商売が合法とされるのはutilitarianismの影響を真に受けた文化圏に於てで、実際には合法的な悪ということに違いはない。商売は配分を増長し、調整を妨げる。社会の功利という名目で、法律を決めた悲惨の根はここにある。では彼ら先進国を名乗り、国際分業を加速する商業的専制主義者たちにいかにして対策がなしうるか。デリダの致命傷とは商業を必要悪的に正当化したことだ。彼の売文業が、フランス語圏の上に立っていた事に注意できる。自由は自称主権者によって語られる時、あらゆる悪徳を自己正当化する。
人間性に救済があるのなら、その余地は差額の搾取によって所得格差を儲ける害他な商業に対立するところから現れるだろう。喜捨の道理は使用者思想の必要悪の分を裁き、私腹財産を社会資本へと還元する。だから我々は人間性に回復の希望を見出すために、現代文明の大衆資本制を軽蔑する人格を飽くまで尊重すべきで苟にもこの傾向を疎かにしてはならない。おそらく偶像の矛盾を暴き出し、調整の正義を実現しうる最後の勢力とは個人主義者かもしれない。そしてこの個人主義者は群集、大衆とは正反対の人格、ある道義心と全人的個性を全うする者でなければならない。