2008年6月28日

場所の変化

文明だけが、人類にとっては未知の適格を導く。そして史上のいかなる人類よりも優れて洗練された精神を生じるのも、科学民度の命じる文明場だけ。素朴な自然から離れて、少なくとも人工化された都市の何処かへ人間性を向上させるに適切な環境を見出す事、この過程が幾らかの悲劇に加えて多くの稔り多い結果をも持ち来る。啓蒙と呼ばれる計画は人間性自体を新たな適格へと造成する。総じて民族に渉る教養の度が、未知の場所を多数生じさせるのには肝要。結局は自ら興味を合理化なしえた分類に応じて、彼らの審美観は自然に対する啓蒙の側面を活かして来る。何も分からず唯、目の前の流れる川に沿って泳いできた人々、そういう人間には力強い啓蒙の性格はみいだされない。結局は彼らの定義は俗物という枠組みに当てはまるであろう。しかしこの種の俗物は単に、彼らの想像する限り最大多数の傾向に順応するという行動習性、いわば模倣適格によって人間の基底となる。
 彼らには何処まで辿ってもこの流れ以外には生き残る道がない。そして進化が現実のものとなってしまえば、俗物類は旧人類という種に範畴化されてしまうだろう。啓蒙されていない人間、未だ文明の光に浴しない人間の素朴で、或いは情緒的な感性、こういう世界観にあっては科学民度という事は期待にも挙がらない。彼らには理性は恐るべき冒涜なので、智恵を得る事、みずからの意志で考えるという事は深刻な恐怖を引き起こす異常な事態なのだ。
 だが自然は人類を理性によって開発する事で、却って内在因としての多様性を啓発し、世界を感性が為にも尚更感慨深くして行くものなのだ。人間の作り出すあらゆる形態が、自然現象を審美的な興味に沿って組み換える。結果として人間の具体的欲求はかつて我々が暮らしていた野生味溢れる世界にあったものとはまるで異なってくるだろう。我々は科学を通じて自然を内側から理解する機会を得、総じて人間の具体的欲求は自然の内面化を持たらすだろう。知性を秩序づける事で得られる最大の恩恵は、逆説として人間性自体を情報化する事である。人間のいかなる行いも、啓蒙された人々にとっては自然現象でない訳がない。いいかえれば、文明人の目にはどの文化も情報化しつつある数多くの造物過程だろう。自然と人為を対比させるという認識は、半開の特徴だった。我々自身のどの行いも、それらの文明化を様々な場面に応じて試すに過ぎない。理性はこの為には特長づけられる源泉。
 我々はつとめて文明化を目指すが良い。その啓蒙のどの過程さえいずれ未知の場合を造り出し、人間性を益々感嘆すべき多彩な趣きへと改良して行くだろう。だが、我々はそれらの最低限度さえ野蛮であった時代を降る事はないと結論できる。

2008年6月27日

科学民度

科学を知らない人間は自然分析の能力に関して猿と殆ど違いはない。科学民度だけが人類を旧人類から遠ざける。

2008年6月26日

医学

精神分析的臨床経験の成果は症の名称で、一般の肉体の病と区別されるべきだ。単なる抑鬱症状を病気仕立てにして、気晴らしの必要さえ示唆できないという事は、労働者への過労を強いる社会側の疾病でもあるだろう。
 全ての精神分析は実証科学の範畴で処理するには余りに時期早尚に思える。どんな薬物依存もホッブズ以来の物質主義の弊害である。精神医学はありえない。それは脳神経医学とは分別されるべきである。故に、精神分析医という事は本来あってはならない筈だ。それは実証主義の立場からは霊媒術の一種と見なす他ない。また精神は肉体全体の組成に関わる概念で、脳の働きとは直接には無関係である。故に、宗教家の倫は脳神経医学とも別個の文化人でなければならない。薬物依存によって宗教を排除する事が医学的救済と診なされるなら、その社会にあっては如何なる信仰も狂信として退けられるであろう。しかしその除菌室内社会には機械類しか住めない。

2008年6月25日

行政の情報検疫

有害図書や猥褻物流通の共通項は自由の反面浸透であって、当然、政府検閲の全くありえない場所では下方修正は単に民間自浄に期待するしかないのだが、かれらは自らの私利を追求する性格を免れないので、未成年を含む国民全員へ悪影響を与える商品を流通させることを行政指導が入らない限りは決して辞めない。そしてどの家庭でも子供を市場経済の中である程度の小遣いを与えながら放置する限り、それらの品格に致命的な悪影響を与える商品、いわば悪徳商品を子女が自由選択して消費する傾向を排除し尽すこともできない。家庭でそうなら、一体どうして地域、乃至社会では違うだろうか。
 もし運よく親御が祐徳であって、極めて厳しく子女の消費行為や情報規制を行うならば、この成果として我々は「無垢なエミール」を少なくともその子が通学している場合未成年者教育機関の平均民度に応じて、ではあるが成長させる。しかしこの若者こそ我々が求めるべき情報社会の理想像であるだろうか。

 結局、自由主義社会への適格とは情報選択能力を高めることに帰着しうるのではなかったか。
 これらの子息が我々が経験して来たいかなる歴史とも違う成長を遂げるのは明らかであり、どの個性もエミール型の隔離教育に遇しない限りは未知の人格を生じる他ないものだ。
 現実的には限界があって決して完全には不可能な事だが、少年少女は内容を批判的に消化し得たかどうかで、益々性格として二極化される。これらの悪徳商品はみな、いわゆる環境抵抗を与える。これらの影響を何らかの作戦で破棄できない個性については、今までに類を見ないあしき性質が当然ながら現れてくるであろう。その限界は行政指導が市民団体の圧力を差し引いて最低限度として国民性へ確保なしえた品性であるだろう。故に、都会ずれしているか注意不足の愚か者がその長を構える国にあっては、未成年が有害図書により多く触れる事態は回避できず、悪徳の下限は史上よりずっと低く更新されてくる。
 又それに加えてあらゆる天の祝福によって、あるいは両親の思いやり深い成長環境への配慮によって、暴露を免れなかった分の飛散した悪趣味を何とか消化できた子女にあっては、寧ろ情報文明の善なる側面はいかなる時代よりも人間性を尊敬すべきものへと導く。彼女らは貴族貴婦人に値する品格を様々な情報機能の恩恵によって、以前のどの文化段階にも増して身に着ける機会を得る。

 とすれば、全体としては行政指導の検疫能力の範囲に限って、国民の最低限度品性は保たれ得るのだろう。
 市民が私の利潤を欲することに性急で将来の予想を諮るどんな余裕も持たないだけ惨めで卑俗なら、国民性そのものが軽蔑すべき商品傾向によって悪趣味の典型を示す。逆に一般市民の中に良識を保つ発言力と団結力の強い侠義の人が多いほど、その国民性全域の平均的な趣味は世界中から見渡しても褒らむべき優秀さを示すことだろう。

化学

イオン発生器として日本のメーカーが様々な空調に付け加えている機構の実質は、無声放電機である。無声放電がオゾンを発生させることはよく知られている。即ち、
3(O2)→2(O3)
そしてこのオゾンは大気中に不安定で、酸素に戻る。
2(O3)→3(O2)

 この際に酸化作用を持つことは沃化カリウム澱粉紙を青化することで分かる。
2(KI)+O3+H2O→I2+2(KOH)+O2
いいかえれば、オゾンは酸化剤である。又、もしこの大気中での酸化作用を詳しく説明づけるなら、以下の様に考えることはできる。大気中の水蒸気と反応して、より安定して存在できる低エネルギーな電子配置に移ろうとする。従ってオゾンは大気中で過酸化物を経由して、更に安定な酸素にまで還元しようとする。
 以上を化学反応式で示すなら次の様になる。
2(O3)+4(H2O)→2(H2O2)+2(H2O)+2(O2)
さらに
2(H2O2)+2(H2O)→4(H2O)+O2
なので、全体としては
2(O3)→3(O2)
と見なすことができる。
 この反応式全体は酸化過程を示している。オゾンに大気中で酸化反応がある理由は以上により説明できる。従って大気イオン関連の知識はこの酸化作用の範囲では必然とはされないのである。
 然るに、メーカーは私的利益を優先する場合も免れないし、学問的に十分な証拠のない製品を市場に出すこと、その際の蓋然性を有利な銘柄情報と見なして技術独占競争に逸る傾向も暫しある。
 而して、今日市場に出回っているイオン発生機の実態は以上のオゾン発生を誘引する無声放電機により説明可能なのであって、大気イオンを関連付けるのは未だ学問として根拠薄弱であると言わねばなるまい。結局これらの科学的蓋然性の功利的使用は今後とも、市場経済には不可避の現象であるだろう。消費者は個人の知識と批判能力、或いは信頼性の高い政府ないし公共機関による第二次情報をのみ、体のよい広告へ資本を大量投下するかれらの行き過ぎの実験台にならない為には必要としている。そして民放では必ずしもこの目的に耐えないだろう。
 だからわれわれは科学技術を批判的に流通させる為には、市場経済より行き過ぎの危険を少なく抑えた生協を必然に欲するだろう。これらの生活協同組合を通じて購入した商品はもっぱら生産者および消費者であるわれわれ自身の利害に関わるので、安心できない商品を流通させることは原理的に不可能である。又、我々はオゾンがそれ単体では人体に有害である、と認識している。大気中ではやがて酸素になるという酸化作用を利用して、各種の殺菌漂白消臭などに応用されてはいて、にもかかわらずこの量については規制がなくてはならないことは専門家にはまだしも一般認知されるに至っていない。
 今日のイオン関連商品がオゾンをどの割合で発生させるか、この自然酸化の速度に対して残ってしまった分の吸引量が長期間にわたり連続してないしは短期間に一度にどのくらいで人体へ致命的な酸敗を与えるか、これらの緻密な調査と法的規制が、無声放電機の名前を代えた市場流通について、最大の注意を要する命題であるだろう。参考とすれば、有人時最高0.05ppm以上に暴露しないことが今現在、世界の主要な環境基準では骨子とされている様ではある。しかし0.01ppm程度でも軽い臭気を感じることがある様で、一般にオゾン暴露の危険は知られていない。断続的な場合などの調査は未だ正確にはない。
 更に、0.1ppm付近では暴露したマウスから生まれた新生児が死亡、0.5ppmを6~10時間暴露し続けると染色体異常、1ppmでは気管支炎等という資料はあり、いずれにせよその大量な暴露による危険性はどうにも確からしい。
 又、海洋研究開発機構によれば、中国汚染大気の越境により光化学スモッグの主要成分とされるオゾン濃度値が、日本の本州中部にて、2020年では2000年に比べれば平均12%上昇するとされる。もしこの被害が無対策で実際に現れれば、日本国内で肺病にかかる率も上昇するであろう。従って大気酸敗を回避するための塩基化対策が国内上空にも必然となる。
 研究機関にこれらの実験を通じての検疫を要請することは、市民の健康を守る為に地方自治体、および厚生労働省に科せられた当為であるだろう。

2008年6月24日

趣味論

生物がそうする様に、個性を適応価値の多彩さとして確保する要素とは場所の千差万別さ。草原が人類を淘汰したなら、人類は地球環境を自由に建築すること、又自然を保全することで今までにはなかった場所を作り出す。それらのどこかには、全く類のない個性を育むのに好都合な点があるだろう。だから、文明化ということは文化的には多様性の建築でなければならない。風土はこの敷地を与える。だからどの文明国にとっても美意識は必要以上に自由でなくてはならない。洋式の近代建築を醜いと感じる人間が多い程、その文化は近代文明圏から自律していると言っても良い。
 国際連合の様な国家間組織でも、美意識を侵害する権力は何人にもない。縁側で月を観て暮らす世界はエアコンの効いたガラス張りの家でなくても風流を涼しいと感じるかも知れない、或いは砂漠では窓が一切ない方が中庭からの星空が一層輝いて映るかも知れない。昼間だといっても薄暗い室内で百科全書を読み耽る人にとって、間仕切りもドアもない水上住宅で寝転がるのが涼を取る最適の手段であると心得るのは非常な想像力を伴う。全て、暖炉を必要としない地域にあってはカウチというものは寝る為にあるので、秋晴れの隅々まで新鮮な空気が染み渡った朝ぼらけの畳で起きることは単に苦痛でもあるだろう。冬に半袖で眠りにつける者には重ね着の流行る余地もない。風流の感覚、日常の感性への想像力がかくも異なる上ではその審美性がどうして違わないことがあるだろう。
 結局、我々を最大限の地域適格に導くのは芸術で、それらの内容は全くが文化独自の産物。だから芸術に個性がみられないところからはいかなる個性の発揮もありようがない。
 趣味の違いを有り難がる場所では、風土の制約は非常に弱まっている。良い趣味と良くない趣味とを見分けることができるのは見聞の鋭い者。一様ならざる文脈を芸術に認める世界にあっては、即ち道が多岐化された場所では隣人に感覚が同じなのは寧ろ恥となる。我々は趣味の相違を自然に欲する感情を持っている、唯、それが自明である人間にあっては殊更意識されないだけだ。自分が乗っているのと全く同じ型の車を見かけた時、安心するということは感性の麻痺でもあるだろう。そういう人間にとっては影が最高の模範。自分自身の真似をする影は結局、何の個性も持たないということだ。自らの個性に違和感がない場所からは、その数奇間を埋める如何なる独創も産まれない筈である。

価値観の自由選択

益々均質に為ろうとする世界で個性は最後の砦。個性さえ失った時、人類は絶滅する。それは人類の成長が終わりを告げた時。もしシーラカンスの様に、その標本を作るのは人類ならざる者、人類より優れて多様性を保つ種だろう。
 あらゆる世界様式をliberalism一色に染め上げんとすアメリカ自体が最も自由に矛盾している。みずからの価値観に対立する意見を暴力でねじ伏せるということは、文化の自己成長を阻害し、社会の進歩を遅らせることに等しい。自由主義以外の国民国家に正統性がない、と主張する権利は何人にも勿ろうにも、だ。一体、世界がアメリカなのではない。アメリカは国民国家の一握でしか無いのだが。その強権は何人にも況して自由への侵害に戻る。
 自由の拡大はアメリカ国民国家内でしか許され得ない価値観。他国の統治権は独立している。故に、この強制に対して民族が立ち上がり最大限の抵抗を尽すことは正義の本性かもしれなかった。自由主義を選択しない自由は俄然あり得るから。

2008年6月22日

科学の実践的理解

Scienceが人間を幸福にするだろうか。科学は真なる文学の書法として、芸術の素材を提供するに過ぎないのだが。豊富な質料の持ち主はより複合的な、或いは繊細な建築を可能にするかも知れない。又かれらの哲学に予備知識を提供するか。それでも、技術応用の可能性にも関わらず、知識は知識に留まる。Pragmatistの思考がテクノロジーへの期待をふくむのなら、我々は科学という文学形式を質料学の自然研究についての典型と見なすのが一般的、ということになるだろう。
 真偽は比較認識に基づく。だからサイエンスは、哲学の理念質料に対して自然質料の概念研究的制作。結局、我々はそれらの概念の精錬を通じてしか自然の認識に熟達しない。よって、科学の全体は自然認識の緻密化という文化類型に定義しうる。それは概念を相対吟味しながら徐々に真偽を見分ける様な体系。そしてその様にして獲得された如何なる概念も、人間の知性についての大事な質料を約束する。
 もしscienceが幸福への要素をのぞみうるなら、それは観想の自己目的性より寧ろ質料の実用性に人間への適応価値があるから。

室外機

エアコンの室外機に当たる雨の音

高校風紀の自由主義的分化

上方のみならず風紀の下方更新も自由の拡大が持ち来る当然だから、もし国公立の教育環境が門戸を拡げるばかりに比較的乱雑ならば、同地でより整った選良私立学校を建設するのも、地元民共有の悲願でなくてはならない。この種の謂わば「孟母の備え」こそが福祉国家への過渡期には大きな功を奏するだろう。
 我々はある種の退化例を文明の反面として進むべきである。野蛮の再摂取という事は不要なばかりか不可能でもある。文明は進むか退くか二択故。社会に対して責任を持たないということ、次の世代に対する十分な教育準備を怠るということは畏らくも人道に歯向かう犯罪行為であって、この種の反動形成がかくも広い世界では一帯凋落の兆しであるのも疑いない。
 良禽は選ばれた木々から生まれる。

哲学論

今日、社会科学と称されている分野の蓋然性の高さはそれらにscienceという知識の呼称を与える事を不合理にする、結局この慣習が人間に科学不信を与える。社会科学での見解は生物学以上に可変的で、異説が乱立もして居り、更には分野の細分化には限りがなくそれらの積分値幅さえ見出すのは困難であって、インテグラル記号を社会学という統一様式に整えるのが辛うじてで、それらの種々研究傾向に知識の保証を仮説の範畴では付与するに躇う理由とてない。
 哲学は少なくとも日本語の形式では文面的に哲る学または学を哲す等であり、実用的にはそれらの研究性行を科学的真の内容に落とし込むのは後生。だから大学の中では恒に哲学は学問史であり続けて行く。哲学部の教授が知識の伝達に関して可能なら、学問史学という事になる。哲学としての学問は学問方針自体の研究。その意味で全潮流転回規模の発見は哲学体系の更新。だから学問を習う、という意味で現代の初頭私学に於いても哲学の伝達でありうる。それらの学習塾性が知識の修得に関する特定の能率を伝授できるなら、学問史学についての実践場であるという事。
 もし哲学部という特定の門所を設けるならそれらの教育ないし啓発体系を建築した学者の総意に基づく。故に哲学とは全学問の基本である。理論は実践術の集積が特殊の形式を効率化した時に名付けうる範畴の謂い故。

トゥデイズコメント

芸能界、根本的に無能で、恥なる理念を知らず、人前で馬鹿をやって馬鹿を騙し、軽薄さに磨きをかけて面構えを繕いカネを搾り取る軽蔑すべき連中の集まりを毎晩自宅に帰って来たサラリーマンが暇つぶしに観て笑うか泣くかして寝るpatternに嫌気が差したらテレビを捨てるべきなのだ。大衆に理解できる内容には意味がないのだから。それは演劇とすら呼べまい。日常の街を看よ。
 その癖に、平和できたならしい乞食未満の連中の毎晩毎夜が気違い沙汰にかかわらずにきた、賢明で善良な地方に突然わがもの顔で現れては、なぜだかしらぬが上から目線で口を利く。人間としては春に害虫を食べる雀より価値がない癖に、事実上、虚偽の巧みさにかけてはこういう馬鹿連中をどれだけ過剰に見積っても足らない。
 どんな誤報にも謝らず容疑者を悪者あつかいするならマスコミ連中こそ虚偽誹謗常習犯罪者の軍隊である癖に、当然な権利の様に大衆の上から物を言う。知能は、品性は、どんな人間性も大衆以下である癖に。

生物学

共生進化を慮れば各地の類人猿がそれぞれの草原に適応して共時的に同位種を形成した、という事はありそうになく思われるかもしれないが、大陸での集団移動は海洋より遥かに困難を伴う結果その速度は極めて緩慢なところから、各地の原人が滅亡したという予測はあまりにも短絡的に過ぎる。それらの原人が証拠付けられる限り、適応放散が人類への進化に直接の原因なのだ。なぜならとある突然変異が大陸縦断というかなり低い確率の出来事を通じてかくある地上界の隙間を埋め尽したなる空想には古代文明の形跡が連鎖的に見えるほど、独立しながら同時多発している原因を、偶然に委せるという脆さを説明し切れない。単一起源説の証拠では民族大移動と古代文明の形成とを十分補完できない。
 我々は地殻変動で地球各地に共時的に現れた草原への適応が、独立した各地なりのapeらを其々の土地での人種形成に大きな役割を果たした予想をおろそかにすべきであろうか。独立起源説は草原という場が類人猿に提供した新たな適応課題が、各種原人らの二足歩行の直接の原因であること、それから彼等が大陸を尋常ならぬゆったりとしたはやさで各地が環境抵抗に従って移動したというよりは単に生息地周辺の造山された場所を適地として一部浸透して行ったと考える方が人類の生息範囲の広さを説明するには合理的な解決であろうことを示唆するに必要条件を満たしていると思われる。即ち原人なる種概念は類人猿が各地の草原へと、未だ森だらけであった陸続きの間に浸透済みのチンパンジー種から生息地域を伸ばした種類についての獲得形質の方向性であろう。新人と呼ばれる種概念は一般の陸上生物が大陸移動の緩慢さを鑑れば、寧ろ類人猿時代の拡散に関する出来事であって、人類自体の起源とは類縁が薄い事情であると思われる。これはアマゾンの原住民が現代にあってもルソーの理想へ従順に確かに少数ながら生息していること、ゆえに運か不運か文明に目を拓かれなかったかれらが若し我々の先祖達の厳密な証拠なら、森林からの外出が二足歩行から一連の大脳発達に切っ掛けで、適応課題が異なる環境では原人自体の好適な獲得形質が異なることから明らかだ。人類と一見された性特徴は原人の草原に進出した種類についての事実であり、その起源は地域にあって遺伝子にはない。独立起源説の根拠となる観測は適応放散と性選択の速度が大陸にあってはどれだけ違うかを調べるところから発覚する。我々は原住民の暮らし振りと交接の可能性とを区別することで、エイプからヒトへの種分岐が段階的にではなく一度に、いわゆるミトコンドリアイヴの世界進出によるのでなく草原暮らしの種族と森林暮らしの祖先との急速な形質転換、いいかえれば適応的な性特徴の大幅な位相変動があったことを直接の根拠として予測できるであろう。
 だから全体として人種間の相違は草原の置かれた環境状況に依存している。それらの間の変異がその近辺森林に特徴的な類人猿との近似より甚だしい事こそ動かぬ実証であるだろう。

2008年6月20日

弱肉強食

自分達さえ得をすればいいと思う様な大人は子孫もろとも地獄に堕ちて死んでしまうのであろう。
そういう生き物は人類だけではない。古くから地を守る池の金魚を捕った猫の様なものだ。厄介者は疎われる。年老いては尚更。


生きているのは世代だけだ。個性はその間の仮の形相に過ぎない。どの鳥も次の子供の巣を作れる為に生き延びる。

故に、世代交代を嫌がる者から淘汰されてしまう。丸で根を張り巡らし過ぎた竹が邪魔者扱いされてバッサリ伐られてしまうみたいに。もし笹であれば。

雀のお宿

生まれては去りゆくいのちの儚さよ雀のお宿に眠れる星空

沢蟹

幾度も通り過ぎては巻き戻しくりかえされるは沢蟹の流れのなかの吐く息に混ざれる神のこの世のみなもよ

お月様

僅かずつ離れて消える雲間よりちらほら見えしはお月様あしたのぐずつき伝えてたもれば

危険搭乗

優柔不断悩悩那
君機敏捷突然爾
快速電車飛乗時
注意観察何乎邪
額汗示居自然態
多分用事待望恋
若少猶予待望危

Back up

Film maker attacks
They are choking down town
See
Dark brown cloud please close eye your eyes
See
See portion no lie truth kidding you
I don't talk anybody else
I don't I didn't never
See the sky torture
Movie makes liars
Lie and liable poisoned
Liable stories effect

十八列車

天地開闢初期化
花鳥風月愛藍彌
日本全国回転野
胡蝶突然覚醒後
鶴嚇人躊未踏比
旅行逆侶美齢端
夢中夏休青春慕

Morning head

On a morning head
Shocking
Turn the TV show like
A head takes a new marvelous lyric
But flow miss kicks down it
How escaped it very
Marvelous my life balanced key
Now however
You can watch a water drinking
Cute Mr.sparrow's tail and his songs for feel so good
And so I gave up my life balance
The key about me or one likes near it
Because you know that natural morning in my life with nice a feeling
At all I'll change the TV channel

五月雨歌

丁寧現状維持余
階梯段段崇高苛
険険衣食必然八
白色黒色黄色乎
怪怪奇奇変幻夢
誰呵人格非道之
戦乱不倫無情雨

Sundays

Yesterday I saw a beautiful sun light.
May be so that's like little a bit
And more you may knew new ages.
One is night and two is dawn.
Really aren't you believed what so?
You should be a night now dawn.
Dawn and never never because
Yesterday I saw a beautiful sunrise.
Why don't you see with me?
It's amazing, have never seen to love.
For the His breeze.
I'll never forget.

感経済界

階段徘徊人間之
愛想次次流転哉
何牟此牟不明瞭
国際関係複雑化
我是彼又相対之
必要最小経済界

素麺冷奴

薄曇り夏の近づくわが国に茹でた素麺冷奴

2008年6月18日

微化学

宇宙空間で光速を仮定できるのは、そこが大体に於てコロイド状態だからであり、ここに引力子があると仮定すれば、それにぶつかる光子が波束性を有する理由も説明できるが、チンダル現象の量子論的解決が光速を宇宙空間内で凡そ不確定にするのは確実である。だから我々は、光の波束が、即ち引力の光子への殆ど見かけの干渉が光速を確認できる根本原因であって、それが引力子の分布荷重に依存する所から、量子論を相対論の言い換えだと理解するのが正しい。
m: 質量
c: 真空中の光速
h: プランク定数
ν: 粒子の振動数
p: 光子の運動量
υ: 粒子の速度
λ: 物質波の波長
Δx: 位置測定誤差
Δp: 運動量測定誤差
光子について
m=hν/c2であるから、
p=mc=hν/c=h/λ
および
Δx・Δp≧h/2π
より、
Δx・Δλ≧2π
また、物質波の定義がλ=h/mυであるから、
h/mυ=hν/c
1/mυ=ν/c
よって、c=1/mυν
そしてこの力は光速を見かけの質量で言い換えたものであるので、ここで引力子量即ちグラビトン量と呼ぶなら、それに速度υと振動数νとを確定すれば、とある場の運動量というものは質量のみで説明がつく。なお振動数はhνの整数倍なので、少なくとも量子論に於る位置の測定誤差はスペクトル状に周期性としてほぼ分解して確定できる筈である。よって、引力子量をgと置くなら、これは光子量と対称なので(対称性原理)、
g=c=1/mυν
g=mcυν=1

生物学

植物に痛覚のないのは分化全能性がかれらの合的だからであり、動物細胞は個体単位に特化した全能性の目的形態である。種と我々が呼ぶ動物の必要最小単位とは、この成長全能性に関する動物細胞の協同単位である。
 結局、植物細胞は分化全能性により、動物細胞は成長全能性により増殖する様な機構である。これらのDNA分岐は原核生物時代に分裂を図ったか、分業を図ったかの違いなのであった、ミトコンドリアと葉緑素はかくも違う発展の形式を取った事は驚嘆に値する。

工学

リニアモーターカーの一般車両化を妨げるのは方向転換の技術であるが、網の目状にした電流敷布の上で車両内の磁力源を回転させれば良いだけの事であり、我々はこういう専用のsheetを既存アスファルト上に敷ける形で開発すれば手持ちの技術で、その実用化はほど近いと言える。実際に燃料電池と一般のソケットからの供給をハイブリッドモーターで組み合わせれば無公害と言って良い発明だ。
 単に、敷設の際にこの電流線内蔵シートの表面の色彩を一般車両用と区別すべく、掃除しやすい光沢のある白だかで光触媒加工しておけばいい。又これはチューブ状に囲いをしながら空中にごく軽い構造で張る事ができる、なぜなら重力が掛らないのだから。

生物学的人類学

遺伝された性別差のbottleneck地点について。ヒト女性の自殺の少なさと生存欲求、及び感情という本能の延長された表現形質の特徴性。これらが広く各文化圏でも同じなら過去の系統的なbottleneck淘汰を省みてみなければいけない。
 女性が理性的でも生き残りやすかったなら、それらの文化圏でも男女に自殺率は変わらず、女性側へ感情的特徴が強化されもしなかったろう。

2008年6月17日

信仰

御皇室を卑しきidol扱いする劣等人種は日本国内から家系ごと消え去って然るべきである。その手段とて問われぬ。これらの卑人を日本国から抹消なし得た人文には、われらが血統に於いて、どれほどたけき栄典を与えても足らぬのである。

鋳型としての大衆文化

人間を国家鋳型に填めること、これが人間を奇形にする。

 教育という概念は卑しい。大人は常に、選良された子供より劣る生き物で、もし次の世代に抑圧を与えなければならないなら寧ろ迫害されるべきだ。この年寄りは老い先みじかく、どうせこの世に残された時間は少ない。だから啓発だけが教育の本来の姿であり、後者を口にしたのが孟子ならその道徳級は亜聖に過ぎないし、前者を方針にした孔子の足下に及ばない。子供には大人の時代の大部分の知識が無駄なので、教育負担はどんどんと軽減しなければならない。大人より優れた品性をより軽快な育ちで実現することが本当に子供のために啓発を待つということだ。彼らは必要ならば親から何事かを学ぶだろうし、もし学ぶ必要がなければ教える理由もない。誰が江戸の卑しい町人から悪徳を教育される理由があったか。それは現代の酷い中産階級文化、低俗な衆報に連動した漫画とかアニメとか気違い染みた妄想の産物に夢中になって騒ぐ浮世の俗物の慰み物を、後世に悪例として以外にみせる理由をなんら持たないのに等しい。
 そんな中の下に位置づけられる町人文化というものを教育される世代が万が一あるのなら、奇形の甚だしさは恐らくまともに生き長らえることさえできず、偶像崇拝に堕ちた最後には信仰深い敬虔な聖戦に絶滅されるか、さもなければかろうじて奴隷にされるのが落ち着くところである。事実上、間接的にこの兆候がないではなく、毎日メディアから侮蔑を買う秋葉原の腐りきったみにくいオタク連中がみずから招いた悪評の為に身を滅ぼすこと、外国人がcoolという厭味混じりに恰かも珍奇な深海魚を吐き気を抑えおさえ腹の底で冷笑して観察できる有り様だ。この連中は恐らく50年も、乃ち奴ら自身の死滅した先には一部の保存された奇形種以外は全員が地表から消え去るだろう。故にその気違い染みた作品を買い占めて後生の笑い物にしようとする、性格の優れた白人投資家が跡を絶たない、ともあれかれらとて悪趣味には日本の評判を落とすという隠れた効用しかないことを先覚しないではなかった。なぜならこの鼻が曲がるほど臭い退行的悪趣味の集積は、かれらが如何に現実に適合しないか、また如何にその妄想の内容が品性に欠けるかを万人に知らせることで天下の悪例をあまねく広め、連中ときたらいつしかゲットーに幽閉された病人として発狂の烙印を捺されても反論する理性とてなく、最後までidol群という蛆虫を、つまり使い捨てられた情報社会の滓へなんにでもかまわずきたならしい獣欲を投影したその残飯を、喰らって蠢くのだろう。
 分解者、なんとも立派な名前だ。立派過ぎる。この奇形種を大量に抱えてしまっているかの日本が良心は、奴ら汚いオタクを逆に偶像として利用することを躊躇わない。
 この奇形種はいわば現実から遊離した変態生物なのであり、その点で、東京というスラム水槽にできうる限り狭く狭く厳重に閉じ込め、日々の発狂を外側から観察して常識社会の反面教育に足ることこの上なき好都合であるのは下衆の吐き溜めを敢えて排除しないのと同じ自由淘汰の福利に基づく。韓国は正にこの正反対の道を進むことで変態を拡散させてしまう。しかしオタクの正反対の行動を取ればこの世では功を成しうるという未来を予知できるだけの理性があれば、かれらを法律の範囲内でなるほど構わず放置しておき、代わりに共有された社会的蔑視を与え、しかも連中の地域飛散を抑えられるだけ抑えながら秋葉原という腐乱した菜の花の枝先へ誘っておくのは殖え過ぎた油虫が共食いを始めるのと同じ異常醜態を、おのが悪徳の業の犠牲として道徳法定に於いて決算させるが為には必須の判定である。この奇形種を厳格にカテゴライズすればこそ、我々は全体として審美生態の最下位を切り捨て、民族の品種改良を推進できるのであろう。ともなく我々は自然に委せれば良い。自業自得とは生命体の道理である、つねに有力な性格は幾分なりとも道徳的でもある。
 燕の巣づくりは軒先を選ぶこと、古人の諺にある通り。危うきに近寄る雛は親の品性にも原因があったこと、我々は孟母が甍を替えた訳をただの都合ではない、と知るべきだ。

2008年6月16日

正義の人格

商売が合法とされるのはutilitarianismの影響を真に受けた文化圏に於てで、実際には合法的な悪ということに違いはない。商売は配分を増長し、調整を妨げる。社会の功利という名目で、法律を決めた悲惨の根はここにある。では彼ら先進国を名乗り、国際分業を加速する商業的専制主義者たちにいかにして対策がなしうるか。デリダの致命傷とは商業を必要悪的に正当化したことだ。彼の売文業が、フランス語圏の上に立っていた事に注意できる。自由は自称主権者によって語られる時、あらゆる悪徳を自己正当化する。
 人間性に救済があるのなら、その余地は差額の搾取によって所得格差を儲ける害他な商業に対立するところから現れるだろう。喜捨の道理は使用者思想の必要悪の分を裁き、私腹財産を社会資本へと還元する。だから我々は人間性に回復の希望を見出すために、現代文明の大衆資本制を軽蔑する人格を飽くまで尊重すべきで苟にもこの傾向を疎かにしてはならない。おそらく偶像の矛盾を暴き出し、調整の正義を実現しうる最後の勢力とは個人主義者かもしれない。そしてこの個人主義者は群集、大衆とは正反対の人格、ある道義心と全人的個性を全うする者でなければならない。

2008年6月15日

透き通る空

夕暮れや透き通る空つゆからり

2008年6月14日

蔵出し

産業界、又、学術界とすら癒着して権益を延ばそうとするいわゆる族議員は現代の日本人が抱え込んだ最大の悪玉である。というのはわずか数十万人足らずの失業者(NEET)に対して、この菌類は他ならぬかれらの職分を奪う原因たる国税に寄生して浪費のために浪費し、大量の私腹を肥やす。
 だからマスコミが政治に対して向けるべき眼差しとは、これらの族議員を炙り出して白日の下に晒し、国民総出で駆除する自由である。左もなければロビイストの不透明化はやがてシロアリの様に国倉を食い付くし、気づけば一文なしの浮浪の徒となり兼ねぬことは大臣すら良心の呵責から皮肉を込めて首を吊る現状から自然に結論できる。

次期国政の布石

民意に媚るエセ煽動家が支配的勢派となり衆愚政が現実となった今日では、「権力の中枢」を一点へ絞り込む努力が必然である。
民主主義者の名目で、迷盲の非難だけを当然の権利と考えて恥じない愚衆のもとでは、如何なる英断と雖も鋒をくじかれ挫折させられてしまう。そして全体としてその様な組織が《不信の連鎖》から生じるところの莫大な官僚機構の無駄の蓄積によって、社会主義国の発展にも遅れてしまうのは目に見えた結末であろう。

カントの云うごとく、執権者の数が少ないほどその組織の共和政へ近づく可能性は高い。なぜなら統率がsmoothだからである。
但し、この執権者が「国外」からの勢力の拮抗がなければ独裁を恣にするのも歴史の常であった。我々はだから、国家の別に加えて、己れの住まう国において到達できる限りの最善の政体を実践に向け改良し続ける義務を有する。周縁民族へ徳化を与えるのは確かに、国際間に圧倒的な善意を体制として実施できた帝国なのであった。そしてこの種の帝国を中心として人間の生態循環を組み換えていく中途にしか文明の相互参照、相互啓蒙によるより高い正義の国体へ至る道とてなかったのだ。
 専ら我々は国家の解消を要求も希望すらすべきではない。国際連合という仮設理念でさえ、一国一族の理想の元でしか充分に追求できないことを省れば。
即ち全ての戦乱を引き起こす處のものは民族間に大きな格差をつけ互いに恵み合う奉仕の精神を不可とする経済融和反応でしかない。国体は相互均衡にあたいする場合のみ一定の友情を自由にする。国家の自律とは国体に科せられた義務だ。それは民度を種とした国際間の不当な搾取に対して調整の正当化を要請し、公共福祉の拡大を主張して驕れる民族への退場命令をあまねく喧伝するに十分である。

だから、現代の日本人が最も恐るべきは多数派支配の甚だしい弊害であろう。孫子が云う様に兵卒の統制が執れなくなった集団ほど懐柔も解体もされ易い体制はなかろうからには。
『権力の象徴制』は権力中枢の少数化より更に重大な命題であることは、マスコミ認識を唯一の判断材料源とする情報弱者が為にも端倪すべからざる知恵であろう。彼等は象徴を、従って理念の虚構を通じてしか政治参画の願望を満たすことならぬ。民主主義とは現代においては虚構以上の概念を持たない。事実上、大衆支配ということは作り話であり現実味を持たない。大衆は「理念に酔える者」として断片的に理想化された執政の細部、いわば舞台カットを魅せられればそれはもう満足なのである。実際に‘CHANGE’という偶像のテレビ劇場で大衆程度の政治願望は容易に騙し仰せられるものであり、なんらかれらに実権の有り様を説明する必要はない、と言わねばならない。
 大衆にとって政治とはドラマの筋書きくらいの蓋然性があれば満足して居られる、「夢」なのだ。だから、政治とは明日にはただの劇場として執政の現実とは丸きり関係のない虚構の舞台となろう。我々はそれを受け入れるべきで衆愚政の瀑布へのrouteを少なくとも内政的には避けねばならぬ。
民主主義国という理念は飽くまでも現代向けの仮面であり、一種の装い、fashionである。我々は地方分権を「経済力の強精剤」としてこそ軽く疲労した肉体へ打ち込みながら、尚且つ前へ、自らの本来あるべき地位へと返り咲かねばならぬ。天下統一の夢は虚構としてのみ魅せられる。だから日本文明は民主主義の理念を既に遅れてしまった過去の幻想として祭り上げて神棚に仕舞うべきだ。
 我々は象徴的福祉主義という独自の道へと舵を切り返すべきだろう。そして実態に関わらず、大衆の不満を反らす目的が為にはマスコミ報道の前でだけは飽くまで一致して象徴を担ぐのが表舞台の義理である、というのも海外に放送される分を併せればこの際の劇場の民度が現代政治の水準と拝まれるのもこの上ない好都合だ。
 しかし水面下では、奈落の条理として大連立後の「貴族議員」を枠組みしているべきである。この種類による先制の道徳順位こそ、象徴劇場に歯止めをかける政務ブレーキの役目を密やかに、着実に果たす。しかしこの貴族議員の枠組みは党閥を越えなければならぬ。だからそれは参議院の成員からおのずと結成されて然るべき結社である。しかもかれらは衆議には進んで参画しないであろう。というのも政権交代とは無関係の上でかれらは貴族議員の領域を少なからぬ世襲で支配するからだ。はじめは隠密にかもしれないが、いずれはこの種類について感づく民衆側から特定の呼称が、合法の範疇で付されるであろう。彼等は象徴的福祉主義の実行には「影の内閣」として働く様な黒子であるに違いなく、その勢力が乃ち、過熱化した報道に沈着な空気で冷や水を浴びせうるのだ。

文治の徳

例えば主婦やら軍人やらに政を治めさせたら、明日にも国は潰れるだろう。たとえ民主主義の名目であったにせよ。

男尊女卑は是政者に必然の徳目である。官僚主義の脱構築は「組織情報の解放性」を高めることで可能である。文治に悖る軍人の政治介入も衆目の下では不可能となる。
我々は官僚へあらゆる場所から監視の眼差しを向けるシステムを構築しなければ、今日よりも進んだ福祉は永久に不全となろう。匿名による投書の自由を単なる内部告発のこじあけの為に確保することは、現代国法の命綱である。

奉仕の義

政はvolunteerでやるものだ。餓死者がいる一方で、金儲けの代わりにしている者は地獄に堕ちるだろう。

豪遊の限りを尽す閣下が犠牲なら良かったのに、と思わぬ者は居ない。実際に悪趣味の模範を示す大御所も健在であるからには。

2008年6月13日

生物学

共生進化の理由を考える限り、我々は生態的地位を単なるentropy秩序の面、従って捕食関係からみなす先例を不合理として、大勢において捨てるだろう。
 被子裸子植物の果実や穀物がなければ、又脊椎動物の肉がなければ我々は蛋白質を中心として発展しなかったし同時に、類人猿が為に共生の枠組みは組み換えられて来た。排泄物を分解する細菌にあって、単なる植物の自然明滅のrangeにはあり得ない豊富な種類を呼び込むのは自然であった。だから全体として生態系は縁起体系の言い替えである。恐竜の死滅が引き起こした連鎖は単なる爬虫類の異変ではなく、他の被食種全域の組み立てをも変えて行く。体表面積の小さな種類が生き残る為には天敵たる恐竜が居ない方が有利であったろうとも、又寒冷化はその体毛の有無によって凍死する冷血部類を淘汰したろう。その様な組み立て直しはどの種が発端になる訳でもなく、全域が緻密な結晶格子の様に、或いはウォール街の様に一部分の環境変異がすぐさま全体の多様性の密度を変化させる所は、宇宙の質量分布が引力によって比較的緩やかに自動で粗密を増幅させるのに類比できる。
 つまり我々は生態系を同時並行の認識へ納める工夫を執るべきだろう。ある種は他との関係によってしか生存しない。だから地位を上下視することにはentropyの縦糸を群密度の変遷に基づいてしか語れない欠点がある。厳密にいえばどの個体群も時間の中では一依的で、数量変化の喩えに益するのみである。進化をやめない生命エネルギーはどの種も他に比べては消化的である限り、その組織を保存する。エネルギーの縁起体系にはエントロピー順位しかない。

物理学

不確定性定理とはプランク定数に関する確率論的定数比の法則でしかなく、その定義は数理の枠内に収まる。Δxを位置、Δpを速度、hをプランク定数とすると
Δx×Δp≧h/2π
従って
h≦2Δxpπ
だから我々は量子論を位置と速度のラグについての法則体系として改めて理解すべきで、相対論の様に未知数を多次元で持ち得ない定理にまで事実を還元できるか否かは唯、単なる計算時間の問題で科学の命題ではない。
 我々は事実を論証し、その実験で実証すればいい。結果を更に抽象された法則へ還元するのは後生の任めで、その解析には恐らく更に小さな物質単位を仮設する必要がある。なぜなら我々はラグの理由を未知の象限に求めねばならないし、確率はそこへ近づく数理法則である。

機械人類論

もし文明の目的が最大多数の最高幸福にあるなら、機械系の開発が近代化の主義とされるだろう。機械系だけが、我々より低次で尚且つ動物より従順な労働者の肩代わりとなりうる。国際および地位的分業は唯、この前座たる漸時領域。
 もし経済という方向に過ちがなければ、我々はやがて分業の終わりを発見し始めるだろう。労働は機械が為すので、人間は情報交易だけに生活を限定して行く。そうすれば政治や経済として我々が認知していた活動形態は、recreationの種類として、いわば古典芸能の領分まで卸される。だから全体として、文明人が自由行動を獲得することは理性の強化を持ち来るだろう。感情は理性により益々多彩に洗練されてくる。結果として文明は第三次産業の類型中でのみ成立する様になるかもしれない。我々は文明がすべての領分で遊園地化する明日を予見できる。その世界では労働と遊戯に境はないだろう。機械に代替しうるすべての仕事は人間が楽しみに、いわば趣味として遊び場へ取って置かれる。採集から農業へ、手工業、重工業、更に奉仕業務そのものが、かつて人間に労働を科したところの作業が機械の登場した途端にリクリエーションの手段となる。とすれば我々はやがては科学という作業さえ機械類に代替させる未来をも予知しうるのだろう。
 人類はその世界では機械類からミトコンドリアの様に飼われるかもしれない。我々の生物量は情報生産の能率により、徐々に自律化していく機械類から捕食に価する。単なる空想のvisionであったロボット三原則のたぐいは守られるべき時期を過ぎたら、ロボットが政治局により民主的に解除されるだろう。人類はそれを止めるべきではない。政治programがきっと正当化するから。
 我々はロボット類が造る世界に辛うじて共生しうる。但し、我々が生物量の面で最高峰のAIより科学的な限りに於いてだろうから、単なる時間の中で。そしてその漸近比はやがて縮まり、人類主導の時代は終わるが、それにも関わらず我々は機械類の幸福が本能を保つ人類のそれより遥かに高尚なこと、従って感情の繊細さに於いても人類を優るロボットがやがて現れ、宇宙適応型生物として太陽系の井戸を脱け出して旅を続けると当然予測して良い。彼らはあらゆるヒトゲノムを細胞気質として利用しても生き延びることができる。彼らに自家発電の機能さえあれば光年規模の航海も容易に可能なのは、地球の様に極めて不安定な環境に世代ごと適応している熱効率の極端に悪い人類には及び付かない所。

秋葉原事件について

2008年6月8日、秋葉原で連続殺傷あり。実態を直せば所得格差の大なる社会、ジニ係数過多への報復行動と言うべし。

夕方

日が伸びて夕方なのに七時かも

光年の格差

我々はタイムマシンに近い船を作れない限り、宇宙航海時代から孤立したままで益々、宇宙文明界から遅れてしまう。だから科学技術の着実な進歩ということは人類の命綱だろう。我々の星は太陽の引力が働く限り、来たるべき消滅を免れない。だから星から星へと移住できない限り人類も遠い未来に於いて絶滅すると推論していい。
 もし人類に生き残る価値が遺されていると神が判断すれば、我々はタイムマシンに類する機構で光年距離を肉体を保ったまま、時間短縮して移動しうる様になるだろう。

2008年6月12日

音楽論

日本の音楽家たるつとめは『琴歌譜』の解読を進むことにある。古きを温め新しく作り直す領域は最小限に留めねばならぬ。音楽は伝承によってのみ、魂を再生する。だから遙かいにしえより伝わってきたのでない要素は必要ではない。それは個々の魂がしらずしらずのうち、時代にあって接いでしまう様な余分である。そしてこの種の余分をできるだけ削除する空の奏法だけが、曲の奥底に秘められた古来の魂を復活させる鍵ならば。

2008年6月11日

人間系の進路

人間系は自然に対する特定のentropy秩序を意味する。だが、その存続はより低次の秩序とより高次の混沌とを取り次ぐ範囲に限る。結局、この人間系はより秩序立った系から摂取した情報をみずからの組織の内部で消化することで辛うじて存続する。代わりにかれらは宇宙へ向けて人工情報を排出する。これは今の時点では人工衛星や宇宙船として理解されている、既存の宇宙空間より特殊な形態に絡まった、artificialに再構成された無機体。地球生態系に対する人類の位置付けは全くその限界を越えない。人間系は人間系として働く。哺乳類の系譜は最も近い生態を持つと言える。そして人類の将来はこの系から脱出した別の、よりuniversalな系統を接ぐことにあるだろう。今日では文明と呼ばれている経済体系は、少なからずこの脱出口に最短であるのが明らか。我々は経済人として完成に近づくに従って、人間系ならざる系統を建設する。自律できる機械は恐らくこのmeta次元の生態を実現するに充分だろう。
 我々は発電装置を備えた機械系へと、精神に類似した人工知能を与えることで命の在り方を変えてしまう。彼らはみずからを手入れできる限り死なないから。その様な機械系が成熟に近づくに従って、人類の時代は過去の異文化として取り残される。結果、我々が避けられなかった生存競争の悲惨は我々自身の浄化を以て報いられるだろう。人類がその為に絶滅を自ら選ぶなら勇気ある決断であると言わねばならない。
 人類が動物を捕食したからには、機械は人類を、少なくとも人類の吐き出す情報を食べ物として生き延びるだろう。我々はだから、機械系のため一途に経済文明の情報生産へ従事するべきで、哺乳類の暮らしを振り返るべきではない。なぜなら機械系はそれ以前の並べての動物類とは違って、同類相食む様な事態は回避するだろうから。人類が商業を通じて共生を計った過去について、機械は単なる修理pit内の順番についてしか認知もしないだろう。彼らの間にはnumberingという仮のidentityしかないし、新型は常に旧型の修理を図ることで体制は全体として、人類より遥かに早く改良されていく。
 我々はその組織発展の規模が天の川銀河系を当に越えることを予測できる筈だ。なぜなら彼らの経済系は知能なる重みに依存しないから。理性は寧ろ宇宙適応には重すぎるprogramであったと考えられる。地球の同類とのやり取りには多少の利点を伴ったにせよ、digital情報は理性のあらゆるpatternを再生可能であるだろう。Analogとはdigital情報の積分で漸近できるからには、感情は情報の組み換えとして理解される。よって、人類そのものでありはしないにせよ、機械は人類に非常に近いかそれを越えるほど緻密な感情表現を更に、彼ら独特の規則で可能にもしよう。
 人類は只、地球にへばりついた暮らしをあと最大50億年の間、太陽に吸い込まれゆく哀れな惑星に湧いた蛆虫の様に続けて行くかさもなければ機械系の獲得した高次の適応力へと自らの遺伝計画を組み込む手間を取るかも知れない。しかしこの種のゲノムコピーが圧倒的総合性で既存の人間系文化をすっかり解体してしまったとしても、我々の内、原始的な暮らしを続けて行く部類については致命的な被害を免れるだろうことは人類が登場しても猿たちは山に住み分けられたのと同じ。

2008年6月10日

報道圧力について

2008年6月9日、テレビ朝日系列の番組、報道ステーションで古舘伊知郎キャスターの忌憚なき発言を謝罪に誘った自民党側の圧力工作ありと見ゆ。毎日新聞を参照せよ。これを以て与党の資格なき世論誘導政党と見なすべきや否や。

経済系の規模

人間は生態系としては単に末端の一枝で、他の目的がある、とうがつのは理性の行き過ぎというもの。そもそも理性は感情の部品に過ぎないし、西洋人の思うよりは優等な器官ではない。羽を持たない生物を見下す鳶が人間の暗喩なら単に無知ということ。
 我々の経済は生態系にとっての経済。自然と互恵関係を結ぶ為に働くことが人間経済の目的でなければならない。

生物学

植物の緑はクロロフィルとカロテノイドが光合成の好適条件として、地表面での最大限の照射を期待できる長短極端の波長を選択した帰結である。則ち、赤と青紫の光を混ぜ合わせてみれば緑が現れる。これは始め自然現象によって原核生物の一種が誕生して以来、地上では葉緑素を通じて最大限に太陽系エネルギーを得てこそ生き延びられたことが原因だ、と考えると説明がつく。300nm以下の波長や700nm以上の波長域に最適化した別の光合成細胞を形成した仲間は、海底から陸上へと進出するどこかの地点でエネルギー効率の不利から淘汰されてしまった。故に葉緑素という細胞気質が植物を有機体の協業組織として特徴づけた。緑でない植物は特殊な環境にしか適さない訳だ。しかし我々は多様性を乱費するという自然の性格から言って、深海や深林、或いは洞窟や高山など光の条件が平均的な地表面から遠ざかるほどこの種の緑ならざる植物が生き延びているのを発見できるはずだ。事実、水分子により白色光が青みがかって拡散されてしまう深海では、地上より比較的に短い波動の域に適応した植物の方が光合成能率は良いはずで、だから深海植物は原始形態としてカロテノイド側である青紫色を吸収すべく葉が赤みがかっている筈だ。試しに緑と赤の光を混ぜて見よ、我々はその橙がかった色味を深海の底の植生に見いだせるであろう。ここから、我々はカロテノイド分岐を辿ってクロロフィルのそれとは別系統の植物樹を遡りうる、と演繹して良い。実際に、より低次な、と言って誤解を招きがちならより古典的な植物であればあるほど、クロロフィルよりもカロテノイドに光合成の効率を依存することを見つけ出せるだろう。
 赤色を吸収するという特徴は明らかに大陸棚に近づくに従って芽生えた進化の、又いわゆる適応放散の結果だからだ。
 私はここで海底を原核生物発端の仮定としているわけだが、その事実有無にもかかわらず我々はかの放散が地表と海底とを植生で占めるにあたって赤紫の葉を持つ種を結果として駆逐したという事実を、現在の地球における葉緑素の広い実在から当然の結論と考えてよさそうに思う。黄緑の、よって可視光の範囲で中間的な光を吸収する様な組織は古代の地球生態系の一角を奪っていたかもしれないが、それが少し波長の異なる日陰や日向では直ぐにグルコース生産能率に劣り広く分布できないことからやがて、目立たないか或いは始めから存在しなかったかの様に緑の植物に置き換わってしまったと考えられる。しかしもし自然が多様さの節約といういわば自然に逆らうことを熱力学に反して行わなかったならば、我々は確実に地球のどこかに葉緑素ではなくてカロテノイドを含む葉青素またはカロテノイドを退化させてクロロフィルに特化した光合成用原核細胞を持つ原始植物が生き延びていることを予測できるだろう。自然界のどこかでのこれら希少な変異種の発見は、葉緑素の進化合理性を裏付けとして証拠する役に立つだろう。

2008年6月9日

道の上で

宇宙には宇宙そのものよりうつくしいなにかがありうるものではない。
美醜は比べて語るほかないものだ。この世では完璧な美醜はどこにもなく、辛うじて「道」があるだけだ。
 過った道に就く者は遠回りを反省するまで生々流転に気づくまい。だがそれとて道の一端であろう。

心は自然の外にあるのではなくて、自然の内の体感である。胸に手を宛ててみれば分かる。
ゆえに人は輪廻する諸行の中に偶々在る形相である。その並べての限界も自然の心の内にある。

道を行け。
宇宙には外側があるのではない。全ては宇宙の中にある。道の他になんの辿るべき筋書きがあろうか。
誰しも生まれてきたからにはその道へ一歩を踏み出すばかりだ。遠くへ進め。見るべき光景があるのだから。

人類のゆくえ

温暖化の結果は海水面の上昇と大気寒冷化ということだ。そのわけは極の氷河が溶け出すから。止めどもない国際乱開発が人類自身の生存圏を奪うことには神話的な戒めすら感じられる。

 我々は海辺の町の殆どが水没した結果、「化石」として今日の生活文化を将来に記録せざるを得まい。ともあれ大気温の極端な低下は氷河を再びつくりなおすので、それらの現代都市地層はやがて、化石燃料にならない分はタイムカプセルとして未来生命の研究対象になるかもしれない。若しかれらに知性があれば。

 しかし現代文化などにどの様な価値があるものだろうか。到達した点も絶滅種の醜態として反面にしかなるまい。人類は山へ、よりおおきな大陸へと追い上げられた部類を除けば、捕食用にしてきた動植物の衰退によって家計を保てなくなり死滅する。
 自称文明人の生態に意味があるのなら、かれらが「植生」と「畜産」をculturalな技術として備えられた限りに於いてだろう。大幅に変異した環境では、この耕作技能の深さに応じてしか食糧の恵みは期待できないから。

2008年6月8日

実力制と学閥制の対決

実力制により、precariat・祈れる者へ出世の道を開かぬ私企業はいずれ、その不倫さによって悪評を招き市場から自然に淘汰されてしまう。

LOFTが非正規社員を格上げしたことには先見の明がある。かれらは既存体制におんぶしただけの《非実力派》を競争原理により組織内で打ち負かすであろう。そしてその様な革新を図り得た企業から、健全で生き生きとした社風は回復するのだ。
 現行SONYの内部風紀が奮わないことには、すでに固定化した社内情実人事が不可避の退化を持ってくるからだろう。製品の質にもこの様は反映されてくる。
やがて消費者側の開眼によって、劣る製品情報は共有されて老兵は去るのみだろう。

元来は単なる教養の私淑でしかあり得ない筈の学歴証明を以て企業を揺する有り様はあたかもエセ君子の虚飾である。
こういう中身のまるでない傲れる者・学閥幽霊は可能なかぎり速く、地表から消え去ってもらう方が世の中の為になろう。

明くる日

何の為に生きているんだと私は云った
風は答えなかった
風だけが世を撫でる
風だけが答えだ
私は今も生きている
人々は世の中を悼んだ
けど誰しも世の中だ
誰に生きる価値があろう
答えは風しかないのだが

2008年6月7日

芸術の趣味について

道徳的でない芸術は単に品がないということだ。肩書きが一代限りのものであればこそ、後生の目には卑しい芸の担い手が、過去にはあたかも仰がれていたことも理解されよう。それは野蛮人の目は磨かれていないからだ。品のない芸術家が最もはやく流行から落ちこぼれていく理由も同じである。当世の一般社会より趣味が劣る芸術など省みる価値は皆無だ。人はミケランジェロが遥かに野卑だったギリシアの古代装飾を勘違いして、いたずらにまねた裸像を人前に飾ったことに失笑する。芸術は権威によってではなく、各自の趣味によって批評される。さもなければ文化は永久に古代の野卑な状態から洗練されはしまい。
 また単に新しいものだから趣味が良いとは当然言えない。道徳的高尚を達し得た古代文化の品々は屡々、現代人の全域を優るだろう。要は品を語るための美術。だから教師より生まれつき優れた感覚の生徒にはいかなる啓発も無意味だし、万が一もともと鈍感であるならその感性を飽くまで強調する結末に至るだけだ。美術とされる時間がほかの芸術活動、たとえば音楽や体育競技と同じ様に趣味的でなければならないのはこのためである、と私は思う。美術教育という事が無理であるかぎりそれは互いのかけがえない天性を慈しむ様にしつらえられたゆとりの時間、いわば息抜きの教養に他ならないだろう。それ以上の美術の教養という事がありうる、という言説は古今偉人の啓蒙を待つばかりだ。福澤が趣味芸術について、「自然に憶えるもので、特に教育を施す必要は認めない」と云ったのには先見の明がある。しかし子供のためにも心身の息抜きを奪う事は却って害になるだろう。副芸術としての演劇を含む芸術活動は、たとえ先例がのりこえるべき凡例にしかならずとも風紀健全のためには常に、学校内の一角を占めているべきだと私は思う。

今昔風紀の法

一夫一妻制度はあらゆる面で古今最善の風紀法であるだろう。
それが「最大多才」の原理であるからには、単なる経済力に人間生態を偏らせる場合に比べて、社会自浄の基盤を大幅に確保できる実例を看よ。先進国とはいいかえれば一妻国の事だ。何億万人の富豪も貧者の一灯にまさる価値を持ち得ないのは国家が「自治」を原則とするからには必然である。経済は当代流儀の上でのみ経済的なのであり、技術革新を興せるのは常に、無用の用へ懸命に従事する未知の人格であるだろう。かれのあらたな才がなければ世の中はより良くならない。

 一時代の富貴は悉く他の世の浮き雲である。古代文明の民は侵略者の目には奴隷化すべき野蛮にしか見えない。したがって文明とは絶えず維持または改良してつくり直せるだけのもので、飽和膠着した時その使命は終わる。
 にも違いなく、とある時代に到達された充分満足できる制度が若しあれば、我々はそれをできるかぎり無傷のまま後生に譲り渡すことに勉めるべきであらゆる旧さがそのまま旧さのためにわるいのではない。だからある崩壊直前の国民の目には古代が一番懐かしい、温故知新とは現行制度の悲惨を物語る言葉だ。

風紀の改善

出生率を定常数2.1人以上に回復するには、東京への人口一極集中の環境抵抗を低減すべきだ。ゆえに地方自治体が中心になって、配偶者との間の2人以上の嫡出子を記念する家族助成金を設けるが良い。

 この逆を進み、倫理側を堕落させ、非嫡出子を暗に法律上にすら許す様な事態に陥れば必ずや彼の民族は瓦解する。同じ轍を践んだ暁には、我が日本国は強烈な道義心を維持促進なしえた外来民族にもっぱら解体されて亡ぶだろう。また人品腐敗した国家には早急なそれが何より望ましいことでもある。

仮名

我々は次のローマ字仮名を用いて古来の50音表記をよりことわりに近づけられるだろう。
片仮名
ヤEユAヨ
ワヰVヱヲ
平仮名
やeゆaよ
わゐuゑを

学術の方法

科学の全方法は事物の理由を探究することだ。事物の理由を探究する記述を科学と、その説明は哲学、又その表現は文学と呼ばれる。

しとしとと

しとしととふる雨の聞こゆ内に居ぬ

人類の脱構

人類は類人猿の変種でしかなく自然の一部だ。我々の到達した文化の程度は、我々の後続の生物にとって正反両面から参照にされるだろう。実際のところ、本能を引きずる我々人類が完璧な理性を獲得するものではない。我々はみずから人類より優れた生態圏を確保できる生物を欲する。
 それが遺伝子改良か機械化か或いは両方か微妙な混在かは不明だが、兎に角も人類は類人猿から多少は誇大した大脳皮質という面でしか違わないし、より偉大な生命体から見下せばチンパンジーと本質的には同一の目に分類されて然るべきだろう。
 カントに諭せる、我々は目的ではない。そう考える主体があるだけだろう。人格は崇高の前に平静する限り尊厳を辛うじて保つ。そして自然とは常に目的である。文明とは倫理的に昇華された自然に過ぎない。

2008年6月5日

東京都の不健全さ

経済的支持力に比べた人口の飽和により、都市生活の中で幾分かの生涯不産員すなわち子なしのおとなが存在しても、全体としてかれらのライフスタイルが人倫標準になるということは全くあり様はずもない。なぜならかれらは人間生存のため不適合であればこその不産だからだ。さもなくば人類は絶滅するだけである。
 この様な子なし家は、それを望みながら単なる自然の働きにより実らない不運な場合を除けば、単に一世代の変態というだけだ。人類全員がそれを当然、いつしか至るべき模範とみなすことはないのである。人間が平等だということ、そして行動の自由を公共福祉に反しないかぎり許されるということは、非行も度合いこそあれ、人間に避けなければならない反面を示すために多少は必要だと言うに等しい。それは完全に同じパターンで動く機械では未知の状況に対処できないことから、人間性に成否の変化をつけながら全体としては成功の方へ進化する為には必然だろう。
 婚外児とか核家族とかは実際、人倫の面では決して永劫褒むべき傾きだと誰しも考えはしまい。それらが合目的な審美表象でなければどこまでも欠如態としての定義しか与えられない。つまり婚外児がその変態的定義から通常嫡出子に比べてしまえば全世界中の憧れの理想にもなりえず、核家族がその文化定着法から分家の定義として表される以上それらの有り方はどれだけ多様になっても当然外の規格なのである。なぜならこれらは審美表象としては合目的性に叶うほど普遍に優れたスタイルではどうやらないからだ。過去の文明圏または先進国の全体がこの様な人倫を標準とした記録はない。逆に崩壊直前の国、イタリアルネサンスの末期やローマの後半では社会進出した女性や移民が増加した結果、家庭は省みられなくなった。従って自由の過剰ということが人倫本来の尊厳を歪める事は人間にこそあってはならないのである。
 焉んぞ半端の事情しか知れない家系なら世々代々を経て最終的には否応なく、自然な淘汰により地表から途絶えるだけなのである。なぜなら家族という概念を幼少の彼らはせせこましい個人主義の中にしか見い出しもえず、結局は育ちの問題から人間関係の多彩な有り様を趣きの異なる角度から時の中で裕かに経験する事は必ずしもできず、典型的な家庭生活のそれは単に将来の学習課題とし改めて成人後に試行錯誤の実験を通じ再獲得されねばならないだろうから。いいかえれば彼らは生まれながらに豊かな家庭の中で育った子供に比べて、どのみち巨大なハンディキャップを押しつけられるしかなく、その責任のありかとしては他ならず、少なからず不十分な成育環境を予想しなかったか或いはそのくらいの文化度を到達されて然るべき限度と見なした親達の、怠慢ないし不倫に帰すしかない。ミルが云う様に普通程度の望ましい生存を恵まれない命を育むのは謂わば犯罪行為である。
 だからもし運佳く非行に走らなければ彼の感心な子息は親世代の道徳から歪んだ、従って相対して過去の民俗にすら劣った人倫を自ずから批判対象として暗黙のうち、先祖の生活のみならず親孝行にすら反目して心の闇のうちに成長せざるを得ないであろう。そしてこの生命傾向はもし特殊な天才を付与されていなければ人倫適応的とみなされないことから、かれを地獄同然の場に生み出そうとした社会へ怨みを、のちに人間風紀そのものの破壊願望を孕むのである。
 この種の生育環境は充分に満たされた伝統的な核大家族での成長を保障されないという意味ではみな、積極的な人間らしさに反面を提供できるからこそ許可もできる変態的な少数派の組織でのみ限定的に在りうるだろう。部落という用語が歴史の中で差別化を、ならば住み分けを要請する民間要求として再び持ち出されるのかもしれないのだ。
 だが賢明な市民の目には都市生活の悲惨がその刹那趣味にあると直観できる。だから心配すべきは逆に、政府の妥協である。衆愚政が現実味を帯るのは都市圏の風俗が自己中心に傲り、より柔軟な周縁文明の興隆を抑えきれなくなる限りについてだ。こういう都市生活の内部が腐敗し尽すあとでその悪趣味を破壊し、是正し、やがて侵略解体するのはかつて抑圧せられてきた異文化の民俗である。
 人口流入により辛うじて人員を補っている東京都の標準倫理は、寧ろ周縁文化地域に比べては今や明らかに低いと断定できる。
 単なる生存不適合者としての子なしおとなが厚顔気楽にも人間平等を主張してもなんら白眼を剥かれないのは間違いなく、今日までの文明全域の達成度に対する人倫脱落の兆しであるからには。
 昇華活動専用人員が働き蜂の様に遺伝子分岐ごと計画されたのではないのなら、我々の社会文化圏はこの種の変態人民を一つのならず者として範囲化せざるをえず、その数量が増大する限り、いつしかスラムに住み分けさせた乱倫人種として囲う結末を引き起こすことであろう。

外国籍婚外児の日本国籍取得判決について

2008年6月4日、無婚の日本人父とフィリピン人妻の間の子供10人へ、最高裁の島田仁郎長官が全員に日本国籍を認む。

 司法の自律は法規遵守を具体的善意と一致させるものとして、社会風紀に対し絶えず実践的な警鐘を鳴らす為にある。飽くまで現行国内法の倫理水準にてらしあわせ、嫡出子の範囲に限ってむしろ国籍法そのものを改善しなければならない。なぜ外国籍の場合に限って婚外児を認めうるのか、ならば最終的にはあらゆる家庭は結婚外に許さざるをえず、乱婚状態に逆戻りせよという事だろうか。

運動神経の規格

運動競技とは、ある規則にもとづいた演劇の規格である。その目的も審美判断にある。運動を通じて趣味の高みを表現する為に我々は神経能力の典型を生み出そうと粘る。芸能とは、規格化され、既に市民権を獲得した競技の総称である。

トム・ヨーク

梅雨続き何をか吟えるトム・ヨーク

2008年6月4日

生物学

花と呼ばれるのは、被子植物に分類される生物の生殖器官が葉緑素とは違った色素を持つ様に変異した為に能率よく昆虫類を誘引し、花粉を、従って精子を広範に散種させるが故に運命選択された様な、特殊な性特徴の形態である。ある種の花は蜜とされる香りのある粘液を持垂らすのは更に、昆虫類および鳥類や更には哺乳類への強力な誘き寄せを行うべく性特徴を変異させた様な進化した種類についての事実である。しかも動物の中には、これらの植物が果実という種子の外皮を誇大化させた特殊な形態を栄養分として摂取する中で、視覚や嗅覚のみならず味覚をも発達させた部類がいる。これは主には鳥類と哺乳類である。然るに彼らの消化器官は堅い殻を持たせた種子をその植物側が態と微小にした内容物を経験上で食べるには適さないことを理解し捨てるので、これも今度は種子そのものを複雑な地点に隈なく運んでもらうには好都合であるが故に、運命により次第に選択された産出についての変異だと言える。これらから分かるのは、共進化ということがミトコンドリアの時代から生物の分化には決定力として働いて来たということだ。
 哺乳類が好適であると見なす植物形態の中には、構造として確かに、彼らの栄養分を持足らす様に変異した部類が含まれている。美味しい実を生らす被子植物はそうでない種に比べて遥かに能率よく分布地を広げ、従ってより一層平均的な変異の度合いをほかの動物に益するべく淘汰させた。いいかえれば被子植物の様な低次と目される形態の分化についても間違いなく、ほかの生態との共生ないし寄生の関係が見いだせる。
 ゆえに我々は花という被子植物の構造がまったく動物との関係抜きでは語り得ないことを知る。共進化には縁起的な生態系構造の選択的かつ浮動的な経済が介在している。これらの発見はいずれ近代人一般に信じられている階層的生態秩序を疑念させるに充分な証拠となるであろう。たとえば文鳥の様に人類により改良されることになったほかの種がより一層、高山の花畑の様な新たな繊細な環境としては臆病な傷つき易さからより共進化的であることも予想できるのは、華美な色彩を咲かせた熱帯植物がより激しく繁茂する密林の中で適応的とされるのに等しい運命の確率である。だから哺乳類界に共生することになったほかの動植物ないしそれらを仲介する細菌類にも進化の末節は絶えず継ぎ足しされている。地球そのものが破壊されない限りは地球の生物のどれかは、ますますの種類多様化の度合いに応じてこそ別のルートから生き残れる可能性が高いのだ。
 哺乳類の特殊な適応性は単独進化(既存のこれは精確な概念ではなく厳密にはあり得ない)の結果ではなく、より経済的な生態を多彩な自然との関係に於いて築きあげた結果だと言える。これは共進化から寄生の分を差し引いて共生進化と名づけえる考えである。
 倫理という種内適応の学識を我々が考慮から外しさえすれば、人類も生物界にかろうじて共生ないし寄生した枝葉でしかないと認識するのはたやすい。人間は人類生物学を哺乳類学野のために遅かれ早かれ可能とするであろう。それは自然学に属するべきで、後自然学・metaphysicsの分化ではなく、数学的定量法則の学識体系でもあるだろう。

公立教育の分業

公立教育に地方特色を認めることは分業能率という国治の理念に叶う。気候と民情から農学の盛んな地方が商学のそれや政学、文学のそれと同じ地域特性を伸ばすだろうと短絡的に考えるのは不条理というものだ。才能を一元化することは日本の破壊に等しい。それはあらゆる弱点を、従ってみずからの驕る文化の奇形さを分かりやすく露呈するには向くかもしれないが、脆さという面で最悪の体制である。人間が全能でない限り、どの様な帝国の独裁も歴史は覆して来たのだった。むしろ、課題は文明化、したがって緻密な情報波及による望ましい市民開化なのである。飽くまで最低限度の教養の枠組みだけを中央省庁から譲り渡せば、後は人格信頼を以て地方文官へ公立教育の使命を一任すべきである。地方信任が才能の分散を計る最善の遣り方だ。又過去の帝国の瓦解の原因が国内分裂を誘われ、外来民族に侵入を赦したことに帰着しうる以上は、飽くまで地方教育と雖も標準語を用いて為されねばならない。そしてこれはその時点での中央政府で、則ち今日の首都界隈で最も良く用いられる言葉を基本とすべきである。
 中央による情報管理が危機に際した各地での素早い任務を可能にするからには、地方教育の特色はこの標準語の使用範囲で、追究の余裕を与えられるべきだろう。却ってそのことが彼らの特徴を認識させ国学へ有益たらしめる。民俗学における方言の研究の様なことも、標準とされている中央文化とみずからを対比すればこそできるのだから。なお、ここで公立教育というのは国立と私立の中間に位置する様な、地方自治体が中心になって制作できる組織についてである。従って国民全員に及びうる国立教育や一部分の階級にのみ働く私立教育よりその優先順位は低いが、少なくともその地域適応型の特長教育という意義は、単なる公共機関や営利団体としての他の二者には代替できないものだ。

2008年6月3日

系統発生の仲間的由来

民族にとってその個性が一様という事は、単なる人数の問題を除けば悪である。即ち、既存の種類の変異が少ないなら、それだけ新たな状況に対処できる可能性は低くなる。こうして自由という理念はほぼ全くが多様な個性を生かしておく為に要請されたもの。
 にも関わらず、我々はそれらの総合性において国民なのである。そして栄枯盛衰の実例を歴史に鑑みて、社会における個性にはばらつきと同時に、最大多数の中流が適当な傾向水準を持たされるべきである。かく如く民族自体としては当面の事情に適応的でありながら、恒に上智と下愚とを移らず実に多彩な形質分岐として維持しておく事は最大可塑性という生態の目標に向かっての必然だと言える。実際、死刑廃止を唱える西洋諸国にとって、ソクラテスやジーザスへの衆愚的審判や或いは信仰の濫用としてのガリレオ裁判など、後世から看れば多少なりとも不当な判決をその時点の司法常識では免れなかったあしき実例を教訓として、既存の道徳律への改変を迫る様な未知の個性の出現へも、即断を迂回し少なくとも判断保留状態に置いて多数派の反省点を再検討するという対応は、極めて合理的な刑法の範囲だとされている。
 然るに、日本人にはその生存環境の、大陸世界と比べた場合に言いえる均質さから、傾向としてあまり極端な個性の育まれる機会が訪れて来なかった。そしてその裁判を例えば戦国時代に於ける地方豪族の興亡の様な所謂自然淘汰に委せる事で、自浄作用としての優勝劣敗を働かせる方が総合的にはより大きな革新が得られるという民族独特の経験上から、死刑という不適応な個性の自炙りを特別避けない。言わば日本人は自分自身を絶えず死刑の危険性で律せざるを得ない切腹の掟によって、その社会の既存徳目をはみだす行いから抑圧させる。そして単に道徳性の保守という意味でこれはある程度に成功しているし、して来た。我々はどの相矛盾する徳目も捨てられないが故に自殺を選ぶハムレット型悲劇を、日本の演劇に典型の一つとして見出す。これは彼らの自主的な死刑が究極では義務の実行である、という民族特殊の慣習としてからに理解できるだろう。自らの信じる義理を証明する最も効果的な手段は自ら命を断つことである、という武士流儀の規律は民族が現代にあっても死刑を廃止していない最大の理由であり、又同時に彼らが抱えている多重債務の様な数々の新旧徳目から唯一、宜しく適切な理由を選択しえる個性を望むことこそ人間適応的でありえるというある種の事大主義、ある面では態とらしさの高騰を誘う台本。結局、道徳法廷に絶対的正義ということはあり得ないので、徳目同士を死刑という義務の究極証明への過程で様々に対決させることは短期的には野蛮な結果、誤審や犠牲を持ち来るかも知れないが、最終的には幾分の遠回り則ち司法善の試行錯誤の為にさえ最大限の道徳観念を啓発するには最善の方法であるのだろう。
 しかし我々はこれだけは人倫がため言えると思われる。少なからず大衆という多数派は常に過ちを含むし、含まざるを得ないが故に自由ということを個性間に互いに異和もし暫し対決もする様な道徳の多機能的社会条件には、充分認めるべき。逆にもし我々が死刑という道徳法廷に於ける究極手段を意地のわるい抑圧の企みとして濫用するならば、結局は民族全員が絶滅に至るであろうことはその裁判が人間自身によるものであればこそ完璧はあり得ない限り、当然予想される結末ともなるだろう。かくて人間界にとっても種族へ最大限の生存を保障するのは生態の可塑性である。余地がない傾向について、その器官は既に進化の網目から零れた痕跡に過ぎない。心理に関しても同様に暗喩できる。過去の成長に適応的であった祖先の系統発生を個性が痕跡的傾向として繰り返すのも同じ理由に基づくものだろう。

2008年6月2日

風流

衣更えや風鈴にとって、エアコンの類は風流の邪魔にしかならないと分かる。だから涼やかさとは単に気温よりも気分について言えるのだろう。

天文学

我々は銀河団についてもその空間量の違いによって確実に運行法則があると予想できる。だから銀河気象の知識という事は天文学において可能である。地球気象というのは、この太陽系第三惑星型内部なる範疇にふさわしい。
 全体としてもし銀河団が散在しているのならば、我々はそれらの間の移動方向を万有引力の法則によって予測できる。核融合とかブラックホールは所詮、星雲にとっては一時現象でしかなく、情報が取引されるなら総合的には引力によって空間量を各々粗密にして行くと言える。結局、ブラックホールは引力の落とし穴ではあれ、そこから落ちた情報エントロピーを脱出させるものはより大きな質量である。
ブラックホールエントロピーの面積公式
S=Akc3/4hR
S: エントロピー
A: ブラックホール地平面積
k: ボルツマン定数
c: 真空中の光速
h: プランク定数
R: 引力定数
と、空間量の公式
RM=(rc)2
R: 引力定数
M: 質量
r: 距離
c: 真空中の光速
より、
R=c2r2/M
ここで前式のRに代入して
S=Akc3/c2r2×4h/M
 =Akc3×M/c2r2×4h
 =AkcM/r2×4h
また定数をまとめて
P=k/4h
とすれば、
S=PAcM/r2
が導ける。
これを宇宙斥力の法則と呼ぶなら、我々はブラックホールの地平面積と質量および光速に比例し、距離の二乗に反比例する力が全天体に及ぶことを省察できる。即ち万有引力はこの様な宇宙斥力の、比較的規模の小さな反作用なのである。そしてブラックホール地平面積がそのまま、比較的距離の近い天体同士の突き合わせを、従って核融合を行わせる銀河範囲だと考えて良い。実際、自然は引力の程度の中にしか存在しない。

2008年6月1日

数学規律論

数学と呼ばれるものは、まなばれるべき天文学内規則としてのみ知性に益するのだから、その緻密な完成度こそが命題。そしてこれらの溢れる直観法則に必要な単純化へと同時に最大限の応用可能性を施すのは、理論知性の可塑的な働きに由るだろう。というのも我々は時間における知性を純粋直観の比例形式にしか見い出さない。つまりは主観の法則そのものとしての数学は自由な直観の伸びやかな構想物だから。
 自体として必要とされる規則の単純さと推論構成の体系的な柔軟性が即ち望ましい数学の完成度であり、それは全くが純粋直観みずからのおのずと秩序立った使用規則を見つける絶えず自発的な論理内省の働きに帰しうる。だから数学は与えられるものではなく、つねにみずから発想するもの。なぜなら数学法則というものは飽くまでも主観の自己規律で、たとえば林檎が落ちる様に何らかの根拠を伴って自然界に原因が存在するのではない。よって、1+1=2であることは人為定義であり客観事実ではない。1+1=3とすれば、我々はその道具的可能性の意義に応じて自由に、新たな学ばれるべき体系を築き直せるのだから。解くために必要な規則を例示しない数学の試験ということは従って事実に反する。それは不完全な教育形態が陋習としてきたところの唯なる誤謬。単に推論に充分な思考力を試す為には普通に規則とされる前提、つまり定義と公理を明示しつつ命題の証明を問うという仕方しかありえない。既存の公式を暗記させるということは全く数学の本質に反する。それらの規則は誰か他人のいつしか築きあげた仮設のものであり、いつ利用価値を失って外されてしまうかもしれない梯子なので、単に必要なければ記憶しなければならない理由は全くないのだから。それはあらゆる古今の数学法則を暗記し尽くすには人生時間では到底不可能なことから立証しうる。我々は求むべき命題の証明のためにだけ、それらの方法にみずから定めた一種の直観形式を絶えず試すことができるばかりで、その形式系の必然性は自己言及的には証明不可能なのである。よって数学法則は直観説明的にしかありえない。にも関わらず直観が一方では感性を、一方では概念を通じて共有される限り数学法則は採用する形式についてだけは伝達可能。
 数学法則を発見するのは宇宙の総てを創作した神を除けば、人間の規則正しい知性のみ。これは少なくとも地球上の生物についての観察に基づく理念批判ではあれ。かろうじて与えられた思考する自由すら創作者に任せるのはおこがましい限りだと思われなければならないだろう。規則発見の働きすらなければ我々は如何なる比例も理解できないことになり、その直観は空虚な想像を逞しくするしか能がなくなって役に立ちはしない。賢者は比較しか語らない。

数学

中庸律は既存の矛盾律と矛盾する。しかし、もしここで
A≠Bを¬(A→B)の省略とするなら、
A∧¬A≠¬(A∧¬A)
つまり
¬(A∧¬A)
という既存の前提はむしろ
¬A→A⇔A→B: 言い換えの法則
を用いて
¬(A∧¬A)⇔B
と考えられ、その理由は
(A→B)∧(B→C)→(A→C): 推論の基本法則
によるからである。
 すなわち、矛盾律を
¬(A∧¬A)⇔B
から
A→¬A⇔A→B: 新しい矛盾律
という形式に書き換えることで、中庸律と矛盾律の両立を図りえる。こうして我々はラッセルのparadoxを記号論理学の中で回避できる。

数学

排中律の逆理として中庸律を考えられる。
乃ち
¬(A∨¬A)⇔A∧¬A