自分がこの世で最も重要な原則の1つと思うのは、執拗に重要な物事の核心に迫っていく仕事の極め方で、今まで自分は非常に軽薄な偽物を沢山見たが、そういう人達に着いている連中も同等に軽蔑すべき偽物だった。
本物は常に超一握りいて、その人達は単に命を丸ごと仕事に預けてしまっているのだ。
自分は15の時点で命はもう捨ててしまい、少なくとも絵画の分野に全命の重量を乗っけてそれ以後は、周りからのあらゆる妨害に耐え抜くだけの期間が長く続いた。
なぜ周りが自分の仕事、つまり絵画制作を邪魔してきたかだが、彼らは本気で画を描いていない。彼らがやってるのは地位の取り合いだった。
この世の99%の人々は、この点で偽物で、本気で仕事をしたことがない連中だ。一度も。
自分は自分の同類は1人しかみたことがない。妹島和世というひと。この人物もこの点、自分と全く又は殆ど同じで明らかに本気で建築設計をやっていた。真剣度なんて仕事のやり方みてたら大体すぐ分かる話と思う。
世人は、仕事に命を懸けていないので、途中で過労死したり(別に責めもしないがこんなのゲームオーバーなんだから或る意味で仕事を本気でやってないだけのことだ。上司との政争含め無理やり休息を取るのも戦の一部)、逆に手抜きで適当に給料の為とかほざいていて、誰一人全く話も気も合わなかった。
四捨五入したらほぼ100%の人間が、偽物のこの世で、そいつらが口々にいうのはこれまたほぼ100%がなんの有効打も伴わない的を外した悪口とか愚にもつかない誹謗とかなので、少なくとも芸術を極めようと志せば世人は完全無視に限る。それができないひとは、いわゆる一流芸術家を目指しても無益有害だ。
最近、ある芸大教授が馬乗りで若手ディスってきたとかで南関人同士こぜりあいになりつつある。黒田vs天心の時点から続く芸大政争の最先端とも思って観察はしているんだが、こういうのにどれだけ没入しても芸術的には何一つとして得る物がないだろう。僕が会田誠と議論した場合みたいに永遠の平行線だ。
重要なのは、アインシュタインがいったよう、世間は無視して仕事に没頭する事でしかない。ウォーホルみたいにニュース写真とか世事のスナップを作品にとりこんでたキャラはしばしばいたが、そういうのも、一種の離反的な上位認知してるのであって実際には(一方的に銃撃されたの除けば)渦中ではない。
本来、政治すべき階級なのに、遊興に耽っていた二流政治屋だった(が故に実を伴う武家政治の発端を開いた)という当然の評価を除けば、『明月記』「紅旗征戎吾が事に非ず」は藤原定家がイスラエル初代大統領を断るアインシュタイン、或いは仏的老荘的脱俗観とほぼ同じ観点から俗界をみていた証だろう。
『方丈記』を書いたとき鴨長明は、世俗的地位を意図的に捨てていただろう。それは都落ちでもなければ高知系インフルエンサーの田舎アゲ成金自慢による逆顕示消費でもない。
立派な芸術、美術の類も、やはり究極では世間を外部から記録するものに過ぎない。それは歴史的象徴化で、政経要素の捨象だ。
世人がみな死に絶えてから、初めて我々の仕事は輝きを放ち始める。なぜならそれは金より遥かに長い間、価値を持ち続ける真の、そして唯一の仕事で、実際に滅び去った文明の記録として我々が知っているのは凡そ全て当時の芸術だけである。次の又は別の文明の人々にも唯一意味を持つ最高の仕事。
ガウタマもソクラテスも、孔子も何もまともな詩文を残さずに死んだ。彼らの思想を汲み取って、立派な文芸にまとめあげた文章家がいなければ、我々は貴重な聖人の教えをしることもなかった。芸術を極めるとは、その時代を別の時代の人々に伝える唯一無二の箱舟に乗ることだ。それは世俗的では全然ない。
当時の世人はほぼ一人の例外もなく、語るに落ちる俗悪な存在であろう。それは聖人以上の存在からみれば0歳のときから周囲を取り巻く愚劣極まりない哺乳類の間で、散々見知ってきたことでなければならない。だからこそ、唯一の尊い仕事に就く準備をはじめねばなるまい。それが美術の修養という事だ。