の徳川慶喜は幕末に於いて将軍後見職として数々の功績の後、慶応の改革で軍制を近代化した上、大政奉還の大業を成し遂げ江戸城無血開城により和を貴び、やがて明治天皇から貴族院議員として公爵に叙され徳川歴代将軍の中でも最長命の77歳まで生きながらえた。要するに、水戸尊皇派の宿願は叶い、外国による植民地化の脅威は諸侯により退けられて皇統が立てられ、現実に憂国の情のもとに徳川斉昭をはじめとした一橋派の予見した通り、年長で英明な上、外国からの内政干渉を避けるという程度に攘夷でありつつ新たに優れた近代文化を取り入れる知性をもった中庸的開国派の徳川慶喜が30歳で征夷の職責を奉還後、55歳で新たな政権へ参与する様政治は展開した。
 一方で井伊直弼の次男直憲なおのりは彦根藩で井伊家の家督を継ぎ、結局幕府を裏切り、幕府軍先鋒を勤めていたにも関わらず鳥羽伏見の戦いでは初発の大砲を幕府軍へ撃ち込んだ。つまり、井伊家の心魂は決して佐幕ではなかったのだ。歴史の中で原理的な機軸なく、譜代大名の強権を濫用して江戸幕府に於ける上位者である御三家の政権簒奪を企て、独裁者と化した大老井伊直弼の大弾圧がもたらした幕政内部の粛清と武士、侍への大迫害、そして後にその息子井伊直憲が率先して幕府を裏切った二度の逆賊の因業こそ、幕府倒壊の真因だったといえよう。この井伊家に於ける二重の裏切り、つまり先ず幕政の上座部への有無をいわさぬ独裁政による弾圧と部下らへの甚だしい粛清劇、次に幕府軍の最要職にあてられていながらあまつさえ自らの味方を迎撃するというあからさまな大逆は彦根藩井伊家が、幕末にあって決定的な謀反の系譜にある事をはっきり証左しているといえよう。
 これら正反対の系譜、つまり徹底して忠義な常陸国(茨城県)水戸藩水戸徳川家並びに武蔵国(東京都)一橋徳川家、駿河国(静岡県)徳川慶喜家に対して、二度も大逆を犯している近江国(滋賀県)彦根藩井伊家が現存している事は歴史上に記録の価値がある。歴史家の眼は、因果の調べとして彼らの末路を見ていく必要があるだろう。大老井伊直弼の独断により無勅許条約で結ばれた各地開港に於ける拙速な関税の不平等問題は後々まで尾を引き、最終的改正は1911年(明治44)第2次桂内閣外務大臣小村壽太郎による関税自主権の完全回復までもちこされたが、井伊家が犯した歴史問題としての二度までの幕府の要職とその構成員への裏切りについては何ら解決されていないと見える。
 かくして、大局観のない目先の暴政に於いて権力濫用の凄まじい弊害を示した安政の大獄は明らかに、徳なき暴君である大老井伊直弼がいわば幕政を崩壊させる第一歩として行った甚だしい疑獄による大量粛清事件だったと考えられる。
1858年3月19日(安政5年2月5日)老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るために上洛。
1858年4月25日(安政5年3月12日)廷臣八十八卿列参事件。
1858年5月3日(安政5年3月20日) 孝明天皇条約勅許を拒否。
1858年6月4日(安政5年4月23日)井伊直弼が大老就任。
1858年7月29日(安政5年6月19日)日米修好通商条約調印。
1858年8月2日(安政5年6月23日)堀田正睦、井伊直弼により老中を罷免される。徳川慶喜が井伊直弼に猛抗議。
1858年8月3日(安政5年6月24日)一橋派が一斉に不時登城で抗議。
1858年8月13日(安政5年7月5日)井伊直弼による一橋派への弾圧。
1858年9月14日(安政5年8月8日)戊午の密勅。
1858年10月11日(安政5年9月5日)安政の大獄。
1860年3月24日(安政7年3月3日)桜田門外の変。
 孝明天皇による『戊午の密勅』と、桜田義士による『斬奸趣意書』をあわせれば、桜田門外の変は朝命を奉る御三家水戸に加えて尾張をあげての尊皇の説得に応じないばかりか疑獄での大量粛清、大冤罪事件を行った大老井伊直弼へ、正直な諫死を志した水戸藩義士17名と薩摩藩義士1名が脱藩して起こす事と相成った、朝命へ最終的に応える征伐事件である、といえる。
 彦根はその後もこの明白な朝命とその配下から征伐を受けた史実の本質を理解せず、さも尊皇的な報国主義者の諫言を頑迷かの様に風説し、水戸と薩摩の脱藩士による諫死行動を、井伊直弼本人がおこなった弱腰外交のscapegoatにしていたわけだ。
 或いは又、実際に1863年8月18日の政変は朝命であったにも関わらず、当時皇軍配下にあった京都守護職である会津藩を長州勢は朝敵と呼びつけ、scapegoatに仕立てている。実際にはこの時、孝明天皇を含む皇族や公卿、薩摩藩、京都所司代にあった京の淀藩など皇軍直属の京都守護職としての会津藩を入れて、幕府配下の諸藩が政変に参加しているにも関わらず、である。
 この後、禁門の変により長州勢は薩賊会奸と述べ一層、責任転嫁が亢進する。所が、1863年8月18日の政変と禁門の変はどちらも孝明天皇の朝命の元忠実に行われたものなので、長州排除の最終責任者は必ずや急進派としての長州を疎んでいた孝明天皇なのである。
 事前につくられた偽書『倒幕の偽勅』のシナリオにそった王政復古のクーデターによって、甚だしい冤罪と偽造の過酷処罰、つまりは疑獄にかけられた将軍徳川慶喜の無実を晴らす為、会津藩ほかが率先して戦った戊辰戦争、とりわけ会津戦争での薩摩藩や長州藩、土佐藩、肥前藩、芸州藩に加えて京の公卿などを主力とした新政府軍による悲惨で一方的な総攻撃による会津藩への賊軍扱いは、この朝命と配下を悪意をもって取り違えたおもとして長州勢による責任転嫁の産物であって、結局長州勢は孝明天皇に翻弄された仕返しをなぜか当時の最も尊皇的な忠臣へ苛烈なまでに加えてきているのである。或いはこの戊辰戦争の際、長州勢がのちに同盟を組む薩摩藩を除外し、鳥羽伏見の戦いに立った桑名藩をも賊軍とそう呼ぶ所を見て取れば、この新政府側の戊辰戦争観というものは倒幕論に傾いた武士らによる卑劣な責任転嫁の産物であり、本来の朝命に従った限りの行動をしている幕府へもなお忠誠的であった尊皇佐幕派が、なぜかその最大の標的になっているのである。いいかえれば、孝明天皇から下された勅命での長州征伐と攘夷褒勅というdouble bind状態に置かれた長州勢が、この複合観念を合理化する為に大君である尊皇将軍徳川慶喜や京都守護職の会津藩といった尊皇佐幕派というべきもともと最も忠臣とされ易く皇室から嘉されて当然な相手に矛先をむけかえたのが、長州藩をはじめとした新政府軍の嫉妬からくる反動形成であり且つ明治簒奪という謀略の内情なのだ。そしておそらく終局の目的が政権奪還だった孝明天皇と明治天皇に於けるそれぞれの年齢又は個性によるのだろう全くの態度の相違はなお武家を同士討ちさせて懐柔するという朝廷お決まりの方略には一貫しており、孝明天皇の不可解な夭逝とまだ15歳だった明治天皇の御前会議による忠臣懲罰決議という深刻で信じがたい錯誤と残虐によってさえ、やがて絶対君主として成った天皇睦仁の帝国主義の世界、明治時代を用意したのである。
 この2つの日本史上、幕末に起きたscapegoat事件は井伊直弼と長州藩による深刻な読み違えであり、大量の死者含む犠牲を出した真に悲惨な冤罪事件なので、創作のない正史、確実な史実、まっとうな歴史学として明々白々に記録の価値がある。そしてどちらの濡れ衣にあたっても、表舞台の裏側には早く後白河法皇の時代に源義経を源頼朝へ討たせた史実がある通り、やまと朝廷が伝統的にもっている絶対主義統治の為の、朝命による同士討ち策謀があるのに注意が要る。日本の上にくりかえされたいわゆる源氏と平氏が表舞台に立った源平合戦のすべても、場合によっては初の大規模国外戦争の帰結として日本とアメリカが表舞台に立った太平洋戦争も、ここに含まれると考えていいだろう。桜田門外の変にあたっては水戸と彦根が表舞台に立ち、戊辰戦争にあたっては長州と会津が表舞台に立った。このどの場合にも、天皇は自らに嫌疑がかからない様に曖昧な態度を維持しながら取り巻く武人らをいわば駒として用いて裏から操り、相互に疑心暗鬼を生じさせるばかりか積極的に勅命を下して同士討ちさせており、総じて「夷を以て夷を伐つ」『後漢書』鄧寇列傳または王安石の「夷を以て夷を攻むる」『翰林侍讀學士知許州軍州事梅公神道碑』に示された様な、絶対主義的覇道を辿っているのである。そして形式的にか実質的にかに関わらずこの絶対主義統治のもとである限り、scapegoatとしての犠牲は賊軍とみなされ、天皇という覇道を重んじる人物の周辺者によって無実の者が謀議にかけられいわれのない攻撃を討伐という名義の元に受けるのだ。東京裁判に於いて天皇が持っていた軍部統帥権の責任をなすりつけられた東條英機が、あるいは現代に於いては法律とは関わりない単なる慣習としての宮内庁ルールを日本国憲法第7条国事行為の項目に基づいて公正に内閣の意向として一度例外化しようとしたばかりに疑獄にかけられそうになった小沢一郎氏がこれに該当するかもしれない。こうして隠された絶対主義としての天皇制は、現実的な日本社会に於ける権力の中にいまだに有効である事がみちびかれる。これら天皇制の悲劇と呼べる構造は、日本史の裏にある天皇原理主義的なscapegoat構造、いわば国家規模での餓鬼大将、いじめっ子、bullyである天皇とその周辺者による虐めの仕組みといえるであろう。